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下剋上げこくじょう

下剋上とは?

下剋上とは、下の立場の者が実力で上の者をしのぎ、取って代わる動きのことです。戦国時代には、守護代が守護を、家臣が主君を、管領(将軍を補佐する幕府の最高職)が将軍を押しのけました。

1471年に越前の朝倉孝景、1486年に出雲の尼子経久が守護の家を押しのけて国の実権を握り、1507年には越後の守護代・長尾為景が守護を討ちます。
1485年、南山城の国人と住民が畠山氏の両軍を国から退去させ、興福寺の僧・尋尊じんそんがその集会を日記に書き留めます。
管領・細川政元ほそかわ まさもとが将軍・足利義材を追放して足利義澄あしかが よしずみを将軍に立て、同じ年に幕府の伊勢氏の一族・伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆へ討ち入ります。
1549年に三好長慶みよし ながよしが主家の細川晴元ほそかわ はるもとを破り、1550年ごろまでに斎藤道三さいとう どうさんが守護・土岐頼芸を大桑城から追放し、1551年に陶晴賢すえ はるかたが主君・大内義隆おおうち よしたかを自害に追い込みます。
1554年に清洲織田氏の織田信友おだ のぶともが守護・斯波義統しば よしむねを殺し、織田信長おだ のぶながが1555年に信友を倒して清洲城を、1559年に岩倉城を落として尾張をほぼ統一します。
後世の物語や小説・映像作品が、早雲を「素浪人」、道三を「油売りからの一代国盗り」、晴賢を「逆臣」として描き、その像が広まります。

守護を押しのける——越前・出雲・越後で、国元を動かした家が主家を上回った

室町幕府が国ごとに置いた守護は京都にいることが多く、国元は守護代(守護の代理として現地を治めた役)や有力な家臣が動かした。だから、守護代の家が守護より強くなることがあった。応仁の乱のあと、その逆転が各地で形になる。

1471年 越前——朝倉孝景が、主家の斯波氏を押しのけて一国を手にした

朝倉孝景は、越前の守護・斯波氏の家臣で、応仁の乱では西軍の斯波義廉方として京都で戦った。1471年5月、越前の守護職は孝景の望みに任せるという将軍・足利義政あしかが よしまさの御内書(将軍の私信の形の文書)を東軍から得る。そこで孝景は東軍に転じて挙兵し、越前へ戻った。以後、同じ斯波氏の守護代だった甲斐氏と毎年のように戦い、そのつど甲斐氏を国外に追い出して、1472年秋には越前の府中と敦賀郡を制圧した。守護の斯波氏は越前を失い、家臣の孝景が一乗谷を本拠に定めて家臣を集めた。

1486年 出雲——尼子経久が、追われた富田城を奪い返した

尼子経久は、出雲の守護・京極氏の守護代だった。京極氏は近江や京都を本拠としていたため出雲の現地支配は尼子氏が担っていたが、経久は1484年ごろ、幕府や守護の命に背いたという名目で守護代を解かれ、月山富田城がっさんとだじょうを追われるが、実際の理由は諸説ある。1486年、経久は富田城を奇襲して奪い返し、以後、出雲の国衆を一つずつ従えて、守護の京極氏を名ばかりの存在にした。

1507年 越後——長尾為景が守護を討ち、新しい守護を立てた

長尾為景は、越後の守護代・長尾氏の当主で、上杉謙信うえすぎ けんしんの父にあたる。越後は守護の上杉氏が支配し、守護代の長尾氏が国の経営にあたっていた。1507年、為景は守護の上杉房能と対立して攻め、房能を自害に追い込み、房能の養子・上杉定実を新しい守護に立てて、自分は守護代のまま実権を握った。房能の兄で関東管領(幕府が関東に置いた鎌倉府の補佐役)の上杉顕定うえすぎ あきさだは、弟の仇を討つとして1509年に越後へ攻め込み、為景をいったん越中へ追ったが、押し返されて1510年に長森原(今の新潟県南魚沼市)で討たれた。

同時代の記録——1485年、山城国一揆を興福寺の僧・尋尊が日記に書き留めた

応仁の乱が1477年に終わったあとも、家督を争う畠山政長はたけやま まさながと畠山義就の両軍は南山城(今の京都府南部)で対陣を続け、兵糧や人夫の徴発が住民を苦しめていた。1485年12月、南山城の国人(地元の武士)たちは住民とともに集会を開き、両軍に国からの退去を要求する。両畠山軍は実際に撤退した。この集会を、奈良・興福寺の僧・尋尊が日記『大乗院寺社雑事記』に書き留めている。下の者が上の者を退けた事件を、同時代の人が記録した例になる。

書き手 脅かされる側の記録だった

尋尊は関白・一条兼良の子で、興福寺の大乗院(皇族・摂関家の子弟が入る寺)の当主だった。興福寺は大和(今の奈良県)で守護の役目も担った寺で、南山城には大乗院の荘園があり、尋尊にとって国人と住民の集会は、自分の荘園を脅かす事件でもあった。

出来事 寄り合いが、大名の軍を動かした

尋尊が書き留めた相手は、国人と住民の寄り合いだった。翌1486年2月、国人たちは宇治の平等院に集まって「国中掟法」という掟を定め、守護を置かない自治が約8年続く。自治は1493年、幕府が伊勢氏を山城守護に任じると、受け入れをめぐって国人が割れて終わった。

1493年の幕府——管領が将軍を退け、幕府の伊勢氏が伊豆へ討ち入った

地方で守護代が守護を押しのけていたころ、幕府の中心でも同じ形の逆転が起きた。1493年、管領の細川政元は、将軍・足利義材が畠山政長を助けて河内へ出陣した隙に京都で兵を挙げ、義材を追放して従兄弟の足利義澄を将軍に立てた。将軍の交代が管領の軍事力で実現し、以後の将軍は大名の力に頼る立場になる。

1493年 明応の政変——追放された義材は、15年後に将軍へ戻った

追放された義材は、将軍への権利を捨てなかった。1493年6月、幽閉先の京都から脱出して越中の放生津(今の富山県射水市)に移り、大内氏や大友氏ら西国の大名に上洛への協力を求める。尋尊は1494年の元日の日記に「武家大将軍義材、越中に御座なり」と書き、政元は同じ年、公家や寺社が放生津の義材と連絡を取ることを禁じるよう朝廷に求めた。1499年には山口へ下り、1508年、大内義興おおうち よしおきとともに上洛して将軍に戻った。ただ将軍家は義材(のちの義稙)の系統と義澄の系統の二つに分かれたままで、幕府の実権は細川氏へ、次いでその家臣だった三好氏へ移っていった。

1493年 伊豆討入——幕府に仕えた伊勢氏の一族が、東国に領国を築いた

1491年、堀越公方ほりごえくぼう(幕府が伊豆に置いた足利一門)の足利政知が病死すると、長男の茶々丸が政知の後妻・円満院とその子・潤童子を殺して、自ら二代目の堀越公方を名乗った。茶々丸は、政知の時代からの重臣たちともうまくいっていなかった。政知の死から2年後の1493年、伊勢氏の一族・伊勢宗瑞(北条早雲)は、駿河の今川氏親いまがわ うじちからから借りた五百ほどの兵で堀越御所を夜襲した。茶々丸は御所で討たれたとも、近くへ逃れて自害したとも伝わり、堀越公方はここで終わる。宗瑞は御所の近くに韮山城にらやまじょうを築いて本拠とした。政元が同じ年に将軍に立てた足利義澄は政知の子で、茶々丸が殺した円満院と潤童子は義澄の母と兄にあたる。

家臣が主君を——畿内の三好長慶、美濃の斎藤道三、周防の陶晴賢

1540年代から1550年代の初めにかけて、家臣が主君そのものを退ける例が畿内・美濃・周防で相次いだ。

畿内 三好長慶——主家の細川晴元を江口で破り、畿内一円に号令した

三好長慶は、細川晴元の家臣だった。晴元の家中はたびたび分裂を起こし、摂津の国人を味方につけた長慶が大きな力を持つようになる。1549年、長慶は晴元のもとを離れ、江口の戦い(今の大阪市)で勝って晴元を追放した。長慶は芥川山城(今の大阪府高槻市)を拠点に畿内一円に号令し、1560年に河内の飯盛城へ移った。

美濃 斎藤道三——守護・土岐頼芸を大桑城から追い、美濃の戦国大名になった

美濃では守護・土岐氏のもとに守護代の斎藤氏があり、長井氏も実務と軍事に関わっていた。長井家中で頭角を現した長井新左衛門尉の跡を継いだ道三は、守護代・斎藤氏の名字を名乗って斎藤利政と称し、稲葉山城と井口(今の岐阜市)の城下町を整える。そのうえで守護・土岐頼芸をその城・大桑城から追放して(1542年とも1550年ごろとも記され、年は確定していない)、美濃の戦国大名になった。1554年に家督を子の義龍に譲ると関係が悪化し、道三は1556年の長良川の戦いに敗れて討たれる。

周防 陶晴賢——主君・大内義隆を討ち、別の当主を立てた

陶晴賢(主君を討った時点の名は隆房)は、大内義隆の重臣だった。1551年、隆房らは兵を挙げて山口を襲い、主君の大内義隆は長門の大寧寺(今の山口県長門市)で自害した。兵を挙げた理由は、史料では一つに確定できない。晴賢は大友宗麟おおとも そうりんの弟を大内義長として当主に迎えて実権を握ったが、毛利元就もうり もとなりに離反されて広島湾岸の城を奪われ、1555年に安芸の厳島へ渡って敗れ、自害した。晴賢が立てた義長も1557年に自害し、大内氏は最後の当主を失った。

尾張——庶流の弾正忠家が、守護代の家を実力で越えた

尾張では守護・斯波氏のもとで織田氏が守護代を務め、戦国期には上四郡(尾張北部の四つの郡)の岩倉織田氏と、下四郡(尾張南部の四つの郡)の清洲織田氏に分かれていた。信長の織田弾正忠家は、清洲織田氏を支えた三奉行(守護代家に仕えた三つの家)の一つで、織田一族の庶流(本家から分かれた家筋)だった。父・織田信秀おだ のぶひでが津島・熱田の商業地を背景に那古野・古渡へ拠点を広げ、主家をしのぐ勢力を持ったが、尾張統一には至らない。1551年に信秀が死ぬと、信長は分裂した織田家の一角から出発した。

  • 1554年、清洲織田氏の織田信友が、守護・斯波義統を殺す。守護と守護代の関係は決定的に崩れ、信長は斯波氏の遺児を保護して信友と対立を深める。
  • 1555年、信長が信友を倒し、清洲城を押さえる。叔父・織田信光おだ のぶみつの協力を得て信友を倒し、信長は那古野城から尾張の政治の中心だった清洲城へ移って本拠にした。
  • 1559年、岩倉城を落とす。浮野での交戦を経て、上四郡の岩倉織田氏の織田信賢おだ のぶかたを滅ぼした。清洲・岩倉という自分より上の立場だった家を実力で退け、信長は尾張をほぼ統一する。翌1560年には桶狭間の戦いで今川義元いまがわ よしもとを討った。残るのは、岩倉攻めでは信長に協力した犬山城の織田信清おだ のぶきよで、信長が犬山城を攻めて落とすのは1565年になる。

語られ方——「素浪人」「油売り」「逆臣」の像は、後世の物語や小説・映像作品で広まった

早雲 「素浪人」から、幕府の伊勢氏へ

「素浪人からの下剋上」は小説や映画などの創作で定着した見方で、近年の研究では幕府の政所まんどころを代々務めた伊勢氏の出身という出自が重視されている。「北条早雲」の名も後世の呼び方で、本人は生涯「伊勢」を名乗り、北条の名字は子の氏綱が採用した。

道三 「一代の国盗り」から、親子二代へ

「油売りから一代で美濃を奪った」という物語は、道三一人の生涯として語られてきた。近年は、父と子の二代で進んだ動きを後世の物語が一人の成功譚にまとめた可能性が重視されている。

晴賢 「逆臣」と「偽主」の像は、毛利氏側の歴史観から

江戸時代以降、晴賢は主君を討った悪役として語られ、晴賢が立てた大内義長も正式な当主でない「偽主」と見なされてきた。この見方には大内氏を滅ぼした毛利氏の側の歴史観が影響しており、近年は義長を大内氏の正式な当主と捉え直す動きがある。

経久 「謀聖」から、追放と奪回を重ねた守護代へ

尼子経久が謀略の名人だったという「謀聖」の像は後世の評価で、正月の祝いに紛れて富田城に入ったという奪回の細部も後世の記録によるもので、同時代の史料では確かめられない。「十一か国の太守」も影響の及んだ範囲を広く数えた表現で、直接支配したのは出雲を中心とする数か国になる。

下剋上の疑問に答える

明応の政変が「戦国時代の始まり」といわれるのは、下剋上と関係がある?

関係がある。明応の政変では管領が将軍を実力で交代させ、将軍家が義材の系統と義澄の系統に割れた。九州や中国地方の大名はどちらの将軍に付くかで家の中から割れ、1500年から1530年ごろにかけて各地の分裂と争いが一気に広がった。幕府の中心で起きた下剋上が地方の争いを広げた転換を重く見て、ここを始まりとする見方がある。応仁の乱(1467年)を始まりとする見方が長く一般的で、関東ではそれより早い1454年の享徳の乱から戦乱が始まっており、始まりの年は地域で違う。

下剋上で成り上がった家は、その後どうなった?

朝倉・尼子・長尾・北条・織田のように、上の立場の家を押しのけた家は、幕府の任命に頼らず自分の力で領国を治める戦国大名になった。その先は家ごとに分かれる。朝倉氏は孝景から五代続いたのち、織田信長と対立して1573年に滅びた。尼子氏は経久の孫・晴久が八か国の守護に任じられたが、毛利氏との争いに敗れ、1566年に月山富田城を開いて降伏した。長尾氏は為景の子・謙信が1561年に関東管領・上杉憲政うえすぎ のりまさから上杉の名跡と関東管領職を継いだ。北条氏は宗瑞が1495年に大森氏から小田原城を奪い、1516年に三浦氏を滅ぼして相模一国を平定し、以後五代およそ百年、小田原を関東の政治の中心にした。織田氏は信長が美濃・畿内へ進んで天下統一を目前にしたが、1582年の本能寺の変で信長が倒れ、政権は家臣の豊臣秀吉とよとみ ひでよしが引き継いだ。

豊臣秀吉の出世も、下剋上?

下剋上には当たらない。秀吉の出世は、主君から与えられたものになる。秀吉は織田信長の家臣として浅井・朝倉との戦いなどで実績を重ね、1573年に北近江の領地と小谷城を与えられ、琵琶湖岸の長浜に城を築いて城と領地と家臣を持つ大名になった。さらに中国攻めを任され、毛利氏と向き合う軍団の司令官になる。主君に領地と戦線を任されて上がった出世で、このページで見てきた逆転とは向きが違う。

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参考にした資料