明応の政変とは?
1493年、将軍が交代する
細川勝元の子・細川政元は、将軍・足利義材と対立し、明応2年(1493)、義材が畠山政長を助けて河内へ出陣した隙に義材を追放しました。その後、義材の従兄弟にあたる足利義澄が将軍となります。将軍の交代が有力守護・管領の軍事力によって実現したことは、幕府の政治が抱えていた不安定さを示しました。
明応の政変が残した三つの影響
将軍権威の揺らぎ
将軍の地位が有力者の対立によって左右される状況が、はっきり表れました。以後も将軍をめぐる争いは畿内政治の大きな軸になります。
細川政元の台頭
政元は管領として幕府を支えるだけでなく、京都の政治を主導する存在になります。室町後期の畿内では、実力者の力が制度の上に出る場面が増えていきます。
戦国期への入口
明応の政変を戦国時代の始まりと位置付ける見方があります。ただし始まりの年には複数の考え方があり、この事件は「応仁の乱後も秩序の組み替えが続いた転機」と捉えると分かりやすいです。
応仁の乱から三好・織田へ
応仁の乱の後、細川氏の内部抗争と将軍家の対立が畿内で続きます。その中から三好氏が台頭し、さらに16世紀後半には織田信長が京都へ進出します。明応の政変は、この長い流れの前半にある大きな節目です。
明応の政変についてのよくある疑問
なぜ細川政元は将軍を追放したのか?
義材は前将軍・足利義政の弟の子で、政元が推していた義澄(義政の甥)ではありませんでした。義材が畠山氏の討伐に政元の意向を無視して出陣したことで対立が表面化し、政元は日野富子らと結んで京都でクーデターを起こしました。将軍の人選を細川氏が握るための政変でした。
応仁の乱と明応の政変はどちらが戦国の始まりか?
応仁の乱(1467年)を始まりとする見方が長く一般的でしたが、応仁の乱後も幕府は機能を保っていたとして、将軍の権威が決定的に崩れた明応の政変を始まりとする見方が近年は有力です。どちらも「一つの出来事で時代が変わった」のではなく、段階的な変化の節目です。
追放された義材はどうなったのか?
義材は越中・周防などを転々とし、大内義興の支援で1508年に京都へ戻って将軍に復帰しました(このとき義稙と改名)。しかし1521年に再び京都を追われ、阿波で死去しています。将軍が大名の軍事力で立てられ、追われる時代になっていました。