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管領かんれい

管領とは?

管領とは、室町幕府で将軍を補佐した役職のことです。将軍の命令を文書にして各地の守護へ届け、幕府の政務を取り仕切りました。細川ほそかわ・斯波しば・畠山はたけやまの三家から一人が選ばれて務め、応仁の乱のあとは細川氏がほぼ独占します。

1360年代、将軍家の家政を取り仕切る「執事」が「管領」と呼ばれるようになり、幼い足利義満を支えた細川頼之よりゆきのころに制度として固まります。
将軍の仰せを受けて奉書を出し、守護や武士に命令を伝えます。これが管領の仕事の実体です。
細川・斯波・畠山の三家が管領を出す家として定まり、将軍がその中から一人を選んで務めさせます。
応仁の乱後は細川氏がほぼ独占。1493年の明応の政変で、管領・細川政元ほそかわ まさもとが将軍を交代させます。
同じ名前の職は鎌倉府にもあり、こちらは上杉氏が世襲。鎌倉公方かまくらくぼうとの衝突を繰り返しました。

執事から管領へ——将軍家の家来頭が、幕府の政務のトップになった

「管領」という言葉は、室町幕府の始まりからあったわけではない。もとの名は執事しつじで、1360年代に管領と呼ばれるようになった。

執事 将軍家の家政を取り仕切る家来頭

執事は、足利将軍家の家の中の仕事を取り仕切る役だった。幕府が全国の守護を束ねる政権へ育つにつれて、家の中の役では収まらなくなる。1362年に執事に就いた斯波義将よしゆきのころが、管領へ変わる前の段階になる。

管領 幼い将軍を支え、政務を総覧する役

1367年、幼い3代将軍・足利義満を支える役として細川頼之が管領に就いた。このころから管領が出す文書の数が、執事の時代と比べて格段に増える。管領という名前と役割は、頼之のころに固まったとされる。

奉書という仕事——将軍の命令を届けるのが、管領の実体だった

管領が何をしていたかは、管領が出した文書そのものに残っている。将軍の仰せを受けて、それを文書にして相手へ届ける。この形式の文書を奉書ほうしょと呼ぶ。

史料 1376年、細川頼之が出した奉書

将軍義満の仰せを受けた管領・細川頼之が、信濃国の守護・上杉朝房ともふさに宛てて出した文書が残る。内容は、信濃国の神野郷しんのごう(今の長野県中野市)の土地を不当に押さえている井上氏を退け、正当な相手に土地を引き渡して受取状を出させよ、というもの。土地争いの裁定を、将軍の名で守護に実行させる——管領の日常の仕事になる。

限界 管領は主君ではない

奉書はあくまで将軍の意思を「奉じる」文書で、管領が自分の名で命令したものではない。訴訟や文書の実務は奉行人たちが担い、管領一人で政務が回っていたわけでもない。就任には多くの出費も伴い、斯波義淳よしあつのように就任を固辞し、退任を願い出た例もある。

三管領——細川・斯波・畠山から、将軍が一人を選んだ

14世紀の終わりまでに、細川氏・斯波氏しばし・畠山氏の三家が管領を出す家として定まり、この三家を三管領さんかんれいと呼ぶ。順番制ではなく将軍が一人を選び、同じ人物の再任も、長い在職もあった。

細川氏 要所に必ず名前が出る家

細川氏は、本家の京兆けいちょう家が摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護を持ち、瀬戸内に一族の守護家を広げた。管領制を固めた頼之、応仁の乱の細川勝元ほそかわ かつもと、明応の政変の政元と、節目ごとに細川の名が出る。乱のあとは管領をほぼ独占した。

斯波氏 大国を任され、守護代に食われた家

斯波氏は、越前・尾張・遠江とおとうみなど東海道・北陸の大国の守護を務め、執事から管領へ切り替わる時期には義将が幕政を担った。広い分国を守護代に任せたため、越前の朝倉氏、尾張の織田氏が自立すると力を失っていく。

畠山氏 家督争いが応仁の乱を呼んだ家

畠山氏は、河内・紀伊・越中などが基盤で、1398年の畠山基国もとくにの就任で三家の枠組みがそろった。持国の後継をめぐる義就よしひろと政長まさながの争いが、応仁の乱の火種になる。

明応の政変——補佐役の管領が、将軍を交代させた

応仁の乱で幕府そのものが東西に割れると、管領の権威だけで幕府を束ねることはできなくなった。乱のあと、管領の座は細川京兆けいちょう家(細川氏の本家)がほぼ独占する。

1493年 明応の政変

1493年、管領・細川政元まさもとが、10代将軍・足利義稙よしたねを退けて、11代将軍に足利義澄よしずみを立てた。将軍を補佐するはずの管領が、将軍を交代させたことになる。この政変で将軍家は二つに割れ、以後の畿内きないの争いの出発点になった。

その後 管領の座は、政治の中心から外れる

政元が家臣に暗殺されると、細川京兆家は後継者争いに入り、政治の主役は管領の座ではなく細川家の家督をめぐる争いになる。やがて家臣の三好長慶ながよしが細川氏をも京都から追い、管領も将軍も立てないまま京都を支配する時代が来た。

関東管領——鎌倉公方の補佐役を、上杉氏が世襲した

同じ「管領」の名を持つ職が、関東を治める役所・鎌倉府にもあった。足利尊氏が幕府を開いたときに、鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐する役として置いたものになる。

京都との違い 主は公方、担い手は上杉氏

関東管領かんとうかんれいが仕える相手は将軍ではなく鎌倉公方。担い手は三家の交代ではなく上杉氏の世襲で、本流の山内上杉家が務めた。幕府とのつながりも持っていたため、公方と幕府がこじれると幕府側に立つことが多かった。

その後 職の名は、上杉謙信へ

戦国時代、北条氏康ほうじょう うじやすに敗れた関東管領・上杉憲政のりまさは、1552年に越後の長尾景虎を頼った。1561年、景虎は山内上杉家を相続して関東管領に就き、将軍・足利義輝あしかが よしてるの内諾も得て、名を上杉政虎——のちの上杉謙信うえすぎ けんしんと改める。鎌倉府が消えたあとも、関東管領の名は謙信の関東出兵の旗印として生き続けた。

管領の疑問に答える

管領は何人いた?

同時に一人になる。「三管領」は三人の管領のことではなく、管領を出す資格を持つ三つの家の呼び名で、その中から将軍が一人を選んだ。

将軍を補佐する役職は、幕府ごとに違う?

違います。室町幕府では管領、鎌倉幕府では執権、江戸幕府では老中が将軍を支えました。

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参考にした資料