なぜ家康は江戸に幕府を開けたのか
家康が江戸を本拠にしたのは、1603年より前のことです。1590年、小田原征伐の後に関東へ移されると、家康は江戸城を拠点に関東の領国経営を始めました。関東は広い後背地と水運を持ち、家康が新たな政権の基盤を築くのに適した場所でした。
1600年の関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、全国の大名を再配置する力を得ます。その三年後、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。これは、戦国の有力大名だった徳川家が、全国の武家を束ねる政権の中心になったことを示す出来事です。
関ヶ原までに得た土台
関東入国で広い領国を持ち、関ヶ原の勝利で全国の大名配置を変える力を得ました。江戸幕府は、この二つを土台に始まります。
1603年に得た権威
征夷大将軍への任官は、家康が武家の棟梁として政権を担うことを朝廷の権威と結びつけるものでした。
江戸幕府が固まるまでの流れ
- 011590年、家康が関東へ入る
小田原征伐の後、家康は旧北条領へ移り、江戸城を本拠に選びます。ここから江戸の整備が始まりました。
- 021600年、関ヶ原で勝利する
家康は関ヶ原の戦いに勝ち、敗れた大名の領地を処分して、徳川を中心とする大名配置をつくります。
- 031603年、家康が征夷大将軍になる
朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。江戸は全国の武家政権の中心となりました。
- 041605年、秀忠に将軍職を譲る
家康は将軍職を子の秀忠へ譲り、徳川家が将軍職を世襲する姿を早くも示します。
- 051614〜1615年、大坂の陣で豊臣家が滅ぶ
大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅び、武家諸法度などの法令が出されます。ここで徳川政権はより強く固まりました。
江戸幕府ができて何が変わったか
江戸幕府の成立で、全国の武家を動かす中心は、京都や大坂だけではなく江戸にも置かれることになります。将軍を頂点に、大名を配置し、朝廷や諸大名との関係を定める仕組みが、長い徳川の時代を支えました。
徳川家康
- 初代将軍
1603年に征夷大将軍となり、江戸に武家政権を開きました。
- 大御所として指揮
将軍職を秀忠へ譲った後も、駿府を拠点に政治の大きな方針を動かします。
- 徳川の基盤を整える
大名配置、江戸の整備、豊臣家との関係を通じて政権を固めました。
徳川秀忠
- 2代将軍
1605年に将軍職を継ぎ、徳川家による世襲の形を早くも示しました。
- 江戸の将軍
家康が駿府で大御所となった後、江戸で幕府の中心を担います。
- 制度を受け継ぐ
家康の死後も幕府を維持し、3代家光へつながる政権の土台になります。
豊臣秀頼
- 大坂城に残る
幕府成立後も、豊臣家は大坂城を本拠に有力な存在として残りました。
- 二つの権威
将軍の家康と、秀吉の遺児である秀頼という二つの存在が並び立ちます。
- 大坂の陣へ
この緊張関係は、1614年・1615年の大坂の陣で決着します。
「1603年の開府で完成」だけで見ない
1603年は江戸幕府の始まりを示す大切な年です。ただし、その日に全国の仕組みが完成したわけではありません。家康は関東入国から江戸を整え、関ヶ原の後に将軍となり、さらに将軍職の世襲と大坂の陣を経て、徳川政権を固めていきました。
三つの読み解きポイント
- 江戸は1590年から整え始めていた
家康が江戸に入ったのは、小田原征伐の後です。1603年の開府は、関東で積み上げてきた領国経営と都市整備の上にあります。
- 秀忠への継承が重要だった
家康は1605年に秀忠へ将軍職を譲りました。初代の力だけに頼らず、徳川家が将軍職を継ぐ政権だと示した点が大きな意味を持ちます。
- 大坂の陣と法令で政権が固まった
豊臣家が残る間は、徳川の支配が完全に定まったわけではありません。大坂の陣の後、武家諸法度や禁中並公家諸法度が出され、武家と朝廷に関する枠組みが整えられます。
江戸幕府を「将軍になった年」だけで見るのではなく、関東入国から大坂の陣までの約25年を一続きでたどると、戦国の終わり方が見えてきます。
参考にした資料
江戸幕府の成立と、徳川政権が固まる過程を整理しています。幕府の制度は長い時間をかけて整えられたため、ここでは成立期の大きな流れを中心に扱っています。
江戸幕府から、戦国をたどり直す
江戸幕府は、家康が突然つくったものではありません。関東入国、関ヶ原、大坂の陣へと戻ると、信長・秀吉・家康の時代がどうつながったかを、最後から逆に読み直せます。