事件・合戦ページ / 1590年 / 関東

小田原征伐おだわらせいばつ

1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻め、関東最大の戦国大名を滅ぼした戦いです。北条氏の滅亡によって秀吉の全国統一は仕上げの段階に入り、徳川家康は関東へ移ることになります。

1590年 豊臣秀吉 小田原北条氏 関東

小田原征伐とは?

  • 1590年、秀吉が北条氏を攻めて降伏させた。20万を超える大軍で小田原城を囲み、約3か月で北条氏直が降伏。北条氏政は切腹、五代100年の北条氏は終わった。
  • 口実は名胡桃城事件。秀吉の裁定に反して北条方が真田領の名胡桃城を奪ったことが、惣無事令(大名同士の戦を禁じる命令)違反として開戦の理由にされた。
  • 力攻めではなく包囲戦だった。秀吉は小田原城を囲んだまま、各地の支城を落とし、石垣山に城を築いて長期戦の構えを見せた。
  • 伊達政宗の参陣で東北も従った。遅れて小田原に参陣した政宗を秀吉が許し、これで全国の大名がほぼ秀吉に従う形になった。
  • 関東は徳川家康のものになった。北条氏の旧領は家康に与えられ、家康は江戸へ移った。秀吉の全国統一の仕上げとなる戦いでもある。

なぜ秀吉は北条氏を攻めたのか

九州を平定した秀吉にとって、次に従わせるべき大勢力が関東の小田原北条氏でした。秀吉は関東・奥羽の大名間の私闘を禁じる「惣無事令」を掲げ、北条氏にも上洛して従うよう求めます。北条氏は関東で独自の勢力を築いており、秀吉の新しい秩序にすぐには入らない立場でした。

直接のきっかけは1589年、北条方の武将が上野の名胡桃城を奪った事件です。秀吉はこれを裁定と惣無事令に背く行為とみなし、1590年春、全国の諸大名を動員して関東へ軍を進めました。北条氏は小田原城を中心に、多くの支城と総構(そうがまえ、城下町ごと囲む堀と土塁)で守る籠城策を選びます。

秀吉のねらい

関東までを自らの秩序に組み込み、全国統一を仕上げること。各地の大名を動員して、豊臣政権の力を示す戦いでもありました。

北条氏のねらい

小田原を拠点に築いた関東での支配を守ること。総構と支城網を備えた小田原城に籠もり、長期戦に持ち込もうとしました。

小田原征伐の流れ

  1. 011589年、名胡桃城事件が起こる

    真田領とされた名胡桃城を北条方が奪い、秀吉は北条氏への出兵を決める大きな理由としました。

  2. 021590年春、豊臣軍が関東へ進む

    秀吉は諸大名を動員して、陸と海から関東へ進軍します。小田原城だけでなく、北条方の支城も各地で攻められました。

  3. 03小田原城を包囲する

    北条氏は小田原城に籠城し、秀吉は長期戦に備えます。小田原を見下ろす石垣山には、秀吉の本陣となる城が築かれました。

  4. 04支城が落ち、包囲が深まる

    山中城・八王子城・鉢形城はちがたじょうなどが相次いで落ち、小田原城だけで戦いを続けることが難しくなっていきます。

  5. 05氏直が降伏し、北条氏が滅亡する

    1590年7月、氏直が開城して降伏。氏政と、弟で八王子城主だった氏照は切腹を命じられ、戦国大名としての小田原北条氏はここで終わります。支城の忍城おしじょうはその後に開城しました。

小田原征伐で何が変わったか

小田原征伐は、一つの城を攻略しただけの戦いではありません。関東の最大勢力である北条氏が滅び、豊臣政権が全国を動かす力を示しました。そして、旧北条領をどう配分するかが、家康の江戸入国と、その後の東国のあり方を決めます。

「一夜城で北条を降した」だけで見ない

石垣山一夜城の出現は、小田原征伐を象徴する有名な場面です。小田原征伐は、一夜城だけで決着したのではなく、数か月に及ぶ包囲と、支城を含めた広い戦いの末に北条氏が降伏した戦いでした。

四つの読み解きポイント

  • 小田原城は非常に大きな要塞だった

    城下町まで囲む総構を備えた小田原城は、戦国時代最大級の城郭でした。北条氏は、城と城下を一体で守る防御を整えていました。

  • 支城の戦いが包囲を左右した

    支城が落ちると、小田原城の外から助ける力や、北条領全体の連携が弱まっていきます。

  • 忍城は水攻めに耐え、小田原より後に開城した

    忍城(今の埼玉県行田ぎょうだ市)は北条方についた成田氏長の居城で、氏長自身は小田原城に籠城し、城主不在のまま城兵が籠城戦を続けました。秀吉方の石田三成いしだ みつなりは、全長28キロメートルといわれる堤を築き、当時の利根川と荒川の水を引き入れて水攻めにしましたが、堤が切れて失敗に終わります。忍城は小田原城が降伏した後も持ちこたえ、氏長の命によって開城し、豊臣軍に引き渡されました。

  • 秀吉一人の戦いではない

    豊臣軍には全国の大名が加わりました。信長の側近から秀吉の先鋒大名へ進んだ堀秀政ほり ひでまさも参陣し、陣中で病死しています。小田原征伐は、秀吉がつくった政権が、諸大名をまとめて大規模な軍事行動を行えたことを示す戦いでもあります。

城の「落ち方」だけでなく、北条氏の領国を支えた支城網がどう崩れ、戦後に誰が関東を治めることになったのかまで見ると、小田原征伐の意味がつかみやすくなります。

小田原征伐の相関図

1590年、秀吉が21万の大軍で北条を囲んだ。左が籠城した北条方、右が攻めた豊臣方。中央の督姫(家康の娘で氏直の妻)と、遅参した伊達政宗が、この戦いの複雑さを示している。

小田原征伐の相関図豊臣秀吉は北条氏政・氏直父子を小田原城に包囲。開戦の口実は北条方による名胡桃城(真田昌幸の城)の奪取。徳川家康は先鋒を務めたが、娘の督姫は氏直の妻だった。伊達政宗は遅参して臣従。戦後、氏政は切腹、氏直は高野山へ、家康は関東へ移封された。 北条方(籠城) 豊臣方(包囲) ほうじょう うじまさ北条氏政隠居・実権を握り開戦へ ほうじょう うじなお北条氏直五代当主・降伏して高野山へ ほうじょう うじのり北条氏規交渉役・家名を後世に残す だて まさむね伊達政宗遅参して臣従 とくひめ督姫家康の娘・氏直の妻 とよとみ ひでよし豊臣秀吉天下人・21万で包囲 とくがわ いえやす徳川家康先鋒・戦後は関東へ移封 さなだ まさゆき真田昌幸名胡桃城を奪われた側 戦後、切腹を命じる 21万で包囲(1590) 父・開戦を主導 父娘 婚姻 従い、先鋒を務める 家臣が名胡桃城を奪う(開戦の口実) 小田原に遅参・臣従
この図で見てほしいのは、中央の督姫です。家康の娘が北条の当主の妻——つまり家康は、攻める側の先鋒でありながら娘婿を攻めていた。この縁が氏直の助命(高野山行き)につながり、氏規の系統はのちに狭山藩として幕末まで残る。開戦の口実になった名胡桃城の一件が右下の昌幸につながり、真田と北条の因縁も一枚に収まっている。

図の人物:豊臣秀吉とよとみ ひでよし・北条氏政ほうじょう うじまさ・北条氏直ほうじょう うじなお・徳川家康とくがわ いえやす・真田昌幸さなだ まさゆき・伊達政宗だて まさむね

小田原征伐についてのよくある疑問

北条氏はなぜ秀吉に従わなかったのか?

関東に独自の支配秩序を築いていた自負、家康との姻戚関係への期待、家中で上洛の是非をめぐって意見が割れたことなどが重なったと考えられています。結果として臣従の時機を逸し、名胡桃城事件なぐるみじょうじけんを口実に攻められました。詳しくは北条氏で整理しています。

「小田原評定」とは何か?

籠城中の北条氏が、降伏か抗戦かを決められず会議を重ねたことを指す言葉で、「長引いて結論が出ない相談」の意味で使われます。ただし実際の北条家中の議論がどうだったかは史料で確かめにくく、後世に作られた言い回しの面があります。

石垣山一夜城は本当に一夜で建ったのか?

秀吉が小田原城を見下ろす石垣山に築いた城は、約80日かけて建てられ、完成後に周囲の木を切って一気に姿を見せたため「一夜城」と呼ばれました。一夜で建ったわけではなく、北条方に心理的な打撃を与える演出だったとされます。

小田原征伐で全国統一は終わったのか?

北条氏の降伏で関東が従い、続いて奥州仕置おうしゅうしおきで東北の大名も秀吉に従いました。翌1591年の九戸政実くのへまさざねの乱を鎮めたことで、秀吉に従わない大名はいなくなります。小田原征伐は統一の仕上げの戦いですが、最後の戦いは九戸でした。

小田原征伐から、次にたどる

北条氏を攻めるまでの経緯、城ごとの攻防、家康の関東入国へ。小田原征伐を起点にすると、秀吉の全国統一と家康の江戸時代への道筋がつながります。

参考にした資料

小田原征伐と戦後の関東再編を整理しています。兵数や一夜城の伝承など、史料や研究によって見方が分かれる事項があります。