城下町とは?
城下町とは、大名が家臣と商人・職人を城のまわりに集めて住まわせ、武家地・町人地・寺社地に分けて造った町のことです。今の都道府県庁所在地のほとんどは、この城下町から始まっています。
家臣を集める——館のそばに武士を住まわせるところから始まった
応仁の乱のあと、各地の国衆や戦国大名は、平地の館から山の城へ本拠を移した。家臣をその城下に住まわせる命令は、大内氏と織田政権の記録で確かめられる。
仕組み 1486年、大内氏——従わない者を、家臣から外すと定めた
山口(今の山口県山口市)に館を構えた大内氏が文明18年(1486)に出した壁書(家中に示した決まり書き)は、城下に住む命令に従わない者を「永く御家人を放たるべし」、つまり家臣の列から外すと定めた。城下に住むことは、従わなければ罰のつく命令だった。
実例 1519年、甲府——館を建てて4か月、その年のうちに移り住んだ
武田信虎は、永正16年(1519)8月15日に甲府(今の山梨県甲府市)で館(躑躅ヶ崎館)の造営に着手し、4か月ほどで完成させて12月20日に移り住んだ。この館には信虎・信玄・勝頼の三代が住み、まわりで城下町の整備が進む様子が当時の日記に記されている。
仕組み 織田政権——家臣を土地から離して、軍人と役人に変えた
家臣はもともと、それぞれの領地に住む在地領主(自分の土地を治める武士)だった。そのあとの織田政権は、この家臣団に城下への集住を強制し、家臣を土地から切り離して軍人と役人に変えた。武士と百姓の身分が分かれる兵農分離は、ここで進んだ。
似た町との違い——寺・参道・街道・港からできた町と、何が違うのか
戦国の町には、寺の境内がそのまま町になったもの、参道に沿って伸びたもの、街道の両側に並んだもの、港に集まったものもあった。城下町は、大名が城を中心に人を集め、計画して造った点でこれらと分かれる。
| 町の種類 | 何を中心にできた町か |
|---|---|
| 城下町 | 大名の城。家臣と、領内の商人・職人が住んだ |
| 寺内町 | 浄土真宗などの寺。町全体を寺の境内と見なし、門徒(信者)と商人・職人が住んだ |
| 門前町 | 寺社の参道。参詣客相手の宿坊と商人・職人が並んだ |
| 宿場町 | 街道。両側に短冊形の宅地を並べ、旅人を泊めた |
| 港町 | 港や川の船着き場。荷を扱う商人が集まった |
町を割る——武家地・町人地・寺社地に切り分けた
城下町の土地は、城のまわりの内堀、武家屋敷の外の中堀、町人地の外の外堀という三重の堀で区切られた。この形は江戸時代にかけて整っていく。
仕組み 武家地——城に近いほど、身分が上だった
武家地では、上級の武士の屋敷が城に近い中堀の内側に置かれ、足軽など下級の武士の住まいはその外周に置かれた。堀で囲まれた区域は曲輪と呼ばれ、今も地名として残る町が多い。
仕組み 町人地——外堀の内側に、職業ごとに集めた
町人地は外堀の内側に置かれ、鍛冶町・船場町のように職業別にまとめられた。徳川家康が居た駿府(今の静岡市)では、城の北西側に武士、南西側に商人・職人が住み分けている。長浜の本町や大坂の高麗橋通のように、大通りから天守を見通せる町割りになっている町もある。
仕組み 寺社地——町のいちばん外に、まとめて置かれた
寺社地は、城下町の内と外の境界、守りの前線になる位置に集めて置かれた。豊臣政権のもとの京都では、聚楽第(豊臣秀吉が京都に建てた屋敷)のまわりに武家地を置き、寺を町の縁へ移して寺町を作っている。寺が一列に並ぶ寺町の地名は、この配置から来ている。
実例 一乗谷——30メートルを1単位に測って区切られていた
越前(今の福井県)の朝倉氏の本拠・一乗谷は、30メートル(当時の100尺)を基準に区画された町だった。武家屋敷は谷の西の山側に大きく構え、町人の家は東側に、間口6〜9メートル・奥行12〜15メートルの区画が道路に面して密集していた。天正元年(1573)に織田信長に焼かれ、町はそのまま土の下に残った。
実例 1583年、金沢——入城したとき、侍も町人も城の中に混じって住んでいた
前田利家が天正11年(1583)に金沢城(今の石川県金沢市)に入ったとき、従ってきた侍・僧・町人は城内の二ノ丸・三ノ丸に住み、「武家・町家打交ざりて居住す」と記録に残る。武家地と町人地を分ける型は、城下町ができたあとに整えられていった。
人を呼ぶ——楽市楽座で、商人を城下へ引き寄せた
城下町には、家臣のほかに商人と職人が要る。大名は領内の市や町を城下へ集め、商いの決まりを緩めて商人を呼び込んだ。命令で移された商人や職人もいた。
仕組み 楽市楽座令——市と町を城下に集め、商いの決まりを緩めた
織田政権は、領国内の市町を城下へ集めて楽市楽座令を出した。商人にとっては、それまで属していた土地と座(商人の組合)を離れ、城下で商売をやり直すことでもあった。大名の側から見れば、交易の安全と秩序を一手に保障する力を握ることだった。
実例 1577年、安土——掟書と町づくりが、ほぼ同時だった
織田信長は、天正4年(1576)正月中旬に安土城(今の滋賀県近江八幡市)の築城を始め、天正5年(1577)6月に安土山下町中(安土城下の町)へ楽市楽座の掟書(決まりを記した文書)を出した。城下町の建設も、ほぼ同じ時期に始まったとみられる。
実例 駿河府中——楽市楽座より前から、職人の町が立てられていた
駿河府中(駿府)では大永年間(1521〜1528)に、革を扱う職人の町が立てられている。今川氏の時代から商いの中心だった本町や今宿の町場は、のちに徳川家康が駿府を作り替えるときにも使われた。商人や職人の町立ては、楽市楽座より前から行われていた。
町ごと動く——本拠が移れば、住人も寺社も移された
城下町は、城のそばに家臣と商人がいることで成り立つ町だった。だから大名の本拠が別の城へ移ると、住人も寺社もまとめて新しい城下へ移された。名古屋の例では、移した理由まで分かる。
実例 長浜——小谷城下の町が、湖岸へ移された
豊臣秀吉が築いた長浜(今の滋賀県長浜市)の町人地には、もとからあった今浜の町と、小谷城下から移された町が並べて置かれた。出どころの違う町が、東西40間・南北60間の同じ寸法の街区に収められている。
実例 1585年、安土から八幡へ——町ぐるみ移された
豊臣秀吉は天正13年(1585)9月、甥の豊臣秀次に八幡山(今の滋賀県近江八幡市)への築城を命じた。安土城はこの年に廃城になり、安土城下の住人は町ぐるみ八幡山の城下へ移された。八幡の町人の記録と、安土と同じ名の町が八幡にあることからそれが分かる。
実例 1610年、清須越——町も寺社も、まとめて名古屋へ
徳川家康が名古屋城を築くと、1610年(慶長15)から清須越が始まった。約6万人と約100の寺社、67の町がすべて名古屋へ移され、1613年(慶長18)に武士と町人の住まいが定まった。低地の清須は洪水や水攻めに遭う恐れがあり、台地の名古屋は熱田の港も近く交通の便がよい、という判断だった。
城下ごと囲む——惣構が、町の外側まで守りに変えた
戦国の終わりごろ、城の堀とは別に、城下町の全体を土塁と堀で囲む惣構(小田原では総構と書く)が現れる。城と武家地に加えて、町人地も寺社地も、まとめて守りの内側に入った。
実例 1590年、小田原——全周約9キロで、城下町ごと囲んだ
小田原(今の神奈川県小田原市)の北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦で、城下町をも取り込む全周約9キロの総構の土塁と堀をめぐらせて豊臣軍を迎えた。城域は最盛期で約400ヘクタールに及び、幅約20メートルの空堀が今も残る。
実例 金沢——二重の惣構が、今は用水になっている
金沢では、慶長4年(1599)に前田利長が高山右近に命じて東西の内惣構を造り、慶長15年(1610)に前田家が東西の外惣構を加えた。目的は金沢城と城下の防備だった。役割を終えた堀は埋め立てで狭くなり、今はまちなかを潤す用水として使われている。
仕組み 大名どうしの戦が終わると、囲む必要がなくなった
京都でも天正19年(1591)、豊臣秀吉が町を囲む土塁の御土居を築いた。城下町の全域を惣構で囲む形は、このころ各地に広がる。だが刀狩と惣無事令(秀吉が大名どうしの戦を禁じた命令)で大名の領国の中から戦が消え、一国一城令(大名の城を一国に一つとする命令)のあとには、惣構を持たない城下町が現れる。
今の町へ——県庁所在地・町名・街路に残った
城下町は、大名が領国を治めるための町として始まり、その骨組みのまま今の都市になった。城が無くなっても、道と町名と土地の使い分けは残る。
県庁所在地 各都道府県の中心都市は、ほとんどが城下町から始まった
各都道府県の中心的な都市は、そのほとんどが近世に城下町として発展した都市で、そのとき整えられた道や区画を今も受け継いでいる。城下町以外から始まった県庁所在地には港町の新潟市があり、門前町から始まった県庁所在地は善光寺の長野市だけだ。
町名 職業の町名が、そのまま残っている
町人地の町名は、集まった職業の名がそのまま今の町名として残っている例が多い。駿府では大工町・大鋸町が今も残る。今川時代に礎がつくられた駿府九十六ヶ町には鋳物師町・紺屋町のような職業由来の町名があり、平成5年から町名碑が立てられている。
街路 城が無くなっても、道は残る
安土城下町があった安土山の南西の微高地は今も住宅地で、そこを通る街路には城下町時代の道を踏襲したものが多い。織田信長が整備した下街道(城下を通る街道)の道筋も現存し、県道と一致する区間がある。
城下町の疑問に答える
城が無くなった城下町は、どうなった?
一国一城令で城と武家地を失い、町人地だけが残った町が数多く出た。残った町人地は、商いの町として自立して続き、周りの農村の産物を扱う商業の小都市(在郷町)へ発展した町もある。
今の町のどこを見れば、城下町だと分かる?
職業を冠した町名、曲輪の地名、堀の跡をなぞる道や用水、寺が一列に並ぶ寺町が手がかりになる。金沢では惣構の堀が用水として残り、安土では城下町時代の道が住宅地の街路になっている。
戦国時代の城下町は、どれくらい残っている?
町全体が残る例としては、一乗谷朝倉氏遺跡が「計画的につくられた町全体が良好に残る戦国期最大の遺跡」と評価されている。278ヘクタールが国の特別史跡、庭園4つが特別名勝、出土品2,343点が重要文化財で、町屋や武家屋敷が石垣・礎石を生かして復原されている。
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参考にした資料
- 国土交通省 国土技術政策総合研究所『歴史まちづくりの手引き(案)』2-1「我が国固有のまちの成り立ち、都市の構造を知る」(城下町の定義・寺内町/門前町/宿場町/港町との区分と各定義・武家地/町人地/寺社地の配置と内堀/中堀/外堀の三層・曲輪の地名・寺社地が境界と防衛の前線に置かれたこと・職業別の町人地と鍛冶町/船場町・県庁所在地のほとんどが城下町起源であること・長野市/新潟市の起源・門前町で唯一の県庁所在地が長野市であること・廃城後に町人地が在郷町として発展した例があること)
- 金沢市『城下町金沢学術研究1 第1分冊 日本の城下町と金沢城下町 ─発展過程と空間類型─』(応仁の乱後の本拠の移動・織田政権の城下集住の強制と兵農分離/商農分離・楽市楽座令と市町の結集・交易の安全と秩序の一元的保障・豊臣政権の三区分・京都の聚楽第と寺町・長浜の今浜町と小谷城下からの移転と街区の寸法・長浜と大坂で天守を見通す町割り・1591年の御土居と惣構の広がり・刀狩と惣無事令のあと惣構を必要としない城下町が成立したこと・一国一城令で町人地だけが自立した町・1546年の金沢御堂の寺内町が城下町へ組み替わったこと・1583年の金沢城内の士庶雑居)
- 滋賀県「特別史跡安土城跡保存管理計画書」第2章 特別史跡安土城跡の概要(1576年正月中旬の築城開始・1577年6月の楽市楽座の掟書と城下町建設の開始・1585年9月の八幡山築城と町ぐるみの移住・安土の街路が城下町時代の道を踏襲していること・下街道の現存と県道との一致)
- 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館「遺跡のご紹介」(30メートル=100尺を基準にした都市計画・特別史跡278ヘクタール・特別名勝の庭園4つ・重要文化財の出土品2,343点)
- 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館「遺跡散策」(武家屋敷が西の山側に大規模・町屋が東側で間口6〜9メートル・奥行12〜15メートル・1573年の織田信長の越前侵攻による焼失)
- 文化庁 日本遺産ポータルサイト「一乗谷朝倉氏遺跡」(「計画的につくられた町全体が良好に残る戦国期最大の遺跡」の評価・石垣と礎石を生かした復原町並)
- 名古屋城公式ウェブサイト(名古屋市)「築城と城下町の形成、清須越」(1610年の清須越の開始・約6万人と約100の寺社と67の町・移転の理由・1613年に住居が定まったこと)
- 小田原市「史跡・小田原城跡」(1590年の小田原合戦で城下町を取り込む全周約9キロの総構を巡らせたこと・最盛期の城域約400ヘクタール)
- おだわらデジタルミュージアム(小田原市)「小田原城総構を歩こう」(総構の総延長約9キロ・幅約20メートルの空堀が残ること)
- 静岡市「徳川家康~大御所と駿府城下町~」(城の北西側に武士・南西側に商人/職人の居住地・職種による住み分け・今川時代からの本町/今宿の町場を利用したこと・大工町/大鋸町が今も残ること)
- 静岡市「駿府九十六ヶ町の町名碑を巡る」(今川時代に礎がつくられ徳川時代に整備された町並み・鋳物師町/紺屋町などの職業由来の町名・平成5年からの町名碑の設置)
- 甲府市「武田氏館跡」(1519年に信虎が築いた本拠・信虎/信玄/勝頼の三代が居住し政務を執ったこと)
- 甲府市「開府500年コラム~序章2~」(1519年8月15日の館の造営着手・4か月での完成・12月20日の夫人との転居・城下町の整備が進む様子が日記に記されていること)
- 金沢市「金沢城惣構跡」(1599年に前田利長が高山右近に命じた内惣構・1610年の外惣構・城と城下の防備という目的・惣構の堀が用水として今も使われていること)
- 山口市「大内氏遺跡 附 凌雲寺跡」(大内氏の館跡が山口市にあること)
- 科学技術振興機構 J-STAGE『地理学評論』39巻10号「初期城下町の成立とその概念規定について」(1486年の大内氏の壁書「永可被放御家人」と南北朝期の命令との強さの違い・大永年間の駿河府中への皮革業者の町立て)