要点
- 1519年、武田信虎が築いた。信虎は甲斐を統一する過程で、石和から甲府の躑躅ヶ崎に本拠を移し、城下町を整えた。
- 城ではなく館。堀と土塁で囲まれた方形の居館で、天守や高い石垣はない。守りは背後の要害山城が担った。
- 信玄は生涯ここを動かなかった。信濃・駿河へ領土を広げても本拠は変えず、館から政治と軍事を指揮した。
- 1581年、勝頼が新府城へ移った。織田・徳川の圧力が強まるなか、勝頼は韮崎に新府城を築いて移ったが、翌年武田氏は滅んだ。
- 武田滅亡後も甲斐の政庁だった。織田・徳川・豊臣の支配下でも使われ、1590年代に甲府城が築かれて役目を終えた。
躑躅ヶ崎館(武田氏館)は、どう使われてきたのか
- 011519年、信虎が築く
信虎は甲斐の国衆を従えて統一を進め、石和の館から躑躅ヶ崎へ本拠を移した。翌年、背後の山に要害山城を築いた。
- 021521年、信玄の誕生
今川方の福島勢が甲府に迫り、信虎の妻は要害山城に避難して信玄(晴信)を産んだと伝わる。
- 031541年、信玄が信虎を追放
信玄は父を駿河の今川氏のもとへ追放し、当主となった。館はそのまま信玄の本拠となった。
- 04信玄の時代
信濃攻略、川中島の戦い、駿河侵攻を館から指揮した。1551年には嫡男・義信のために西曲輪が築かれた。
- 051573年、信玄の死と勝頼の時代
信玄の死後、勝頼が館を継いだ。1575年の長篠の戦いで大敗し、武田氏は守勢に回った。
- 061581年、新府城への移転
勝頼は韮崎に新府城を築いて本拠を移した。躑躅ヶ崎館は一時廃れたが、翌1582年、武田氏は織田軍に滅ぼされた。
- 07武田滅亡後から現在
織田の河尻秀隆、徳川家康、豊臣系大名の支配下で甲斐の政庁として使われた。1590年代に甲府城が築かれて役目を終え、1919年に武田神社が建てられた。1938年に国史跡となった。
躑躅ヶ崎館を読むときの三つの視点
- 「人は城」の言葉と館の関係。信玄が城を築かず館にとどまったことを「人は城、人は石垣」の言葉と結びつけて語るが、この言葉は江戸時代の『甲陽軍鑑』によるもので、信玄の言葉と確かめられていない。
- 館と要害山城の二段構え。平時の政治は館で、有事の籠城は要害山城で、という分担は戦国前期の大名に多い形。
- 館を離れた勝頼の判断。新府城への移転は守りを固めるためだったが、移転の負担と家臣の動揺が滅亡を早めたとする見方もある。
躑躅ヶ崎館は、武田氏が「城を持たなかった」のではなく、館と山城の組み合わせで本拠を守っていたことを示す場所です。信玄の強さを城の有無で語るのではなく、領国の仕組み全体で読むのが適切です。