勢力ページ / 甲斐源氏の名門から戦国最強へ

武田氏たけだし

武田氏(武田家)は、甲斐国(山梨県)を本拠とした戦国大名の一族です。甲斐源氏かいげんじの嫡流として鎌倉時代から甲斐の守護を務めた名門で、織田氏や北条氏のように戦国期に成り上がった家ではありません。武田信虎が甲斐を統一し、武田信玄が信濃・駿河へ領国を広げて「戦国最強」と呼ばれましたが、武田勝頼の代に長篠の戦いで敗れ、1582年の甲州征伐で滅びました。名門がなぜ滅んだのかを、家の仕組みから読みます。

甲斐源氏の嫡流・甲斐守護 信虎・信玄・勝頼 躑躅ヶ崎館と甲府 1582年 甲州征伐で滅亡
このページを読む順番

要点

  • 出発点は甲斐源氏の名門。12世紀に甲斐へ入った源氏の一族が武田を名乗り、鎌倉時代から甲斐の守護を務めた。戦国大名のなかでも古い家柄である。
  • 信虎が甲斐をまとめ、甲府を作った。一族や国衆が割拠していた甲斐を統一し、1519年に躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたを築いて甲府を本拠とした。
  • 信玄が領国を最大にした。父を追放して家督を継ぎ、信濃・駿河・西上野へ領国を広げた。治水・鉱山・法の整備でも知られる。
  • 勝頼の代に滅んだ。1575年の長篠の戦いで大敗し、1582年の織田・徳川の甲州征伐で勝頼は天目山で自害。守護以来の武田氏は大名としては終わった。
  • 名跡は徳川家のもとで残った。家康は武田の旧臣を多く抱え、武田の名を継ぐ家も保護した。江戸時代にも武田の名は高家・旗本として続いた。
家のはじまり

武田氏は、どこから来た家なのか

  • 甲斐源氏の祖は12世紀に甲斐へ。源義家の弟・義光の系統が甲斐に入り、その子孫が土地の名から武田を名乗った。甲斐源氏は安芸・若狭など各地に分かれた武田氏の本家でもある。
  • 鎌倉・室町を通じて甲斐守護。武田信義が源頼朝の挙兵に加わって以来、武田氏は鎌倉幕府・室町幕府のもとで甲斐の守護を務めた。
  • 戦国初期は一族と国衆の争いの中にいた。守護といっても甲斐全体を動かせたわけではなく、一族の分家や有力な国衆が各地に割拠し、守護の家も内紛を繰り返していた。

つまり武田氏は、守護の家がそのまま戦国大名になった型です。守護代から成り上がった織田氏、外から入った北条氏とは出発点が違います。この違いは戦国大名とはで整理しています。

三代の流れ

信虎・信玄・勝頼で、武田氏はどう変わったのか

  1. 01信虎:甲斐統一と甲府の建設

    武田信虎(信玄の父)は一族と国衆の争いを制して甲斐をまとめ、1519年に躑躅ヶ崎館を築いて本拠を甲府に移しました。家臣を館の周りに住まわせ、城下町を作った点は、戦国大名の領国経営の先駆けといえます。しかし度重なる出兵と強引な統治は家臣の反発を招きました。

  2. 02信玄:領国の拡大と「最強」の評価

    1541年、晴信(信玄)は家臣団とともに父・信虎を駿河へ追放し、家督を継ぎました。信濃へ進出して上杉謙信と川中島で争い、今川・北条と三国同盟を結んで背後を固め、のちに駿河も手中にします。分国法の制定、信玄堤と呼ばれる治水、金山の開発など、領国を豊かにする統治でも知られました。1572年の三方ヶ原の戦いで徳川家康を破りますが、翌年、上洛の途上で病死します。

  3. 03勝頼:長篠の敗北と滅亡

    武田勝頼(信玄の四男)は信玄の死後に家督を継ぎ、一時は信玄の代を超える領国を築きました。しかし1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、多くの重臣を失います。本拠を新府城に移して立て直しを図りましたが、1582年、織田信長おだ のぶながの甲州征伐で一族・家臣が相次いで離反し、勝頼は天目山で自害しました。

三代それぞれの詳しい歩みは武田信虎たけだ のぶとら武田信玄たけだ しんげん武田勝頼たけだ かつよりのページで整理しています。

名門はなぜ滅んだか

武田氏の強みと、弱点だったもの

  • 強み:家臣団と一門の厚み。甲斐の国衆を家臣団に組み込み、一門の穴山氏・信濃の真田氏など有力な家を配下に持った。「武田二十四将」と呼ばれる人材の層は、武田氏の看板だった。
  • 強み:領国経営の先進性。法・治水・鉱山・交通の整備は、信玄の代に完成度を高めた。
  • 弱点:当主の交代がいつも荒れた。信虎は追放され、信玄は嫡男・義信を廃し、勝頼は「諏訪の家を継いだ四男」という立場から急に当主になった。継承が安定せず、家臣団の不安を生んだ。
  • 弱点:拡大を止められなかった。信玄の晩年以降、今川・徳川・織田と敵を増やし続けた。長篠で重臣を失ったあとも領国を維持しようとして、家臣の負担が限界に達した。
  • 決定打:一門と国衆の離反。甲州征伐では、一門の穴山信君や信濃の国衆が次々と織田・徳川方へ転じた。外から攻められて滅んだというより、内側から崩れた滅亡だった。

長篠から滅亡までの流れは武田との攻防、長篠から甲州へで、滅亡後の甲斐をめぐる争いは天正壬午の乱で読めます。

人物からたどる

武田氏をめぐる人物

武田氏についてのよくある疑問

武田氏は本当に「戦国最強」だったのか?

「最強」は後世の評価で、同時代の史料にそう書かれているわけではありません。信玄の時代に合戦で大きな敗北がほとんどなかったこと、三方ヶ原で家康を破ったこと、江戸時代に『甲陽軍鑑』などを通じて武田の軍学が広まったことが重なって、この像が定着しました。領国経営の先進性も含めて評価するのが適切で、「騎馬軍団が無敵だった」という見方には根拠が乏しいとされています。

信玄はなぜ父・信虎を追放したのか?

信虎の強引な統治や出兵に家臣の不満が高まっていたことが背景にあり、単なる親子の対立ではなく家臣団ぐるみの政変と考えられています。今川義元いまがわ よしもとのもとへ向かった信虎の帰路を閉ざす形で行われ、今川家もこれを受け入れました。信虎は駿河で長く暮らし、信玄より長生きしています。

武田氏はなぜ勝頼の代で滅んだのか?

長篠の敗北だけが原因ではありません。当主交代がいつも不安定だったこと、信玄の晩年から敵を増やし続けたこと、長篠で重臣を失ったあとも領国を維持しようとして家臣の負担が限界に達したこと、そして甲州征伐で一門や国衆が次々と離反したことが重なった結果と考えられます。勝頼個人の力量だけに帰すのは公平ではないという見方が、近年は一般的です。

滅亡後、武田の家は残ったのか?

大名としての武田氏は1582年で終わりましたが、名跡は残りました。徳川家康は武田の旧臣を多く召し抱え、井伊直政いい なおまさに預けて「赤備え」としたことで知られます。信玄の次男の系統などは江戸幕府のもとで高家・旗本として武田の名を伝えました。また、甲斐源氏から分かれた安芸武田氏・若狭武田氏のように、別の地で続いた一族もあります。

次にたどる

武田氏から次にたどる

参考にした資料