甲州征伐とは?
1582年、木曽義昌の離反を機に織田・徳川が武田領へ攻め込み、武田勝頼が田野(今の山梨県甲州市)で自害して武田氏が滅んだ戦い。
甲州は甲斐(今の山梨県)のことです。戦場は木曽谷・伊那谷(今の長野県)から始まり、甲斐へ移ります。木曽の離反から、旧武田領の配り直しまでを指します。
離反——木曽義昌が武田から離れ、信長が動いた
1581年(天正9年)に、勝頼は今の山梨県韮崎市に新府城を築き、12月24日に躑躅ヶ崎館から本拠を移した。長篠の戦いで重臣を失ってから7年、武田はようやく新しい本拠を持ったところだった。その2か月後の1582年2月、木曽谷(今の長野県木曽郡)を治める木曽義昌が武田を離れる。離反の理由は、史料では確定できない。信長はこの離反を機に、木曽谷と伊那谷から武田領へ攻め込む作戦を始めた。総大将は、岐阜城(今の岐阜市)の城主で信長の嫡男の織田信忠である。
鳥居峠 離反した木曽勢が、武田軍を追い返した
1582年、木曽家が武田勝頼から離れると、武田軍が鳥居峠(木曽谷の北の入口にあたる峠)まで攻め寄せた。木曽軍の先鋒を任された荻原元忠(義昌の家臣)が急襲で武田軍を破り、神保治部・有賀備後らを討ち取ったと伝わる。
人質 弟の上松義豊が、織田へ送られた
義昌が1582年に信長についたとき、弟の上松義豊が織田家への人質として出された。義豊はのちに徳川の家臣になった。
伊那谷——2月14日、国境が内側から開いた
伊那谷(今の長野県南部の谷)は、木曽谷と並ぶ武田領の南の入口だった。ここを守っていたのは、下条氏・小笠原氏といった土地の国衆と、飯田城・大島城の城将である。
梨子野峠 下条氏と小笠原氏が、織田軍を招き入れた
下伊那(伊那谷の南部、今の飯田市とその周り)の下条氏・小笠原氏は、1582年2月、相次いで織田軍に下った。2月14日には、梨子野峠を越えてきた織田軍の先陣を招き入れ、織田軍が伊那谷の南の端まで入った。
飯田城 その日の夜、城将が退いた
飯田城の城将・坂西織部と保科正直は、2月14日の夜のうちに城を退いた。続いて大島城も落城した。
信長の指示 先を急ぐ部隊に、松尾ほか2・3か所で城を築くよう命じた
武田攻めを進める信長は、先を急ぐ先方部隊(先に進んだ部隊)に対して、松尾(今の飯田市にあった城)ほか2・3か所で城を築いて敵に用心せよと命じている。
検証 寺から奪って引きずった鐘に、擦り傷が残る
織田信忠は1582年の行軍の途中、開善寺(下伊那の寺)から梵鐘(寺の鐘)を奪い、高遠まで引きずってきた。高遠の桂泉院に伝わるその鐘には、引きずった擦り傷が残る。織田軍は奪った鳴り物を鳴らしながら高遠城へ進み、戦後に奉納したと言われている。
高遠城——信忠の軍と戦い、一日で落ちた
高遠城(今の長野県伊那市)は、伊那谷を北へ進んだ先にある城で、守っていたのは武田方の城主・仁科盛信だった。伊那谷の城が次々に開くなか、総大将・織田信忠の軍は北上してこの城に迫った。
籠城 仁科盛信が、降参の要請を断った
仁科盛信は、1582年3月、総大将・織田信忠からの降参の要請に応じず、城に籠もった。数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦を交えたと伝わる。
落城 城は、一日と持たなかった
高遠城は1582年3月、わずか一日と持たず、多くの家臣が討ち死にし、盛信も自害して落城した。
新府炎上——両側から挟まれ、勝頼が自分の城を焼いた
新府城は、勝頼が住み始めて2か月半の本拠だった。信濃側からは高遠城を落とした信忠の軍が迫り、駿河側からは、寝返った穴山信君と徳川家康の軍が北上してくる。
穴山信君の寝返り 2月25日、河内領の親族衆が織田側についた
穴山信君は、武田の親族衆(当主の一族と、それに準じる家臣)で、富士川沿いの河内領(甲斐南部)を治めた武将だった。1582年2月25日に織田側へ寝返り、3月3日には徳川家康とともに北上して甲斐へ進攻した。
南下する信忠 高遠を落とした軍が来ると、味方が離れた
織田信忠が1582年3月に高遠城を落として南下すると、親族をはじめ味方の多くが武田軍を見限り、勝頼のもとから離れていった。
放火 3月3日の早朝、勝頼は岩殿城を目指した
勝頼は1582年3月3日の早朝、この城で両軍を迎え撃つのは難しいとみて、郡内(甲斐東部、今の大月市・都留市あたり)の岩殿城へ向かうため、新府城に自ら火を放って退去した。
検証 発掘で、3月3日の火の痕跡が出た
新府城跡の発掘では、搦手(裏口)の門の内側から礎石が見つかり、1582年3月3日の炎上の痕跡と推定される炭化材・鉄釘・焼土が出土している。
田野——岩殿城に入れず、天目山の麓で終わった
勝頼が目指した岩殿城は、大月市の岩殿山にある郡内の城で、籠城に向いた城とされる。郡内を治めていたのは小山田信茂で、武田の親族衆の待遇を受けた家の当主である。郡内へは、鶴瀬から笹子峠(鶴瀬と郡内の間の峠)を越えて入る。新府城を出てから田野に着くまでの道のりは、次のとおりである。
| 日 | どこ | 何が起きたか |
|---|---|---|
| 3月3日 早朝 | 新府城 | 火を放って退去 |
| 3月3日 | 勝沼・大善寺 | その日のうちに勝沼へ至り、夜は大善寺に泊まったと伝わる |
| 3月4日〜10日 | 鶴瀬 | 岩殿城へ入ろうとして7日間とどまる。小山田信茂が郡内の入口に城戸(木戸)を建てて妨害し、笹子峠を越えられない |
| 3月10日 | 田野 | 鶴瀬を出て天目山を目指し、麓の田野に柵を設けて陣所とする |
500人が40人に 従者は、鶴瀬でほとんど残っていなかった
1582年3月3日に新府城を出たとき500〜600人ほどいたとされる従者は、鶴瀬で足止めされている間に40〜50人になっていたといわれる。
なぜ天目山か 165年前にも、武田の当主が死んだ山だった
天目山は、今の甲州市大和町にある山の名で、その山にある栖雲寺は、勝頼から7代前の当主・武田信満が開いた寺である。1417年(応永24年)、上杉禅秀の乱(鎌倉公方に対する反乱)に味方した甲斐国守護・信満は、この山で自害し、墓も栖雲寺にある。武田家に古くから縁のある山だった。
3月11日 田野で、滝川一益の手勢に囲まれた
勝頼が田野に陣所を設けた翌日の1582年3月11日、織田の武将・滝川一益が知らせを聞きつけ、手勢に包囲させた。逃れがたいと悟った勝頼は自刃した。勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳。
戦後処理——信長が土地を配り、富士山を見て帰った
ここまで軍を率いてきたのは信忠だったが、信長自身も後から信濃へ入った。3月15日に飯田城へ入り、勝頼父子の首級(討ち取った首)を城下にさらして、17日に飯田を立った。その後、諏訪の法華寺(諏訪大社上社の近くの寺)に本陣を置き、14日間滞在する。旧武田領は、次のように配られた。
| 得た人 | 得たもの |
|---|---|
| 滝川一益 | 信長から、関東を任せる役として関東管領に任じられ、上野国と、信濃国の小県・佐久の二郡 |
| 毛利秀頼 | 信濃国の伊那郡 |
| 木曽義昌 | 信濃国の筑摩郡と深志城(今の松本城) |
| 徳川家康 | 駿河国(駿府城に入る) |
| 織田の家臣 | 甲斐国 |
小山田信茂 3月24日、甲斐善光寺で処刑された
小山田信茂は武田氏の滅亡後、織田軍に捕らえられ、1582年3月24日に甲斐善光寺(甲府の寺)で処刑された。勝頼を郡内に入れなかった理由も、処刑された理由も、史料では確定できない。小山田氏が滅んだ郡内は、のちに鳥居氏・秋元氏が治めた。
木曽義昌 深志城を得て、四人の将に城代を任せた
木曽義昌は武田氏の滅亡後、信長から筑摩郡と深志城を与えられ、鳥居峠で戦った荻原元忠ら四人の将に深志城代を任せた。
富士遊覧 4月12日、信長は富士山を見ながら帰った
信長は1582年4月、安土への帰路を甲斐から富士山の裾野を抜けて駿河へ出る道に取り、富士山の見物を望んだ。駿河を得た家康が一行をもてなした。12日の未明に甲斐側の本栖(今の本栖湖付近)を出立し、富士の裾野で家来たちに馬を走らせ、人穴(富士山麓の洞穴)を見物した。大宮(今の富士宮市)では家康が設けた御座所(宿所)に泊まり、翌13日に大宮を離れて安土へ向かった。
甲州征伐が残したもの——織田の分国、三か月後の逆転、家康の五か国、田野の記憶
2月14日に梨子野峠から織田軍が入ってから、3月11日に勝頼が田野で自害するまで、降参を断って織田軍と戦った城は高遠城で、伊那谷の城将と穴山信君・小山田信茂は勝頼の側に立たなかった。
織田の分国 上野・信濃・甲斐が、まとめて織田の国になった
旧武田領の上野・信濃・甲斐は、1582年3月、まとめて織田の分国(織田家が家臣を置いて治める国)になった。上野の滝川一益は厩橋城(今の前橋市)を拠点に、関東の平定へ乗り出そうとした。
三か月後の逆転 本能寺の変で、配分は一度に崩れた
1582年6月2日の本能寺の変で信長が死ぬと、この配分は崩れ、甲斐・信濃・上野は徳川・北条・上杉による旧武田領の奪い合いになった。この争いが天正壬午の乱である。
家康の五か国 駿河を得た家康は、10月に五か国の大名になった
徳川家康は1582年、武田氏が滅ぶと駿府城に入った。本能寺の変のあとの10月には、三河・遠江・駿河に甲斐・信濃を加えた五か国の大名となった。
田野の記憶 武田家終焉の地として、語り継がれた
田野には、家康が武田の遺臣に命じて建てさせた景徳院があり、境内に勝頼・北条夫人・信勝の墓がある。2006年(平成18年)の保存修理では、墓の基壇の中から経石(経文を書いた石)が五千点を超えて出土した。その中に、勝頼の戒名(死後の名)「景徳院殿頼山勝公大居士」をはじめ、三人の戒名を記したものがあった。
甲州征伐の疑問に答える
「天目山の戦い」「天目山で自害」と呼ばれるのはなぜ?
勝頼の一行が最後に目指した先が天目山(栖雲寺のある山)で、そう呼ばれる。実際に自害したのは、天目山の麓の田野である。
信長が諏訪の法華寺で明智光秀を罵倒した、というのは本当?
信長は諏訪の法華寺に本陣を置いた。一説には、このとき信長が他の家臣の前で明智光秀を罵倒したことが、本能寺の変の引き金になったと伝えられている。
深志城を得た木曽義昌は、そのあとも信濃にいた?
いない。木曽義昌は、1590年に小田原の北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたあと、木曽の地から下総の網戸(今の千葉県旭市)へ移された。同じ年に網戸城を築き、1595年にその地で死去した。
現地に何が残っている?
田野の景徳院(甲州市大和町)は、山門が県指定有形文化財、境内と勝頼の墓が県指定史跡である。近くには、勝頼勢が少数で織田・徳川勢を迎え撃ったと伝わる鳥居畑古戦場跡がある。新府城跡(韮崎市)と高遠城跡(伊那市)は、どちらも国史跡である。
甲州征伐から次にたどる
参考にした資料
- 韮崎市「史跡新府城跡」(1581年の築城・12月24日の移転・3月3日の放火と退去・3月11日の田野での自害・搦手桝形の発掘成果・国史跡指定)
- 甲州市「甲州市歴史的風致維持向上計画 第2章 甲斐国武田家と甲州市」(穴山信君の寝返りと3月3日の北上・信忠南下後の離反・新府城から勝沼・大善寺・鶴瀬・田野への経路・小山田信茂の妨害・従者の人数・滝川一益の包囲と自刃・三人の年齢・栖雲寺と武田信満・景徳院の建立。大善寺の宿泊は同資料が『理慶尼記』により伝えるもの)
- 山梨県「やまなし城マップ 甲斐武田氏終焉の地」(1417年の武田信満の自害・岩殿城の入城拒否・景徳院の墓と経石の出土・鳥居畑古戦場跡・県指定文化財)
- 甲州市「『武田勝頼の墓』調査報告について」(2006年の保存修理で出土した、勝頼・北条夫人・信勝の戒名を記した経石)
- 伊那市「高遠城跡の魅力をご紹介」(仁科盛信の籠城と一日での落城・国史跡指定)
- 伊那市「伊那市文化財保存活用地域計画 第2章」(信忠が開善寺から引きずってきた梵鐘・織田軍が奪った鳴り物の奉納)
- 飯田市「飯田城の歴史」(木曽谷・伊那谷からの侵攻・2月14日の梨子野峠・飯田城と大島城の落城・信長の飯田入城と首級・毛利秀頼の伊那郡・本能寺後の徳川・北条・上杉の乱入)
- 飯田市「松尾城跡」(信長が先方部隊に松尾ほか2・3か所で城を築いて用心せよと命じたこと)
- 岐阜市「岐阜城の歴代城主」(織田信忠が岐阜城主として武田攻めの総指揮をとったこと)
- 上松町「上松ゆかりの戦国武将ブランディングプロジェクト」(木曽義昌の離反・鳥居峠の戦い・人質の上松義豊・深志城と四将の城代)
- 茅野市中央公民館「史跡散策マップ 諏訪大社上社周辺」(法華寺の本陣と14日間の滞在・光秀罵倒の伝承)
- 甲府市「小山田左兵衛尉信茂(武田二十四将)」(一門衆(御親類衆)の待遇・都留郡の支配・3月24日の甲斐善光寺での処刑)
- 山梨県「やまなし城マップぷち 郡内領主 小山田氏の足跡をたどる」(小山田氏滅亡後の郡内を治めた鳥居氏・秋元氏)
- 山梨県「山梨の文化財ガイド 岩殿城跡」(岩殿城の所在・武田氏や小山田氏との関係・籠城に適した三城の一つとされること)
- 山梨県「やまなしの歴史」(武田氏の滅亡後、甲斐国が織田の支配下に入ったこと)
- 富士宮市郷土資料館「織田信長の富士遊覧」(「甲州征伐」の呼称・4月12日の本栖出立から人穴・大宮の御座所・13日の出発までの行程。記述は『信長公記』による)
- 富士宮市郷土資料館「天正期の徳川家康と富士宮」(武田氏を滅ぼした織田・徳川、家康の駿河支配、10月の五か国)
- 静岡市「中世〜鎌倉・南北朝・室町・戦国〜」(武田滅亡後の家康の駿府入城)
- 前橋市「滝川一益」(関東管領への任命と上野・小県・佐久の拝領・厩橋城を拠点に関東平定を図ったこと)
- 旭市「旭人物伝」(木曽義昌の網戸への移封・網戸城・1595年の死去)