事件ページ / 1582年2月〜4月・信濃・甲斐・駿河

甲州征伐こうしゅうせいばつ

甲州征伐とは?

1582年、木曽義昌の離反を機に織田・徳川が武田領へ攻め込み、武田勝頼が田野たの(今の山梨県甲州市)で自害して武田氏が滅んだ戦い。

甲州は甲斐(今の山梨県)のことです。戦場は木曽谷・伊那谷(今の長野県)から始まり、甲斐へ移ります。木曽の離反から、旧武田領の配り直しまでを指します。

1582年(天正10年)2月、木曽義昌が武田勝頼から離れて織田信長おだ のぶながにつき、信長は木曽谷と伊那谷から武田領へ攻め込みます。
2月14日、下条氏・小笠原氏が梨子野峠なしのとうげから織田軍の先陣を招き入れ、その夜に飯田城の城将が退きます。
3月、高遠たかとお城の仁科盛信が降参の求めを断って籠城し、落城します。
3月3日、勝頼は新府城に自ら火を放って退きます。同じ日、寝返った穴山信君あなやま のぶきみ徳川家康とくがわ いえやすとともに甲斐へ入ります。
3月11日、岩殿城へ入れなかった勝頼は天目山を目指し、麓の田野で、北条夫人(勝頼の妻)・嫡男の信勝とともに自害します。
信長は飯田・諏訪で旧武田領を配り、4月に富士山を見物して安土へ帰ります。

離反——木曽義昌が武田から離れ、信長が動いた

1581年(天正9年)に、勝頼は今の山梨県韮崎市に新府城を築き、12月24日に躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたから本拠を移した。長篠の戦いで重臣を失ってから7年、武田はようやく新しい本拠を持ったところだった。その2か月後の1582年2月、木曽谷(今の長野県木曽郡)を治める木曽義昌が武田を離れる。離反の理由は、史料では確定できない。信長はこの離反を機に、木曽谷と伊那谷から武田領へ攻め込む作戦を始めた。総大将は、岐阜城(今の岐阜市)の城主で信長の嫡男の織田信忠である。

鳥居峠 離反した木曽勢が、武田軍を追い返した

1582年、木曽家が武田勝頼から離れると、武田軍が鳥居峠(木曽谷の北の入口にあたる峠)まで攻め寄せた。木曽軍の先鋒を任された荻原元忠おぎはら もとただ(義昌の家臣)が急襲で武田軍を破り、神保治部・有賀備後らを討ち取ったと伝わる。

人質 弟の上松義豊が、織田へ送られた

義昌が1582年に信長についたとき、弟の上松義豊あげまつ よしとよ織田家への人質として出された。義豊はのちに徳川の家臣になった。

伊那谷——2月14日、国境が内側から開いた

伊那谷(今の長野県南部の谷)は、木曽谷と並ぶ武田領の南の入口だった。ここを守っていたのは、下条氏・小笠原氏といった土地の国衆と、飯田城・大島城の城将である。

梨子野峠 下条氏と小笠原氏が、織田軍を招き入れた

下伊那(伊那谷の南部、今の飯田市とその周り)の下条氏・小笠原氏は、1582年2月、相次いで織田軍に下った。2月14日には、梨子野峠を越えてきた織田軍の先陣を招き入れ、織田軍が伊那谷の南の端まで入った。

飯田城 その日の夜、城将が退いた

飯田城の城将・坂西ばんざい織部と保科正直ほしな まさなおは、2月14日の夜のうちに城を退いた。続いて大島城も落城した。

信長の指示 先を急ぐ部隊に、松尾ほか2・3か所で城を築くよう命じた

武田攻めを進める信長は、先を急ぐ先方部隊(先に進んだ部隊)に対して、松尾(今の飯田市にあった城)ほか2・3か所で城を築いて敵に用心せよと命じている。

検証 寺から奪って引きずった鐘に、擦り傷が残る

織田信忠は1582年の行軍の途中、開善寺(下伊那の寺)から梵鐘ぼんしょう(寺の鐘)を奪い、高遠まで引きずってきた。高遠の桂泉院に伝わるその鐘には、引きずった擦り傷が残る。織田軍は奪った鳴り物を鳴らしながら高遠城へ進み、戦後に奉納したと言われている。

高遠城——信忠の軍と戦い、一日で落ちた

高遠城(今の長野県伊那市)は、伊那谷を北へ進んだ先にある城で、守っていたのは武田方の城主・仁科盛信だった。伊那谷の城が次々に開くなか、総大将・織田信忠の軍は北上してこの城に迫った。

籠城 仁科盛信が、降参の要請を断った

仁科盛信は、1582年3月、総大将・織田信忠からの降参の要請に応じず、城に籠もった。数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦を交えたと伝わる。

落城 城は、一日と持たなかった

高遠城は1582年3月、わずか一日と持たず、多くの家臣が討ち死にし、盛信も自害して落城した。

新府炎上——両側から挟まれ、勝頼が自分の城を焼いた

新府城は、勝頼が住み始めて2か月半の本拠だった。信濃側からは高遠城を落とした信忠の軍が迫り、駿河側からは、寝返った穴山信君と徳川家康の軍が北上してくる。

穴山信君の寝返り 2月25日、河内領の親族衆が織田側についた

穴山信君は、武田の親族衆(当主の一族と、それに準じる家臣)で、富士川沿いの河内領かわうちりょう(甲斐南部)を治めた武将だった。1582年2月25日に織田側へ寝返り、3月3日には徳川家康とともに北上して甲斐へ進攻した。

南下する信忠 高遠を落とした軍が来ると、味方が離れた

織田信忠が1582年3月に高遠城を落として南下すると、親族をはじめ味方の多くが武田軍を見限り、勝頼のもとから離れていった。

放火 3月3日の早朝、勝頼は岩殿城を目指した

勝頼は1582年3月3日の早朝、この城で両軍を迎え撃つのは難しいとみて、郡内ぐんない(甲斐東部、今の大月市・都留市あたり)の岩殿城へ向かうため、新府城に自ら火を放って退去した。

検証 発掘で、3月3日の火の痕跡が出た

新府城跡の発掘では、搦手からめて(裏口)の門の内側から礎石が見つかり、1582年3月3日の炎上の痕跡と推定される炭化材・鉄釘・焼土が出土している。

田野——岩殿城に入れず、天目山の麓で終わった

勝頼が目指した岩殿城は、大月市の岩殿山にある郡内の城で、籠城に向いた城とされる。郡内を治めていたのは小山田信茂おやまだ のぶしげで、武田の親族衆の待遇を受けた家の当主である。郡内へは、鶴瀬つるせから笹子峠ささごとうげ(鶴瀬と郡内の間の峠)を越えて入る。新府城を出てから田野に着くまでの道のりは、次のとおりである。

どこ何が起きたか
3月3日 早朝新府城火を放って退去
3月3日勝沼かつぬま大善寺だいぜんじその日のうちに勝沼へ至り、夜は大善寺に泊まったと伝わる
3月4日〜10日鶴瀬岩殿城へ入ろうとして7日間とどまる。小山田信茂が郡内の入口に城戸(木戸)を建てて妨害し、笹子峠を越えられない
3月10日田野鶴瀬を出て天目山を目指し、麓の田野に柵を設けて陣所とする

500人が40人に 従者は、鶴瀬でほとんど残っていなかった

1582年3月3日に新府城を出たとき500〜600人ほどいたとされる従者は、鶴瀬で足止めされている間に40〜50人になっていたといわれる。

なぜ天目山か 165年前にも、武田の当主が死んだ山だった

天目山は、今の甲州市大和町にある山の名で、その山にある栖雲寺せいうんじは、勝頼から7代前の当主・武田信満が開いた寺である。1417年(応永24年)、上杉禅秀の乱(鎌倉公方に対する反乱)に味方した甲斐国守護・信満は、この山で自害し、墓も栖雲寺にある。武田家に古くから縁のある山だった。

3月11日 田野で、滝川一益の手勢に囲まれた

勝頼が田野に陣所を設けた翌日の1582年3月11日、織田の武将・滝川一益が知らせを聞きつけ、手勢に包囲させた。逃れがたいと悟った勝頼は自刃した。勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳。

戦後処理——信長が土地を配り、富士山を見て帰った

ここまで軍を率いてきたのは信忠だったが、信長自身も後から信濃へ入った。3月15日に飯田城へ入り、勝頼父子の首級しゅきゅう(討ち取った首)を城下にさらして、17日に飯田を立った。その後、諏訪の法華寺(諏訪大社上社の近くの寺)に本陣を置き、14日間滞在する。旧武田領は、次のように配られた。

得た人得たもの
滝川一益信長から、関東を任せる役として関東管領に任じられ、上野国と、信濃国の小県・佐久の二郡
毛利秀頼もうり ひでより信濃国の伊那郡
木曽義昌信濃国の筑摩郡と深志城(今の松本城)
徳川家康駿河国駿府城に入る)
織田の家臣甲斐国

小山田信茂 3月24日、甲斐善光寺で処刑された

小山田信茂は武田氏の滅亡後、織田軍に捕らえられ、1582年3月24日に甲斐善光寺(甲府の寺)で処刑された。勝頼を郡内に入れなかった理由も、処刑された理由も、史料では確定できない。小山田氏が滅んだ郡内は、のちに鳥居氏・秋元氏が治めた。

木曽義昌 深志城を得て、四人の将に城代を任せた

木曽義昌は武田氏の滅亡後、信長から筑摩郡と深志城を与えられ、鳥居峠で戦った荻原元忠ら四人の将に深志城代を任せた。

富士遊覧 4月12日、信長は富士山を見ながら帰った

信長は1582年4月、安土への帰路を甲斐から富士山の裾野を抜けて駿河へ出る道に取り、富士山の見物を望んだ。駿河を得た家康が一行をもてなした。12日の未明に甲斐側の本栖(今の本栖湖付近)を出立し、富士の裾野で家来たちに馬を走らせ、人穴(富士山麓の洞穴)を見物した。大宮(今の富士宮市)では家康が設けた御座所ござしょ(宿所)に泊まり、翌13日に大宮を離れて安土へ向かった。

甲州征伐が残したもの——織田の分国、三か月後の逆転、家康の五か国、田野の記憶

2月14日に梨子野峠から織田軍が入ってから、3月11日に勝頼が田野で自害するまで、降参を断って織田軍と戦った城は高遠城で、伊那谷の城将と穴山信君・小山田信茂は勝頼の側に立たなかった。

織田の分国 上野・信濃・甲斐が、まとめて織田の国になった

旧武田領の上野・信濃・甲斐は、1582年3月、まとめて織田の分国(織田家が家臣を置いて治める国)になった。上野の滝川一益は厩橋城(今の前橋市)を拠点に、関東の平定へ乗り出そうとした。

三か月後の逆転 本能寺の変で、配分は一度に崩れた

1582年6月2日の本能寺の変で信長が死ぬと、この配分は崩れ、甲斐・信濃・上野は徳川・北条・上杉による旧武田領の奪い合いになった。この争いが天正壬午の乱である。

家康の五か国 駿河を得た家康は、10月に五か国の大名になった

徳川家康は1582年、武田氏が滅ぶと駿府城に入った。本能寺の変のあとの10月には、三河・遠江・駿河に甲斐・信濃を加えた五か国の大名となった。

田野の記憶 武田家終焉の地として、語り継がれた

田野には、家康が武田の遺臣に命じて建てさせた景徳院けいとくいんがあり、境内に勝頼・北条夫人・信勝の墓がある。2006年(平成18年)の保存修理では、墓の基壇の中から経石(経文を書いた石)が五千点を超えて出土した。その中に、勝頼の戒名かいみょう(死後の名)「景徳院殿頼山勝公大居士」をはじめ、三人の戒名を記したものがあった。

甲州征伐の疑問に答える

「天目山の戦い」「天目山で自害」と呼ばれるのはなぜ?

勝頼の一行が最後に目指した先が天目山(栖雲寺のある山)で、そう呼ばれる。実際に自害したのは、天目山の麓の田野である。

信長が諏訪の法華寺で明智光秀を罵倒した、というのは本当?

信長は諏訪の法華寺に本陣を置いた。一説には、このとき信長が他の家臣の前で明智光秀あけち みつひでを罵倒したことが、本能寺の変の引き金になったと伝えられている。

深志城を得た木曽義昌は、そのあとも信濃にいた?

いない。木曽義昌は、1590年に小田原北条氏豊臣秀吉とよとみ ひでよしに滅ぼされたあと、木曽の地から下総の網戸(今の千葉県旭市)へ移された。同じ年に網戸城を築き、1595年にその地で死去した。

現地に何が残っている?

田野の景徳院(甲州市大和町)は、山門が県指定有形文化財、境内と勝頼の墓が県指定史跡である。近くには、勝頼勢が少数で織田・徳川勢を迎え撃ったと伝わる鳥居畑とりいばた古戦場跡がある。新府城跡(韮崎市)と高遠城跡(伊那市)は、どちらも国史跡である。

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参考にした資料