何を担った人物か
赤母衣衆(あかほろしゅう)は、主君のそば近くで働く精鋭の家臣を示す集団で、毛利秀頼もその一人であったと伝わります。天正10年(1582)、武田氏が滅びると、信長は伊那郡(いまの長野県南部)を秀頼に与えました。本能寺の変後の混乱を経て、天正18年(1590)、秀頼は豊臣秀吉の家臣として再び伊那郡に入り、飯田城主となります。それまでの飯田城は本丸・二ノ丸までであったところに三ノ丸と追手門を新たに設け、伊勢町・番匠町に続く本町などの城下町を築いたと伝わります。
秀頼は文禄2年(1593)に没し、娘婿の京極高知(きょうごくたかとも)が飯田城主の跡を継ぎました。
時系列
武田氏が滅びると、信長は伊那郡(いまの長野県南部)を毛利秀頼に与えました。
信長が没すると武田の旧領は徳川・北条・上杉が争う戦場となり、飯田城には下条頼安、続いて徳川家臣の菅沼定利が入りました。
徳川家康の関東移封を機に、豊臣秀吉の家臣として秀頼が再び伊那郡へ入り、飯田城の三ノ丸と城下町を広げました。
秀頼が没し、娘婿の京極高知が飯田城主の跡を継ぎました。
読み違えないために
名の表記は、織田家臣であったころの毛利長秀と、豊臣家臣となってからの毛利秀頼という形で資料に残っています。石高についても、飯田市の資料では秀頼自身が伊那郡10万石を治めたとする一方、飯田城の記録では京極高知の代に10万石へ加増されたとも記されており、書き方が分かれます。家紋など詳しく分かっていない点もあり、伊那郡拝領から飯田城主としての足跡を中心に読むのが安全です。