用語ページ / 領地を測る物差し

石高こくだか

石高とは?

石高とは、検地で決めた領地の生産力を米の量で表し、年貢と軍役の基準にした数字のことです。といっても、その年に実際に採れた米の量ではありませんし、田畑の広さそのものでもありません。

北条氏は領地を銭の金額(貫高かんだか)で測っていました。北条氏康ほうじょう うじやすは1559年、家臣ごとの貫高を書き上げた台帳を作らせます。
1580年代からの太閤検地で、土地の値打ちを米の量で表す方式が全国に広まります。越前では1598年の検地で49万石余が68万石余になりました。
1591年、豊臣政権が朝鮮出兵を前に全国の大名へ石高の帳簿を出させ、軍役を割り当てる基準にします。
石高は村ごとに集計され、年貢と労役の割り当ての土台になります。越前では、年貢率が一割前後の村も多くありました。
石高は、大名が出す兵の数と、家臣に与える所領の大きさも決めました。加賀藩には、大名の目安である1万石を超える家臣の家もありました。
1644年からの正保郷帳しょうほうごうちょうで、幕府が公認した大名の石高(表高おもてだか)と軍役の量、家格が確定します。

貫高——北条氏は、領地を銭の金額で測っていた

石高の前に、領地の値打ちを銭の金額で言い表す方式があった。これが貫高かんだかで、相模(今の神奈川県)の北条氏の帳簿に残っている。貫高は、家臣に与えた所領にも、田畑一か所ごとにも付いていた。

仕組み 貫は、銭一千文を数える単位だった

貫は銭を数える単位で、銭一千文を一貫と呼び、銭の金額は「何貫何文」と書いた。領地の値打ちをこの銭の金額で表したのが貫高である。

北条氏 1550年、雑多な税が、田畑の貫高にかける二つの税にまとめられた

北条氏康は天文19年(1550)、雑多な税を段銭たんせん懸銭かけせんの二つにまとめた。どちらも田畑の貫高にかける税で、段銭は貫高の6パーセント、懸銭は4パーセント、合わせて一割だった。農民が納めるのは、年貢のほかは、この二つに棟別銭むねべつせん(家一軒ごとにかける税)を加えた三つだけになった。棟別銭は貫高とは別口の税である。

台帳 1559年、家臣ごとの貫高が一冊にまとまった

北条氏康は永禄2年(1559)、奉行に命じて、一門と家臣の郷村ごとの知行ちぎょう(与えた所領)の貫高と、課した役を書き上げさせた。これが小田原衆所領役帳おだわらしゅうしょりょうやくちょうで、所領の貫高に応じて軍役や普請役(土木工事の労役)を課すための台帳だった。

石高へ——太閤検地が、値打ちを米の量に置き換えた

石高制とは、土地の値打ちを、そこから採れると見積もった米の量で測る方式である。この方式は1580年代からの太閤検地を通じて全国に広まった。1石の量は次のとおりである。

単位どのくらいの量か
1石10斗、100升、1万合。およそ180リットル
米にするとおよそ140〜150キログラム
1俵時代と土地で違う。加賀(今の石川県)では1583年ごろ3斗、1598年ごろ5斗

見積もりなので、測り直せば数字は動いた

見積もり 荒れた土地にも石高が付き、越前は49万石余から68万石余になった

石高は、田畑の面積に、土地の等級ごとの斗代とだい(一反あたりに見積もる米の量)を掛けて出す見積もりで、荒れた土地にも付いた。慶長3年(1598)の越前(今の福井県)の検地では、坂井郡大味村(今の坂井市)で、村全体の石高1820石余のうち33パーセントにあたる約600石が荒れた田畑だった。その荒れた土地の斗代も、普通の田畑より1斗から3斗低いだけだった。越前全体の石高は、この検地で49万石余から68万石余に改められた。実際の生産力より高く石高を決められた地域とみられる。

御前帳——1591年、全国の石高が一か所に集まった

天正19年(1591)、豊臣政権は全国の大名に、検地帳に基づいて国ごとに村名と石高を書き上げた帳簿を出させた。政権へ差し出したこの帳簿を御前帳ごぜんちょうと呼ぶ。朝鮮出兵を前にした年で、政権は集まった石高をそのまま軍役を割り当てる基準にした。7年後の慶長3年(1598)の全国の石高は、およそ1800万石だった。

中身 出した数字が、正確だったとは限らない

徳川氏が提出した御前帳は関東の領国の検地帳を集めたものだったが、実際に測った検地帳は少なく、かなりの部分は帳簿の上で作った数字で、実際の生産高を映していなかった。

残った帳簿 清正が家康へ出した写しが残っている

加藤清正かとう きよまさは、天正17年(1589)から秀吉の命で肥後(今の熊本県)の検地を行った。御前帳は、秀吉だけに出す帳簿ではなかった。清正は慶長9年(1604)、徳川家康とくがわ いえやすへも検地帳の写しを御前帳として出している。清正の検地帳は、この写しまで含めて今も3983冊が残っている。藩の単位で江戸時代を通じて検地帳が残るのは、全国でも珍しい。

年貢——村ごとの石高が、負担の割り当てになった

御前帳で政権に届いた石高は、村ごとの数字の積み上げである。検地帳の石高を村の単位で合計したものが村高むらだか(村全体の石高)で、石高は、村の負担と課税の基準になった。

仕組み 年貢は、村がまとめて納めた

江戸時代の年貢の中心は本途物成ほんとものなり(土地にかかる基本の年貢)で、村ごとに課され、村が納める責任を負った(村請制むらうけせい)。助郷役すけごうやく(街道の宿場へ人や馬を出す労役)の割り当ても、検地で算出した村高で決まった。

納める量は、石高に年貢率を掛けて決まった

石高は課税の土台の評価額で、納める量は年貢率で決まった。越前では、年貢率が一割前後の村も多かった。実際の生産力より高く石高を決められていたことの、裏返しとみられる。

銭のまま 江戸時代に入っても、貫高で書かれた検地帳がある

出羽国村山郡入間村(今の山形県西村山郡西川町)では、寛永18年(1641)の検地帳に、土地1か所ごとの貫高が記されている。この村の土地がすべて石高で書かれるようになったのは、寛文12年(1672)の検地からだった。銭から米への切り替えは、一度の検地で終わらなかった。

軍役と知行——石高が、兵の数と家臣の取り分を決めた

石高は、武家の側でも物差しになった。大名は自分の石高に応じて軍役ぐんやく(出すべき兵の数)を負い、家臣には知行を石高で与えた。

軍役 200万石から10万石まで、出す人数が定められた

栃木県に残る巻物「軍装軍役掟書ぐんそうぐんやくおきてがき」の後半には、石高ごとの人数の一覧がある。200万石から10万石までの石高ごとに、主人から侍・槍持・小荷駄(荷物を運ぶ人や馬)までの人数を細かく定めたもので、慶安2年(1649)の規定の写しとみられる。慶安2年の規定は、もっと小さな知行にも及んだ。別の資料によると、知行高3000石の武士が出す人数は56人(馬に乗る武士2、侍8、槍持など46)とされた。

分け前 水戸藩35万石のうち、大名の手元に残るのは18万6千石

水戸藩では、16万4千石を約1000人の藩士が知行として分け合った。大名の石高は、この家臣に分ける分まで含めた数字だった。

家臣の石高 家臣にも、1万石を超える家があった

加賀藩の重臣・加賀八家は、本多家5万石、ちょう家3万3千石、横山家3万石など、8家すべてが1万石を超える知行を持っていた。大名に匹敵する石高と格式を持つ家臣だった。

表高——幕府が認めた数字と、実際の数字

江戸幕府も、大名に国ごとに村名と石高を書き上げた帳簿を出させた。幕府が正保・元禄・天保と繰り返し作らせたこの帳簿を郷帳ごうちょうと呼び、それをもとに幕府が公認した大名の石高が表高おもてだかである。石高は、幕府と大名が申請と公認を通して確定させた、負担を割り当てるための数字だった。

公認 表高は、申請して認められた数字だった

水戸藩35万石は、寛永18年(1641)の領内の検地の報告をもとに幕府へ申請し、公認された表高である。

確定 1644年からの郷帳で、表高と軍役の量と家格が決まった

江戸幕府は正保元年(1644)、全国の大名に国絵図(国ごとの地図)と郷帳の作成を命じた。この郷帳が、大名の公称の石高(表高)と軍役の量、家格を決める土台になった。

知られたくない数字 大名の側は、正確には知られたくなかった

大名は、領内の石高をできれば幕府に正確には知られたくなかった。国絵図と郷帳で生産高を幕府に把握されれば統制が強まり、過重な軍役を課される恐れがあったからである。

ずれ 新田の分は、表高に入れなかった

正保の郷帳では、新田開発で増えた分をもとの石高に入れず、別に書き出させた。ここから、表高と、藩が実際に把握していた石高(内高うちだか)の差が生まれた。

石高の疑問に答える

なぜ1万石から上が大名なのか?

確たる理由を書いた資料は見つかっていない。寛永12年(1635)の武家諸法度の改定で、輿こしに乗る資格(乗輿じょうよ)が1万石以上と決まり、以後変わらなかった。この線がそのまま続いたからではないか、という推察がある。

一石は、大人一人が一年に食べる米の量?

公的な資料では、そう確かめられない。裏付けの取れる数字は、武士の給与の単位「一人扶持いちにんぶち」で、武士一人の1日の標準の生計費を米5合と見て、1年で1石8斗を支給した。この計算では、一石では武士一人の一年分に足りない。

なぜ銭(貫高)をやめて、米(石高)にしたのか?

理由は、史料では確定できない。手がかりになる事実は二つある。文明17年(1485)の大内氏撰銭えりぜに令(悪い銭を拒めるかを定めた法)が出るほど、15世紀後半には銭の日常の通用に支障が出ていたことと、米の量で生産力をつかむ方式が太閤検地を通じて全国に広まったことである。

石高は、今のお金でいくら?

今の金額に直すのは、容易でない。手がかりになる数字は一つある。天正19年(1591)3月の米の値段は、1石で833文だった。それでも容易でないのは、時代によって米や銭の値打ちの基準が違うからである。

石高から次にたどる

参考にした資料