石高とは?
石高とは、検地で決めた領地の生産力を米の量で表し、年貢と軍役の基準にした数字のことです。といっても、その年に実際に採れた米の量ではありませんし、田畑の広さそのものでもありません。
貫高——北条氏は、領地を銭の金額で測っていた
石高の前に、領地の値打ちを銭の金額で言い表す方式があった。これが貫高で、相模(今の神奈川県)の北条氏の帳簿に残っている。貫高は、家臣に与えた所領にも、田畑一か所ごとにも付いていた。
仕組み 貫は、銭一千文を数える単位だった
貫は銭を数える単位で、銭一千文を一貫と呼び、銭の金額は「何貫何文」と書いた。領地の値打ちをこの銭の金額で表したのが貫高である。
北条氏 1550年、雑多な税が、田畑の貫高にかける二つの税にまとめられた
北条氏康は天文19年(1550)、雑多な税を段銭と懸銭の二つにまとめた。どちらも田畑の貫高にかける税で、段銭は貫高の6パーセント、懸銭は4パーセント、合わせて一割だった。農民が納めるのは、年貢のほかは、この二つに棟別銭(家一軒ごとにかける税)を加えた三つだけになった。棟別銭は貫高とは別口の税である。
台帳 1559年、家臣ごとの貫高が一冊にまとまった
北条氏康は永禄2年(1559)、奉行に命じて、一門と家臣の郷村ごとの知行(与えた所領)の貫高と、課した役を書き上げさせた。これが小田原衆所領役帳で、所領の貫高に応じて軍役や普請役(土木工事の労役)を課すための台帳だった。
石高へ——太閤検地が、値打ちを米の量に置き換えた
石高制とは、土地の値打ちを、そこから採れると見積もった米の量で測る方式である。この方式は1580年代からの太閤検地を通じて全国に広まった。1石の量は次のとおりである。
| 単位 | どのくらいの量か |
|---|---|
| 1石 | 10斗、100升、1万合。およそ180リットル |
| 米にすると | およそ140〜150キログラム |
| 1俵 | 時代と土地で違う。加賀(今の石川県)では1583年ごろ3斗、1598年ごろ5斗 |
見積もりなので、測り直せば数字は動いた
見積もり 荒れた土地にも石高が付き、越前は49万石余から68万石余になった
石高は、田畑の面積に、土地の等級ごとの斗代(一反あたりに見積もる米の量)を掛けて出す見積もりで、荒れた土地にも付いた。慶長3年(1598)の越前(今の福井県)の検地では、坂井郡大味村(今の坂井市)で、村全体の石高1820石余のうち33パーセントにあたる約600石が荒れた田畑だった。その荒れた土地の斗代も、普通の田畑より1斗から3斗低いだけだった。越前全体の石高は、この検地で49万石余から68万石余に改められた。実際の生産力より高く石高を決められた地域とみられる。
御前帳——1591年、全国の石高が一か所に集まった
天正19年(1591)、豊臣政権は全国の大名に、検地帳に基づいて国ごとに村名と石高を書き上げた帳簿を出させた。政権へ差し出したこの帳簿を御前帳と呼ぶ。朝鮮出兵を前にした年で、政権は集まった石高をそのまま軍役を割り当てる基準にした。7年後の慶長3年(1598)の全国の石高は、およそ1800万石だった。
年貢——村ごとの石高が、負担の割り当てになった
御前帳で政権に届いた石高は、村ごとの数字の積み上げである。検地帳の石高を村の単位で合計したものが村高(村全体の石高)で、石高は、村の負担と課税の基準になった。
仕組み 年貢は、村がまとめて納めた
江戸時代の年貢の中心は本途物成(土地にかかる基本の年貢)で、村ごとに課され、村が納める責任を負った(村請制)。助郷役(街道の宿場へ人や馬を出す労役)の割り当ても、検地で算出した村高で決まった。
率 納める量は、石高に年貢率を掛けて決まった
石高は課税の土台の評価額で、納める量は年貢率で決まった。越前では、年貢率が一割前後の村も多かった。実際の生産力より高く石高を決められていたことの、裏返しとみられる。
銭のまま 江戸時代に入っても、貫高で書かれた検地帳がある
出羽国村山郡入間村(今の山形県西村山郡西川町)では、寛永18年(1641)の検地帳に、土地1か所ごとの貫高が記されている。この村の土地がすべて石高で書かれるようになったのは、寛文12年(1672)の検地からだった。銭から米への切り替えは、一度の検地で終わらなかった。
軍役と知行——石高が、兵の数と家臣の取り分を決めた
石高は、武家の側でも物差しになった。大名は自分の石高に応じて軍役(出すべき兵の数)を負い、家臣には知行を石高で与えた。
軍役 200万石から10万石まで、出す人数が定められた
栃木県に残る巻物「軍装軍役掟書」の後半には、石高ごとの人数の一覧がある。200万石から10万石までの石高ごとに、主人から侍・槍持・小荷駄(荷物を運ぶ人や馬)までの人数を細かく定めたもので、慶安2年(1649)の規定の写しとみられる。慶安2年の規定は、もっと小さな知行にも及んだ。別の資料によると、知行高3000石の武士が出す人数は56人(馬に乗る武士2、侍8、槍持など46)とされた。
分け前 水戸藩35万石のうち、大名の手元に残るのは18万6千石
水戸藩では、16万4千石を約1000人の藩士が知行として分け合った。大名の石高は、この家臣に分ける分まで含めた数字だった。
家臣の石高 家臣にも、1万石を超える家があった
加賀藩の重臣・加賀八家は、本多家5万石、長家3万3千石、横山家3万石など、8家すべてが1万石を超える知行を持っていた。大名に匹敵する石高と格式を持つ家臣だった。
表高——幕府が認めた数字と、実際の数字
江戸幕府も、大名に国ごとに村名と石高を書き上げた帳簿を出させた。幕府が正保・元禄・天保と繰り返し作らせたこの帳簿を郷帳と呼び、それをもとに幕府が公認した大名の石高が表高である。石高は、幕府と大名が申請と公認を通して確定させた、負担を割り当てるための数字だった。
公認 表高は、申請して認められた数字だった
水戸藩35万石は、寛永18年(1641)の領内の検地の報告をもとに幕府へ申請し、公認された表高である。
確定 1644年からの郷帳で、表高と軍役の量と家格が決まった
江戸幕府は正保元年(1644)、全国の大名に国絵図(国ごとの地図)と郷帳の作成を命じた。この郷帳が、大名の公称の石高(表高)と軍役の量、家格を決める土台になった。
知られたくない数字 大名の側は、正確には知られたくなかった
大名は、領内の石高をできれば幕府に正確には知られたくなかった。国絵図と郷帳で生産高を幕府に把握されれば統制が強まり、過重な軍役を課される恐れがあったからである。
ずれ 新田の分は、表高に入れなかった
正保の郷帳では、新田開発で増えた分をもとの石高に入れず、別に書き出させた。ここから、表高と、藩が実際に把握していた石高(内高)の差が生まれた。
石高の疑問に答える
なぜ1万石から上が大名なのか?
確たる理由を書いた資料は見つかっていない。寛永12年(1635)の武家諸法度の改定で、輿に乗る資格(乗輿)が1万石以上と決まり、以後変わらなかった。この線がそのまま続いたからではないか、という推察がある。
一石は、大人一人が一年に食べる米の量?
公的な資料では、そう確かめられない。裏付けの取れる数字は、武士の給与の単位「一人扶持」で、武士一人の1日の標準の生計費を米5合と見て、1年で1石8斗を支給した。この計算では、一石では武士一人の一年分に足りない。
なぜ銭(貫高)をやめて、米(石高)にしたのか?
理由は、史料では確定できない。手がかりになる事実は二つある。文明17年(1485)の大内氏の撰銭令(悪い銭を拒めるかを定めた法)が出るほど、15世紀後半には銭の日常の通用に支障が出ていたことと、米の量で生産力をつかむ方式が太閤検地を通じて全国に広まったことである。
石高は、今のお金でいくら?
今の金額に直すのは、容易でない。手がかりになる数字は一つある。天正19年(1591)3月の米の値段は、1石で833文だった。それでも容易でないのは、時代によって米や銭の値打ちの基準が違うからである。
石高から次にたどる
参考にした資料
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「石高の単位で、石・斗・升・合は、今の単位でいうとどのくらいか」(1石=10斗=100升=1万合、約180リットル)
- 同「江戸時代の米の量を表す単位の『石』について、1石はどのくらいの量か」(米1石の重さ約140〜150キログラム)
- 同「江戸時代の侍の禄高100石、1000石は現在の何キログラムにあたるのか」(米1石=150キログラム)
- 同「石高と俵数の換算について」(1俵の量が時代と土地で違うこと・加賀の3斗と5斗)
- 同「時代劇などで『二人扶持』という言葉を聞きますが、どういう意味ですか」(一人扶持=1日5合・1年1石8斗=5俵)
- 同「一万石や百万石に使われている『石』という単位について知りたい」(米の収穫高で生産力をつかむ方式が太閤検地を通じて全国に普及したこと)
- 同「石高一万石以上を大名、一万石未満を旗本と分けたが、この基準が『一万石』である理由は」(確たる理由の資料が見つかっていないこと・1635年の武家諸法度の推察)
- 同「戦国から江戸時代の軍事雇用者数について知りたい」(1649年の軍役規定・3000石で56人)
- 同「水戸藩の石高は35万石だと聞くが、石高は誰がどのように決めるのか」(表高の申請と公認・表高と内高の別・35万石の内訳)
- 同「戦国時代の貨幣の単位換算」(貫=銭一千文・1591年3月の米1石833文・現代への換算が容易でないこと)
- 同「肥後国検地諸帳(検地帳)」(加藤清正の検地帳・1604年に家康へ御前帳として提出した写し・3983冊・藩単位で江戸時代を通じて残るのは全国でも稀であること)
- 国税庁 税務大学校 租税史料「1.江戸時代の入間村」(石高制の定義・貫高で書かれた1641年の検地帳・1672年の石高制への移行・石高が表した三つのもの)
- 同「1 年貢と諸役」(本途物成・村請制・伝馬役や助郷役の賦課基準が村高だったこと)
- 国立公文書館「将軍のアーカイブズ 53. 国絵図」(正保元年の国絵図作成の命令)
- 神奈川県立図書館「小田原衆所領役帳」解題(1559年の成立・知行貫高と諸役の台帳)
- 小田原市「氏康の領国経営」(1550年の税制改革・段銭6パーセントと懸銭4パーセント・三税・所領役帳が軍役や普請役の台帳であること)
- 栃木県「軍装軍役掟書」(御軍役人数積・200万石から10万石までの人数規定・1649年の写しとみられること)
- 福井県立図書館・文書館『福井県史』通史編3「越前の石高」(1598年の49万石余から68万石余への改定・荒地の石高と斗代・大味村の荒田畑・年貢率一割前後の村が多く実際の生産力以上に石高を決められた地域とみられること)
- 同「村数と村高」(幕府が正保・元禄・天保の三回、村ごとの石高を国別に調べて郷帳を作ったこと)
- 石川県「金沢城と兼六園 歴代の城主、ゆかりの人物」(加賀八家の石高・大名に匹敵する石高や格式)
- 高崎経済大学 地域政策学会『地域政策研究』第8巻第2号「近世初期一国郷帳の研究―正保郷帳を中心に―」(1591年の御前帳の命令と軍役の基準・徳川氏の御前帳が机上の操作で実際の生産高を反映していなかったこと・1598年の全国高1800万石・正保郷帳で表高と軍役高と家格が決まったこと・新田分の別書き出し・大名が知られたくなかったこと)
- 函館大学 公開講座資料「日本中世の貨幣をめぐる諸問題」(1485年の大内氏撰銭令・15世紀後半の銭の通用の支障)