人物ページ / 戦国三英傑の入口 / 03

徳川家康とくがわ いえやす

徳川家康(1543–1616)は、今川氏のもとで成長した三河みかわの領主から、織田信長の同盟者、豊臣政権の有力大名を経て、江戸幕府を開いた人物です。三方ヶ原などの敗北も経験しながら領国と家臣団を組み替え、関ヶ原後は大名配置と将軍職の継承によって、徳川の政権を一代限りで終わらせない仕組みをつくりました。

1543–1616 三河から関東へ 初代征夷大将軍 関ヶ原・大坂の陣
徳川家康の肖像
徳川家康像(大阪城天守閣所蔵) / Wikimedia Commons / Public Domain

徳川家康は何をした人物か

  • 今川氏から自立して三河をまとめた。桶狭間を機に岡崎へ戻り、信長と同盟を結び、三河一向一揆を乗り越えて領国の基礎を固めた。
  • 敗北を経て東海の大名へ成長した。三方ヶ原では武田信玄に大敗したが、長篠や武田氏滅亡後の領国再編を通じて勢力を広げた。
  • 秀吉に臣従し、関東を新たな基盤にした。小牧・長久手で争った後に豊臣政権へ入り、1590年から江戸を中心に関東を治めた。
  • 関ヶ原後の全国秩序を組み替えた。敵対・協力の度合いに応じて大名の領地を再配置し、江戸を政権の中心にした。
  • 徳川政権を世襲する道筋を示した。将軍職を秀忠へ譲り、自身は大御所として政治を続け、幕府が一代で終わらないことを内外に示した。

家康について、まず解きたい四つの疑問

人質からの自立、三方ヶ原の大敗、関ヶ原後の政権づくり、秀忠への継承を、それぞれの経過を追うページでたどれます。

基本情報

生没年1543年(天文11年12月26日)生まれ、1616年(元和2)死去。数え年75歳でした。
出身三河国みかわのくに岡崎城おかざきじょう。父は松平広忠まつだいら ひろただ、母は於大の方おだいのかたです。
名前幼名は竹千代たけちよ。元服後は松平元信まつだいら もとのぶ、元康もとやすと名乗り、のちに家康へ改名。1566年に徳川姓を称しました。
主な本拠岡崎城、浜松はままつ、駿府すんぷ、江戸城えどじょう。勢力の拡大と役割の変化に応じて拠点を移しました。
同盟・主従今川氏の支配下から自立し、織田信長おだ のぶながとは清洲同盟を結びました。信長死後は秀吉と争ったのち臣従し、豊臣政権の五大老ごたいろうとなります。
地位1603年に征夷大将軍せいいたいしょうぐん。1605年に将軍職を秀忠へ譲った後は「大御所おおごしょ」として駿府から政治を動かしました。
後継者長男信康を早くに失い、次男秀康は結城家を継承。三男の秀忠ひでただが徳川宗家と将軍職を継ぎました。
竹千代から大御所へ

家康の生涯を七段階で追う

1. 松平家の嫡男と人質時代

家康は三河の松平広忠の嫡男として生まれました。当時の松平氏は、尾張の織田氏と駿河の今川氏という大勢力の間にあり、単独で安定した領国を保てる立場ではありませんでした。幼い竹千代は織田方に送られ、のちに今川方へ移されて駿府で成長します。

「人質」は現代の監禁と同じではなく、同盟や服属を保証する政治的な身柄でした。行動の自由は制限されましたが、家康は駿府で元服し、今川義元いまがわ よしもとから名の一字を受けて元信、のち元康と名乗ります。今川一門の築山殿つきやまどのを正室とし、今川領国の武将として軍役を担いました。

2. 桶狭間・岡崎帰還・三河統一

1560年の桶狭間の戦いで義元が戦死すると、元康は大高城方面から岡崎へ戻りました。ただちに今川氏へ宣戦したのではなく、周囲の情勢を確かめながら自立を進め、1561〜62年頃に信長と清洲同盟を結びます。信長が美濃へ向かう間、家康は三河と東方を担当する関係になりました。

しかし三河支配は順調ではありません。1563年からの三河一向一揆では、本多正信ら一部の家臣まで一揆方に分かれました。家康は武力と赦免を使い分けて収束させ、家臣団を再統合します。1566年に徳川姓を称したことは、松平一族をまとめ、今川氏から独立した大名として立場を整える動きでした。

3. 遠江とおとうみ進出と武田氏との戦い

今川氏が衰えると、家康は遠江へ進出し、1570年頃に岡崎から浜松へ本拠を移しました。甲斐かいの武田信玄たけだ しんげんと直接向き合う前線へ出たことになります。1572年の三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかいでは城を出て戦い、大敗しました。家康は「慎重一辺倒」ではなく、危険な決断をして失敗した経験も持つ人物です。

1575年の長篠の戦いでは信長と連合し、武田勝頼軍を破りました。その後も戦いは続き、家康は遠江・駿河へ領国を広げます。

一方、1579年には正室築山殿が殺害され、長男松平信康まつだいら のぶやすが切腹しました。信長の命令だけで説明されることがありますが、事件の経過と家康の判断には不明点が多く、徳川家内部の問題も含めて考える必要があります。

4. 本能寺・伊賀越えいがごえ・旧武田領の獲得

1582年、信長による武田氏滅亡後、家康は駿河を与えられました。ところが同年6月、堺を訪れていた家康は本能寺の変を知ります。少人数で畿内きないに取り残され、伊賀・伊勢を通って三河へ戻る伊賀越えを行いました。

帰国後は甲斐・信濃・上野をめぐる天正壬午の乱へ進み、北条氏らと争いながら甲斐・信濃の大部分を勢力下に置きます。井伊直政の赤備えに象徴されるように、旧武田家臣や地域の国衆くにしゅうを徳川の軍事・統治組織へ取り込んだことが、家康の勢力を大きくしました。

5. 小牧・長久手から秀吉への臣従

信長死後に主導権を伸ばした豊臣秀吉とよとみ ひでよしに対し、家康は織田信雄のぶかつと結んで1584年の小牧・長久手の戦いを戦いました。長久手の局地戦では徳川方が勝利しましたが、秀吉は信雄との講和によって家康が戦う政治的理由を失わせます。

家康はすぐには上洛せず、秀吉は妹の朝日姫あさひひめを家康の正室として送り、母の大政所おおまんどころを岡崎へ送るなどして臣従を促しました。1586年、家康は上洛して秀吉に従います。これは単なる敗北ではなく、独立勢力としての限界を見極め、豊臣政権内で最大級の大名として領国と家臣団を残す選択でした。

6. 関東移封・五大老ごたいろう・関ヶ原

1590年の小田原征伐後、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃から関東へ移され、約250万石を支配する大名となりました。

先祖伝来の土地を離れる大きな転換でしたが、家康は江戸へ入ると、家臣を関東各地へ配置し、河川・街道・城下の整備を進めます。

秀吉晩年には五大老の一人となり、1598年の秀吉死後は諸大名との婚姻や政治交渉を進めました。有力大名と奉行による合議の一員でしたが、関東約250万石の軍事力は突出しています。

1600年、上杉景勝うえすぎ かげかつへの対応をきっかけに諸勢力が東西へ分かれ、関ヶ原の戦いへ至ります。家康の勝利は本戦だけでなく、戦前の書状、諸大名の動員、東海道の確保、西軍内部への働きかけを積み重ねた結果でした。

関ヶ原合戦図屏風
関ヶ原合戦図屏風(岐阜市歴史博物館蔵) / Wikimedia Commons / Public Domain

7. 将軍・大御所と大坂の陣

関ヶ原後、家康は西軍大名の改易・減封と味方への加増を行い、全国の大名配置を大きく組み替えました。1603年に征夷大将軍となり、1605年には将軍職を三男秀忠へ譲ります。家康自身は駿府へ移って大御所として外交・朝廷政策・大名統制を続け、江戸の将軍と駿府の大御所が並ぶ形で政権の基礎を固めました。

大坂城には秀吉の子・秀頼と豊臣家が残っていました。1614年の大坂冬の陣では講和し、翌1615年の夏の陣で豊臣家を滅ぼします。同年には武家諸法度や禁中並公家諸法度が出され、戦争の終結と制度による統制が並行して進みました。家康は翌1616年に駿府城で死去します。

江戸城跡
家康が幕府の本拠とした江戸城の跡(現在の皇居東御苑) / Wikimedia Commons / CC0
年立場・本拠鍵になる出来事
1 人質1547〜60年今川氏の人質(駿府)桶狭間で義元が討たれる
2 自立1560〜70年三河の大名(岡崎)清洲同盟、三河一向一揆、三河統一
3 遠江進出1570〜82年三河・遠江の大名(浜松)三方ヶ原、長篠、信康事件
4 五か国1582〜90年東海5か国の大名(浜松→駿府)天正壬午の乱てんしょうじんごのらん、小牧長久手、秀吉に臣従
5 関東1590〜98年関東250万石(江戸)関東入封、五大老
6 天下人1600〜05年征夷大将軍(江戸・伏見)関ヶ原、江戸幕府
7 大御所1605〜16年大御所(駿府)大坂の陣、武家諸法度

本拠は岡崎→浜松→駿府→江戸→駿府。領地が増えるたびに東へ動いた。

信長との同盟(1562〜82)

対等に近い同盟として始まり、信長の拡大とともに従属的になった。20年間、東の守りを担い、信長の西進を支えた。

秀吉への臣従(1586〜98)

小牧・長久手で戦ったのち、婚姻と人質を受け入れて臣従。豊臣政権で最大の大名として別格の地位を得た。

勝利を長期政権へ変える

家康はどう徳川政権の基礎をつくったのか

関東と江戸

関東各地に譜代家臣を配置し、江戸城と城下、街道、水運を整えました。1590年からの領国経営が、のちの幕府の地理的な土台になります。

関ヶ原後の大名配置

西軍側を改易・減封し、東軍側を加増しました。徳川一門・譜代を要地に置く一方、大領を持つ外様大名も残し、監視と均衡を図りました。

将軍職の世襲

1605年に秀忠へ将軍職を譲り、徳川家が政権を継承する意思を示しました。

法と朝廷・寺社

武家諸法度ぶけしょはっと、禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっとなどを通じて、大名・朝廷との関係を制度化しました。これらは秀忠以後も改定され、幕府の統制基準になります。

専門家による政治

本多正信、金地院崇伝こんちいん すうでん、天海、林羅山らを用い、軍事だけでなく法令、寺社、外交、儀礼を扱う実務体制を整えました。

海外貿易と外交

朱印船貿易を進め、イギリス人三浦按針あんじんらから海外事情を得るなど、海外との交流を広げました。

江戸幕府の制度が家康一代ですべて完成したわけではありません。家康が基礎と継承の道筋をつくり、秀忠・家光以後に統制が追加・強化されていきました。

主君・同盟者・家族・対抗者

家康をめぐる人物関係図(相関図)

家康の生涯では、今川氏への服属、信長との同盟、秀吉への臣従、豊臣家との対立へと立場が変わりました。家族では、信康を失った後に秀忠が徳川宗家を継いだ流れが重要です。

徳川家康の相関図今川氏の人質から自立し、信長と同盟、秀吉に臣従、関ヶ原で三成と対決、大坂の陣で秀頼を滅ぼす。家族は築山殿・信康と秀忠。 対立した人物 家族 主君・同盟者 人質として育つ 20年の同盟 小牧長久手→臣従させる 三方ヶ原で破る 関ヶ原で破る 大坂の陣で滅ぼす 信康事件で失う 将軍職を譲る 父子 桶狭間で討つ とくがわ いえやす徳川家康三河の人質→江戸幕府を開く つきやまどの・のぶやす築山殿・信康正室と嫡男(1579年に死去) とくがわ ひでただ徳川秀忠三男・二代将軍 たけだ しんげん武田信玄三方ヶ原で大敗(1572) いしだ みつなり石田三成関ヶ原で対決(1600) とよとみ ひでより豊臣秀頼大坂の陣で滅ぼす(1615) いまがわ よしもと今川義元人質時代の主君 おだ のぶなが織田信長清洲同盟(1562〜82) とよとみ ひでよし豊臣秀吉対立→臣従(1586〜)
この図で見てほしいのは、右側の三人との線が全部違う種類であることです。義元には人質として仕え、信長とは対等に近い同盟、秀吉には戦ったのちに臣従した。家康は相手ごとに関係の結び方を変えて生き延びた。

図の人物:築山殿つきやまどの・徳川秀忠とくがわ ひでただ・武田信玄たけだ しんげん・石田三成いしだ みつなり・豊臣秀頼とよとみ ひでより・今川義元いまがわ よしもと・織田信長おだ のぶなが・豊臣秀吉とよとみ ひでよし

宗家・将軍家・御三家へ

家族と後継者をつなげて読む

於大の方と松平家

母の於大の方は家康が幼い頃、実家水野氏の外交関係によって松平広忠と離縁しました。家康と母が長く別れていたことは、松平氏が周囲の大勢力に左右される立場だったことを示します。家康の人質生活も、個人の不運だけでなく三河の領主間外交の中で起きた出来事でした。

築山殿と信康の事件

築山殿は今川氏につながる家康の正室で、信康と亀姫の母です。1579年、築山殿は殺害され、岡崎城を任されていた信康も切腹しました。

江戸時代の記録では信長の命令や武田氏への内通が語られますが、同時代史料だけでは経過を確定できません。家康・信康父子や徳川家臣団、織田家との関係が重なった事件として、断定を避けて見る必要があります。

秀康・秀忠と宗家の継承

次男の結城秀康ゆうき ひでやすは秀吉の養子となったのち結城家(下総の名門)を継ぎ、関ヶ原後に越前へ移りました。三男秀忠は家康のもとで徳川宗家を継ぎ、1605年に二代将軍となります。秀忠の母は西郷局です。江は秀忠の正室であり、家康の妻ではありません。家光らを産み、徳川将軍家の次世代をつなぎました。

御三家と徳川一門

家康の晩年の子である義直・頼宣・頼房は、尾張・紀伊・水戸の徳川家の祖となりました。後に御三家と呼ばれ、宗家に将軍の後継者がいない場合の支えとなります。すべてが家康の存命中に完成した制度ではありませんが、息子たちを要地へ置いたことが徳川一門の全国配置につながりました。

有名なイメージを確かめる

徳川家康についてのよくある疑問

人質時代は牢獄のような生活だったのか?

自由な立場ではありませんでしたが、牢に閉じ込められていたわけではありません。家康は今川氏の本拠駿府で元服し、今川一門の女性と結婚し、軍を率いました。政治的な保証として監督下に置かれながら、領主の後継者として教育と待遇を受けた面もあります。

今川方の武将から岡崎へ戻り自立するまでの段階は、今川家の人質から自立への解説でつなげて読めます。

家康はひたすら我慢した慎重な人物なのか?

長期的に機会を待った場面はありますが、三方ヶ原で城外へ出て大敗したように、危険を取る判断もしています。小牧・長久手では秀吉と戦い、関ヶ原前には上杉討伐へ大軍を動かしました。

忍耐だけでなく、失敗後に家臣・領国・同盟を組み直す力が家康の特徴です。浜松を出た判断、戦場の地形、敗戦後の影響は、三方ヶ原の戦いで詳しく確認できます。

江戸は何もない湿地だったのか?

低湿地が広がっていたことは確かですが、家康入部以前にも江戸城と町、寺社、品川などの港、河川・海上交通がありました。家康は何もない土地に一から町を作ったのではなく、既存の拠点を大規模な城下町と全国政権の中心へ作り替えました。

関ヶ原は小早川秀秋の裏切りだけで決まったのか?

小早川軍の東軍参加は本戦の大きな転機ですが、それだけで決まったわけではありません。勝敗は、本戦の前に家康が書状や働きかけで東西の大名を動かしていたことにも左右されました。各地で同時に進んだ戦いや、大名ごとの思惑まで含めて見る必要があります。戦後の領地再編まで含む全体像は、関ヶ原の戦いから追えます。

なぜ将軍を二年で秀忠へ譲ったのか?

徳川家による将軍職の世襲を早く示し、家康の死後に後継争いが起きる余地を減らすためと考えられます。譲ったあとも、家康は大御所として政治の大きな方針を動かし続けました。将軍と大御所が並んだ意味は、江戸幕府の成立で確認できます。

家康が鎖国を始めたのか?

家康が始めたとはいえません。家康期には朱印船貿易が行われ、オランダ・イギリスとの通商も始まりました。キリスト教への警戒と禁教政策は強まりましたが、海外との交流を閉ざしたわけではありません。のちに「鎖国」と呼ばれる対外関係の仕組みは、秀忠・家光期を通じて段階的に形成されます。

大坂の陣は最初から豊臣家を滅ぼす計画だったのか?

関ヶ原後も豊臣家は大坂城と領地を持ち、秀頼は朝廷から高い官位を得ていました。しかし徳川の将軍家と豊臣家の位置づけは不安定で、方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけんをきっかけに対立が表面化します。家康側の圧力は強かった一方、講和条件や再戦までの交渉もあり、最初から一本の筋書きが確定していたと断定はできません。

天ぷらを食べて亡くなったのか?

家康が鯛の天ぷらを食べた後に体調を崩したという逸話は有名ですが、死去はその約三か月後です。胃がんなどの病気だった可能性が論じられており、天ぷらが直接の死因だったと確認できるわけではありません。

三河・東海・関東・全国政権

家康の生涯を年表で追う

1543
岡崎城で誕生

松平広忠と於大の方の子として生まれ、竹千代と名づけられます。

1547–55
織田・今川のもとへ

人質として移され、駿府で元服。今川氏の武将として成長します。

1560–66
岡崎帰還と三河統一

桶狭間後に自立し、信長との同盟、三河一向一揆を経て徳川姓を称します。

1570–72
浜松と三方ヶ原

遠江へ進み、三方ヶ原で武田信玄に大敗します。

1575–79
長篠と信康事件

武田勝頼たけだ かつよりを破る一方、築山殿と長男信康を失います。

1582
武田氏滅亡・本能寺・伊賀越え

駿河を得た直後に信長が死去し、畿内から三河へ帰還します。

1582–84
天正壬午の乱と小牧・長久手

甲斐・信濃へ勢力を広げ、秀吉とは織田信雄おだ のぶかつを支えて戦います。

1586
秀吉へ臣従

上洛して豊臣政権に入り、有力大名として位置づけられます。

1590
関東移封

小田原征伐後に江戸へ入り、関東の領国経営を始めます。

1598–1600
秀吉死去と関ヶ原

五大老の一人から全国政治の中心へ進み、西軍を破ります。

1603–05
将軍就任と秀忠への継承

江戸幕府を開き、二年後に将軍職を秀忠へ譲ります。

1607–15
駿府の大御所政治

外交・大名統制を進め、大坂の陣で豊臣家との戦いを終えます。

1616
駿府城で死去

死後は久能山へ葬られ、のちに日光東照社へも祀られました。

合戦だけではない徳川家臣団

家康は誰に何を任せたのか

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家康編クイズ

人質時代、清洲同盟、武田氏との戦い、関ヶ原、江戸幕府まで、家康の立場の変化を12問で振り返ります。

注意点

家康を読むときに気をつけたいこと

  • 「狸親父」「忍耐の人」の像は、江戸時代の神格化と明治以降の評価が混じっている。神君として称えられた江戸時代の記録と、徳川を悪役とする明治以降の語りの両方が、家康像を作ってきた。同時代の史料から見える家康は、状況に応じて同盟と裏切りを使い分ける、戦国大名として普通の人物でもある。
  • 人質時代の話は、後世の記録が多い。今川家での人質生活が「苦労の原点」として語られるが、具体的な逸話の多くは江戸時代のもの。駿府での教育が家康の人脈と教養を育てた、とする肯定的な見方もある。
  • 「しかみ像」「伊賀越え」「三方ヶ原のうんこ」は、確かさが違う。三方ヶ原の肖像画の由来は近年疑われている。伊賀越え(本能寺の変後の脱出)は同時代の史料で確かとみられるが、経路と協力者には諸説がある。「脱糞した」という話は後世の逸話で、史料的根拠はない。

家康から、次にたどる

参考にした資料

公文書館・博物館・自治体の公開資料を参照し、後世の逸話と史料だけでは断定できない点を分けて整理しています。