人物ページ / 徳川家康の側室・二代将軍秀忠の母

西郷局さいごうのつぼね

西郷局は家康の側室で、のちの二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。生前の記録が多くないため、逸話を増やすより、家康の子どもたちと将軍家の継承がどう形づくられたかを中心に読みます。

西郷局を最初に押さえる

  • 家康の側室で、二代将軍秀忠の生母である。
  • 秀忠は家康の後継となり、1605年に二代将軍となった。
  • 西郷局は駿府(今の静岡県静岡市)の龍泉寺に葬られ、寛永5年(1628年)に朝廷から宝台院の号を追贈された。
  • 家康の継承が、正室だけではない家族関係のなかで進んだことを示す。

秀忠の母という位置

家康には多くの子がいました。戦国大名の後継者は生まれた順だけで決まらず、母の家、本人の年齢、家臣団の支持、主君の判断が重なります。西郷局の子・秀忠が後継となったことは、徳川家が一地方の大名から全国政権へ変わる過程と結び付きます。

秀忠は、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600年)9月27日に大坂城二の丸へ入り、早くから家康の後継としての立場を示されていました。慶長10年(1605年)4月16日、征夷大将軍・内大臣に任じられて二代将軍となります。家康は将軍職を秀忠へ譲った後も、源氏長者や奨学院別当といった地位は手放さず、政治的な影響力を持ち続けました。秀忠の将軍就任は単なる世代交代ではなく、徳川家が将軍職を世襲する仕組みを始める出来事であり、西郷局のページでは、この継承の背景にある家族の一人として位置付けます。

西郷局は駿府(今の静岡県静岡市)で没し、龍泉寺という寺に葬られたと伝わります。寛永5年(1628年)、後水尾天皇ごみずのおてんのうから従一位と「宝台院」の号が追贈され、以後この寺は宝台院と呼ばれるようになりました。個々の逸話には史料上の確認が難しいものもありますが、家康と秀忠を結ぶ母であり、将軍家の出発に関わる人物だったことは確かです。

年表で追う

1600年
秀忠が大坂城二の丸へ

関ヶ原の合戦の直後の9月27日、秀忠が大坂城二の丸に入り、家康の後継としての立場が早くから示された。

1603年
家康が征夷大将軍に

2月12日、家康が征夷大将軍・右大臣に任じられ、江戸幕府を開く。

1605年
秀忠が二代将軍に

4月16日、家康が将軍職を退き、秀忠が征夷大将軍・内大臣となる。家康は源氏長者や奨学院別当の地位を保持し続けた。

1628年
西郷局に宝台院の号

後水尾天皇が西郷局に従一位と「宝台院」の号を追贈。葬られていた駿府の龍泉寺は、以後宝台院と呼ばれるようになった。

西郷局から、次にたどる

参考にした資料