西郷局を最初に押さえる
秀忠の母という位置
家康には多くの子がいました。戦国大名の後継者は生まれた順だけで決まらず、母の家、本人の年齢、家臣団の支持、主君の判断が重なります。西郷局の子・秀忠が後継となったことは、徳川家が一地方の大名から全国政権へ変わる過程と結び付きます。
秀忠は、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600年)9月27日に大坂城二の丸へ入り、早くから家康の後継としての立場を示されていました。慶長10年(1605年)4月16日、征夷大将軍・内大臣に任じられて二代将軍となります。家康は将軍職を秀忠へ譲った後も、源氏長者や奨学院別当といった地位は手放さず、政治的な影響力を持ち続けました。秀忠の将軍就任は単なる世代交代ではなく、徳川家が将軍職を世襲する仕組みを始める出来事であり、西郷局のページでは、この継承の背景にある家族の一人として位置付けます。
西郷局は駿府(今の静岡県静岡市)で没し、龍泉寺という寺に葬られたと伝わります。寛永5年(1628年)、後水尾天皇から従一位と「宝台院」の号が追贈され、以後この寺は宝台院と呼ばれるようになりました。個々の逸話には史料上の確認が難しいものもありますが、家康と秀忠を結ぶ母であり、将軍家の出発に関わる人物だったことは確かです。
年表で追う
関ヶ原の合戦の直後の9月27日、秀忠が大坂城二の丸に入り、家康の後継としての立場が早くから示された。
2月12日、家康が征夷大将軍・右大臣に任じられ、江戸幕府を開く。
4月16日、家康が将軍職を退き、秀忠が征夷大将軍・内大臣となる。家康は源氏長者や奨学院別当の地位を保持し続けた。
後水尾天皇が西郷局に従一位と「宝台院」の号を追贈。葬られていた駿府の龍泉寺は、以後宝台院と呼ばれるようになった。
参考にした資料
- 静岡県立中央図書館「『徳川慶喜公謹慎之地』石柱(宝台院)」(西郷局が二代将軍秀忠の生母であり駿府の龍泉寺に葬られたこと、寛永5年に後水尾天皇から従一位・宝台院の号を追贈されたことを記載)
- 国立公文書館「徳川家康-将軍家蔵書からみるその生涯-」関係年表(秀忠が大坂城二の丸に入った日付、家康の将軍就任・秀忠への将軍職継承の年月日を記載)