用語ページ / 大名の家来の集まり

家臣団かしんだん

家臣団とは?

家臣団とは、大名に仕えた一門・譜代・国衆の家来の集まりのことです。といっても、当時この言葉は使われていません。史料に出てくるのは家中かちゅうです。

大名の家中の内側には、従えた国衆の家中がもう一つ入っていました。
一門・譜代・国衆は、血のつながり、代々の奉公、あとからの従属という出どころで分かれた層です。
家老・宿老・年寄は、いちばん上の家臣を指すほぼ同じ役の呼び名です。
有力な家臣に他の家臣を預けて「衆」に束ね、1559年の北条氏の「小田原衆所領役帳」(役帳。家臣の名簿)のように帳面に書き出します。
1542年からの伊達氏天文の乱では父と子で、1563年の三河一向一揆では信仰で、家中は二つに分かれました。
織田政権は、在地領主だった家臣団を城下に住まわせ、兵農分離を進めて軍人と役人に変えました。

家中——大名の家中の内側に、国衆の家中があった

家中とは、当主とその家に仕える人たちのまとまりを指す、当時の呼び名である。

入れ子 龍造寺氏は、国衆の家来にも起請文を出させた

肥前の龍造寺氏は、従えた国衆の当主に起請文を出させた。その国衆の家来にも、龍造寺氏自身の家来にも、同じように出させている。

取次 大名の命令は、重臣を通して国衆へ届いた

大名は、国衆へ命令を伝えるとき、自分の重臣を取次とりつぎ(大名と国衆の間に立つ窓口の家臣)にした。二つの家中は、この窓口の重臣を通してつながっていた。

三つの層——血のつながりか、代々の奉公か、あとからの従属か

家臣団を分ける物差しは、どこから来た人かだった。呼び名も並び順も家によって違い、三つを上から順に並べた決まった序列はない。近江の浅井氏の家臣は、国衆クラスの上層と、土豪どごう地侍じざむらい(村や郷を基盤にした小さな領主)の下層に分けてとらえられている。

一門 龍造寺氏の名簿は、一門から始まる

一門は、当主と血のつながる家である。龍造寺氏の1580年の名簿は巻頭に「龍造寺一門」を掲げ、武田氏の家臣団の表では御親類衆ごしんるいしゅう(当主の親族の家の区分)と書かれた。

譜代 徳川では、安城松平家以来の家臣を安城譜代と呼んだ

譜代は、代々その家に仕えてきた家臣である。徳川では、安城松平家(三河の安城を本拠にした松平家)のころから従っていた家臣を「安城譜代」と呼び、家臣団の中心として天下取りを支えたとされる。その代表が酒井氏と、三河の本多一族だった。

国衆 従っても、自分の領と家中を持ち続けた

国衆は、もとは自分の領域を治めていた在地領主(その土地に根を張った領主)で、従属して家臣団に入った層である。従ったあとも自分の領と家中を保ち、大名の側はその国衆を軍事で守る義務を負った。

家老・宿老・年寄——筆頭の家臣が、合議で家を動かした

当主のすぐ下で家の政務を仕切る家臣の筆頭を、家老・宿老しゅくろう・年寄と呼んだ。三つは同じ役を指す言葉で、家によって呼び名が違うだけである。筆頭の家臣たちは寄り合って家の決め事にかかわり、その集まりも、伊達家では評定衆ひょうじょうしゅう(家の政務を合議する家臣の集まり)、肥前の草野氏では加判衆かはんしゅう(文書に連署する有力家臣の集まり)と、家ごとに呼び名が違った。関東の上杉家には、家宰という職があった。

1536年 伊達家では、筆頭の家臣11人が分国法に連署した

1536年(天文5年)、伊達稙宗たねむねは171か条の分国法(大名が自分の領国に定めた法)『塵芥集じんかいしゅう』を定めた。その巻末には「伊達家評定衆起請文」が付き、評定衆11人が連署している。

当主を止める側 草野氏の筆頭家臣たちは、当主を追い出すと誓った

肥前の国衆・草野氏では、加判衆が龍造寺氏に起請文を出している。当主の鎮永しげながが龍造寺氏に背いたときは加判衆が異見を加え、場合によっては鎮永を追い出して幼い愛菊(草野家の後継ぎの子)を守る、という内容である。

寄親と寄子——「衆」に束ね、帳面に書き出した

大勢の家来を、当主が一人ずつ動かすことはできない。そこで有力な家臣を寄親よりおや(他の家臣を預かる側の家臣)とし、ほかの家臣を寄子よりこ(有力な家臣に預けられる側の家臣)として付け、「衆」という束にして戦場へ出した。誰がどれだけの土地を持ち、どれだけの兵を出すかは、帳面に書き出した。こうした帳面を分限帳といい、北条氏の役帳もその一つである。

寄子と同心 北条氏の太田康資は、預かった寄子に私領から土地を配った

北条氏の家臣・太田康資には、役帳の上で同心どうしんと寄子(どちらも有力家臣に付けられた家臣)が預けられている。その寄子衆の所領は、康資が自分の私領の中から寄子に配った分として、康資の所領とは別に書き上げられた。

1559年 役帳——拠点ごとの「衆」に分けて書き出した

1559年(永禄2年)、北条氏は役帳を作り、家臣に課した軍役(主君に出す兵の負担)を知行ちぎょう地(主君から認められた土地)と知行高で記録した。家臣は、本拠の小田原衆、当主の身辺を固める御馬廻衆、江戸城の江戸衆というように、本拠と支城ごとの「衆」に分けて書かれる。江戸衆はさらに七つの組に分かれた。従えた国衆は「他国衆」として、北条氏が新たに与えた分だけが載り、もとから持つ所領は帳面の外にあった。

分限帳と着到帳 一冊の帳面が、四つの仕事をした

分限帳(家臣の名と知行を書き出した帳面)には、陣立ての書付、役職順の名簿、役金や米を割り当てる台帳、知行を配分する台帳という四つの働きがあった。肥前の龍造寺氏の帳面は、着到帳ちゃくとうちょうと呼ばれる。着到はもともと武士が一人ずつ差し出す届けの文書で、戦国時代に帳簿の形になった。

帳面に載る人 1580年の龍造寺氏の着到帳には、家臣以外も載っている

1580年(天正8年)の龍造寺氏の着到帳には、家臣に加えて、一時的に帰順した在地領主や、その場の判断で参陣した領主、起請文を交わした戦国大名までが書き上げられている。

成田氏の分限帳に載る武士の内訳

忍城おしじょう(今の埼玉県行田ぎょうだ市)を本拠にした成田氏の分限帳は、武士を四つに分けて数えている。

御家門11人。当主の一門。
譜代侍1,172人。代々仕えてきた侍で、大半を占める。
蔵米侍78人。
扶持方侍19人。
合計1,300人近く。武士の総人数。

割れるとき——父と子で、信仰で、家中は二つに分かれた

伊達では当主の父と子が、三河では当主と寺が争い、家中はそれぞれ二つに分かれた。

1542年 伊達氏天文の乱——父と子で、家中が二派に分かれた

1542年(天文11年)、伊達稙宗と子の晴宗はるむねが対立し、家中は稙宗派と晴宗派に分かれた。争いは1548年まで7年続き、小梁川こやながわ氏(山形の高畠に城を持った家)のように、同じ家の中で稙宗側と晴宗側に割れて対立した家もあった。

1548年 二人が土地を約束しすぎたまま、将軍の和睦命令で終わった

稙宗と晴宗は、味方を増やすために、土地を与えると約束する書状をそれぞれ出した。書状が出すぎた結果、土地の持ち主が誰なのか分からなくなった。1548年(天文17年)、将軍・足利義輝あしかが よしてるの和睦の命令で稙宗が隠居し、晴宗に家督を譲って乱は終わった。

1563年 三河一向一揆——信仰が、家康の家臣団を二つに割った

1563年(永禄6年)、松平(徳川)家康の側が、上宮寺じょうぐうじ(三河の真宗寺院)の不入ふにゅうの権利(領主の役人が寺に立ち入れない特権)を侵した。これが原因で、上宮寺をふくむ三河の真宗寺院と家康が対立した。争いは数多くの真宗門徒と家康の家臣団を巻き込み、家中は二つに割れた。

城下へ——在地を離れ、軍人と役人になった

戦国の家臣団は、自分の領地に住む在地領主の束だった。城下集住は、その家臣を領地から城下の屋敷へ移した。

集住 織田政権は、城下町の建設で家臣団を城下に集めた

織田政権は、城下町の建設を通して、在地領主だった家臣団に城下への集住を強いた。集住はさまざまな政策を重ねて次第に進んだ。こうして兵農分離が進み、家臣団は軍人と役人に変わった。

城の形 並立型から求心型へ、上下関係が城に現れた

それまでの城は、在地領主が曲輪くるわ(城の区画)ごとに自分の屋敷を構える「並立型」で、大名と家臣のゆるやかな上下関係を映していた。織田政権の城は、本丸を中心に曲輪を同心円状に重ねる「求心型」で、大名を中心にした強い上下関係を映す。

残った側 旧浅井領では、村の中の主従が近世まで残った

旧浅井領国(今の滋賀県北部)では、家臣だった土豪・地侍が、村の中に被官ひかん(主人に仕える身分の住民)を主従の形で抱えたままだった。この関係は近世に入っても容易に解けず、兵農分離は進みきらなかった。

家臣団の疑問に答える

家臣団は、何人くらいいた?

家によって桁が違う。忍城の成田氏の分限帳では、上の表のとおり武士の総人数が1,300人近くになる。最上氏の家臣団は、1600年(慶長5年)の時点で約1万人、足軽まで含めると2万8千人余りと推定されている。

馬廻は、家臣団の中でどんな立場?

馬廻うままわりは、大将を護衛して戦う直轄の軍で、主人と個人のつながりで結ばれた親衛の軍だった。人数は数十人から数千人まで一定しない。戦国時代の末期に役として定まり、特定の者が任じられるようになった。

「武田二十四将」(信玄と家臣を描いた群像図)は、いつ描かれた?

主君と家臣団を描いた武家の群像画は、17世紀後半ごろに成立した。武田二十四将は江戸時代に数多く描かれ、武士の主従の理想像として広く親しまれた。

家臣団の名簿は、今どこで見られる?

役帳は明治時代の写本が国立公文書館に伝わり、デジタルアーカイブで公開されている。評定衆11人が連署した起請文を巻末に持つ『塵芥集』は、国の重要文化財に指定され、仙台市で保管されている。

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参考にした資料