家臣団とは?
家臣団とは、大名に仕えた一門・譜代・国衆の家来の集まりのことです。といっても、当時この言葉は使われていません。史料に出てくるのは家中です。
家中——大名の家中の内側に、国衆の家中があった
家中とは、当主とその家に仕える人たちのまとまりを指す、当時の呼び名である。
三つの層——血のつながりか、代々の奉公か、あとからの従属か
家臣団を分ける物差しは、どこから来た人かだった。呼び名も並び順も家によって違い、三つを上から順に並べた決まった序列はない。近江の浅井氏の家臣は、国衆クラスの上層と、土豪・地侍(村や郷を基盤にした小さな領主)の下層に分けてとらえられている。
一門 龍造寺氏の名簿は、一門から始まる
一門は、当主と血のつながる家である。龍造寺氏の1580年の名簿は巻頭に「龍造寺一門」を掲げ、武田氏の家臣団の表では御親類衆(当主の親族の家の区分)と書かれた。
譜代 徳川では、安城松平家以来の家臣を安城譜代と呼んだ
譜代は、代々その家に仕えてきた家臣である。徳川では、安城松平家(三河の安城を本拠にした松平家)のころから従っていた家臣を「安城譜代」と呼び、家臣団の中心として天下取りを支えたとされる。その代表が酒井氏と、三河の本多一族だった。
国衆 従っても、自分の領と家中を持ち続けた
国衆は、もとは自分の領域を治めていた在地領主(その土地に根を張った領主)で、従属して家臣団に入った層である。従ったあとも自分の領と家中を保ち、大名の側はその国衆を軍事で守る義務を負った。
家老・宿老・年寄——筆頭の家臣が、合議で家を動かした
当主のすぐ下で家の政務を仕切る家臣の筆頭を、家老・宿老・年寄と呼んだ。三つは同じ役を指す言葉で、家によって呼び名が違うだけである。筆頭の家臣たちは寄り合って家の決め事にかかわり、その集まりも、伊達家では評定衆(家の政務を合議する家臣の集まり)、肥前の草野氏では加判衆(文書に連署する有力家臣の集まり)と、家ごとに呼び名が違った。関東の上杉家には、家宰という職があった。
1536年 伊達家では、筆頭の家臣11人が分国法に連署した
1536年(天文5年)、伊達稙宗は171か条の分国法(大名が自分の領国に定めた法)『塵芥集』を定めた。その巻末には「伊達家評定衆起請文」が付き、評定衆11人が連署している。
当主を止める側 草野氏の筆頭家臣たちは、当主を追い出すと誓った
肥前の国衆・草野氏では、加判衆が龍造寺氏に起請文を出している。当主の鎮永が龍造寺氏に背いたときは加判衆が異見を加え、場合によっては鎮永を追い出して幼い愛菊(草野家の後継ぎの子)を守る、という内容である。
寄親と寄子——「衆」に束ね、帳面に書き出した
大勢の家来を、当主が一人ずつ動かすことはできない。そこで有力な家臣を寄親(他の家臣を預かる側の家臣)とし、ほかの家臣を寄子(有力な家臣に預けられる側の家臣)として付け、「衆」という束にして戦場へ出した。誰がどれだけの土地を持ち、どれだけの兵を出すかは、帳面に書き出した。こうした帳面を分限帳といい、北条氏の役帳もその一つである。
寄子と同心 北条氏の太田康資は、預かった寄子に私領から土地を配った
北条氏の家臣・太田康資には、役帳の上で同心と寄子(どちらも有力家臣に付けられた家臣)が預けられている。その寄子衆の所領は、康資が自分の私領の中から寄子に配った分として、康資の所領とは別に書き上げられた。
1559年 役帳——拠点ごとの「衆」に分けて書き出した
1559年(永禄2年)、北条氏は役帳を作り、家臣に課した軍役(主君に出す兵の負担)を知行地(主君から認められた土地)と知行高で記録した。家臣は、本拠の小田原衆、当主の身辺を固める御馬廻衆、江戸城の江戸衆というように、本拠と支城ごとの「衆」に分けて書かれる。江戸衆はさらに七つの組に分かれた。従えた国衆は「他国衆」として、北条氏が新たに与えた分だけが載り、もとから持つ所領は帳面の外にあった。
分限帳と着到帳 一冊の帳面が、四つの仕事をした
分限帳(家臣の名と知行を書き出した帳面)には、陣立ての書付、役職順の名簿、役金や米を割り当てる台帳、知行を配分する台帳という四つの働きがあった。肥前の龍造寺氏の帳面は、着到帳と呼ばれる。着到はもともと武士が一人ずつ差し出す届けの文書で、戦国時代に帳簿の形になった。
帳面に載る人 1580年の龍造寺氏の着到帳には、家臣以外も載っている
1580年(天正8年)の龍造寺氏の着到帳には、家臣に加えて、一時的に帰順した在地領主や、その場の判断で参陣した領主、起請文を交わした戦国大名までが書き上げられている。
成田氏の分限帳に載る武士の内訳
忍城(今の埼玉県行田市)を本拠にした成田氏の分限帳は、武士を四つに分けて数えている。
| 御家門 | 11人。当主の一門。 |
|---|---|
| 譜代侍 | 1,172人。代々仕えてきた侍で、大半を占める。 |
| 蔵米侍 | 78人。 |
| 扶持方侍 | 19人。 |
| 合計 | 1,300人近く。武士の総人数。 |
割れるとき——父と子で、信仰で、家中は二つに分かれた
伊達では当主の父と子が、三河では当主と寺が争い、家中はそれぞれ二つに分かれた。
1542年 伊達氏天文の乱——父と子で、家中が二派に分かれた
1542年(天文11年)、伊達稙宗と子の晴宗が対立し、家中は稙宗派と晴宗派に分かれた。争いは1548年まで7年続き、小梁川氏(山形の高畠に城を持った家)のように、同じ家の中で稙宗側と晴宗側に割れて対立した家もあった。
1548年 二人が土地を約束しすぎたまま、将軍の和睦命令で終わった
稙宗と晴宗は、味方を増やすために、土地を与えると約束する書状をそれぞれ出した。書状が出すぎた結果、土地の持ち主が誰なのか分からなくなった。1548年(天文17年)、将軍・足利義輝の和睦の命令で稙宗が隠居し、晴宗に家督を譲って乱は終わった。
1563年 三河一向一揆——信仰が、家康の家臣団を二つに割った
1563年(永禄6年)、松平(徳川)家康の側が、上宮寺(三河の真宗寺院)の不入の権利(領主の役人が寺に立ち入れない特権)を侵した。これが原因で、上宮寺をふくむ三河の真宗寺院と家康が対立した。争いは数多くの真宗門徒と家康の家臣団を巻き込み、家中は二つに割れた。
城下へ——在地を離れ、軍人と役人になった
戦国の家臣団は、自分の領地に住む在地領主の束だった。城下集住は、その家臣を領地から城下の屋敷へ移した。
集住 織田政権は、城下町の建設で家臣団を城下に集めた
織田政権は、城下町の建設を通して、在地領主だった家臣団に城下への集住を強いた。集住はさまざまな政策を重ねて次第に進んだ。こうして兵農分離が進み、家臣団は軍人と役人に変わった。
城の形 並立型から求心型へ、上下関係が城に現れた
それまでの城は、在地領主が曲輪(城の区画)ごとに自分の屋敷を構える「並立型」で、大名と家臣のゆるやかな上下関係を映していた。織田政権の城は、本丸を中心に曲輪を同心円状に重ねる「求心型」で、大名を中心にした強い上下関係を映す。
残った側 旧浅井領では、村の中の主従が近世まで残った
旧浅井領国(今の滋賀県北部)では、家臣だった土豪・地侍が、村の中に被官(主人に仕える身分の住民)を主従の形で抱えたままだった。この関係は近世に入っても容易に解けず、兵農分離は進みきらなかった。
家臣団の疑問に答える
家臣団は、何人くらいいた?
家によって桁が違う。忍城の成田氏の分限帳では、上の表のとおり武士の総人数が1,300人近くになる。最上氏の家臣団は、1600年(慶長5年)の時点で約1万人、足軽まで含めると2万8千人余りと推定されている。
馬廻は、家臣団の中でどんな立場?
馬廻は、大将を護衛して戦う直轄の軍で、主人と個人のつながりで結ばれた親衛の軍だった。人数は数十人から数千人まで一定しない。戦国時代の末期に役として定まり、特定の者が任じられるようになった。
「武田二十四将」(信玄と家臣を描いた群像図)は、いつ描かれた?
主君と家臣団を描いた武家の群像画は、17世紀後半ごろに成立した。武田二十四将は江戸時代に数多く描かれ、武士の主従の理想像として広く親しまれた。
家臣団の名簿は、今どこで見られる?
役帳は明治時代の写本が国立公文書館に伝わり、デジタルアーカイブで公開されている。評定衆11人が連署した起請文を巻末に持つ『塵芥集』は、国の重要文化財に指定され、仙台市で保管されている。
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参考にした資料
- 大阪公立大学 学術情報リポジトリ「戦国領主と国衆―用語と概念規定について―」(家臣団が当時「家中」と称されたこと・国衆が独自に家中を編成したこと・大名が重臣を取次として国衆へ命令を伝えたこと・大名と国衆の関係が双務的で、大名が国衆に対し軍事的安全保障の義務を負ったこと)
- 明治大学 学術成果リポジトリ「戦国大名浅井氏と家臣たちの動向」審査報告書(浅井氏の家臣が国衆クラスの上層家臣と土豪・地侍の下層家臣に区分されること・旧浅井領国で家臣だった土豪・地侍が村の中に被官を抱えたままで、その関係が近世まで残り兵農分離が貫徹していないこと)
- J-STAGE『洛北史学』18「戦国大名分国における領域秩序形成の過程―北条分国を例として―」(役帳が小田原衆・御馬廻衆・江戸衆のように「衆」ごとに書かれること・江戸衆が七つの衆に分かれること・他国衆は北条氏が与えた分だけ記載されること・太田康資に同心・寄子が預けられ寄子衆の所領が私領から配った分として書かれること)
- 葛飾区史「第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)」(1559年作成の「小田原衆所領役帳」が家臣に課した軍役などを知行地・知行高で記録したものであること)
- 国立公文書館 デジタルアーカイブ「小田原衆所領役帳」(明治期の写本が国立公文書館に伝わり公開されていること)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(鎌倉市中央図書館)「『小田原衆所領役帳』もしくは『北条氏所領役帳』が見たい。」(小田原衆所領役帳が北条家分限帳とも呼ばれ、分限帳の一つであること)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(大阪府立中央図書館)「戦国から江戸時代の軍事雇用者数について知りたい。」(分限帳の四つの働き・成田家分限帳の御家門11人/譜代侍1,172人/蔵米侍78人/扶持方侍19人と武士総人数1,300近く・最上氏の家臣団が慶長5年に約1万人、足軽まで含め2万8千余と推定されること)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(北九州市立中央図書館)「馬廻り(うままわり)の意味について知りたい。」(馬廻が大将を護衛して戦う直轄軍で主人と個人的情誼で結ばれた親衛軍であること・員数が数十名から数千名まで一定しないこと・戦国時代末期に職制化されたこと)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(横浜市中央図書館)「城下集住制…何か法令が出されたのでしょうか。」(城下集住が一つの法令で一斉に実現したものではなく、様々な政策で次第に進んだこと)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(県立長野図書館)「武田信玄に味方した信濃の武士は武田氏滅亡後、どのような経緯を辿ったのか」(武田氏の家臣団の表に「御親類衆」の区分があること)
- 国立国会図書館 ジャパンサーチ ギャラリー「武田信玄」(主君と家臣団を描いた武家の群像画が17世紀後半ごろに成立したこと)
- 山梨県立博物館「博物館の資料に見る『風林火山』の世界 3:武田二十四将図」(武田二十四将図が江戸時代に数多く描かれ武士の主従の理想像として親しまれたこと)
- 金沢市「城下町金沢学術研究1 第1分冊 日本の城下町と金沢城下町」(織田政権が城下町建設を通して在地領主であった家臣団の城下集住を強制し、兵農分離と家臣団の軍人・官僚化を果たしたこと・並立型城郭と求心型城郭の違い)
- 立教大学 学術リポジトリ『史苑』49-2「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(年寄衆とは家老・宿老の意味であること)
- 九州大学 学術情報リポジトリ『九州文化史研究所紀要』23「竜造寺家臣団の構成とその特質(一)―天正八年着到帳の分析を中心として―」(佐賀藩が家臣団の分限帳を着到帳と呼んだこと・着到状が武士個人の上申文書から戦国期に帳簿形式になったこと・天正8年の着到帳に一時的に帰順した在地領主や起請文を交換した戦国大名が含まれること・「竜造寺一門」の区分)
- 大阪公立大学 学術情報リポジトリ『人文研究』75「戦国大名龍造寺氏と国衆の関係について―起請文の分析を中心に―」(国衆の当主だけでなく「龍造寺氏の家中」「国衆の家中」にも起請文を提出させたこと・草野氏の加判衆が当主・鎮永に異見を加え、場合によっては鎮永を放逐して幼い愛菊を守ると起請したこと)
- 安城市「『どうする家康』活用事業」(安城松平家より臣従していた家臣が安城譜代と呼ばれ徳川家臣団の中心として天下取りを支えたとされること・代表が酒井氏と三河本多一族であること・三河一向一揆が家臣団の分裂に発展したこと)
- 安城市「史跡本證寺境内保存活用計画」第3章(1563年に上宮寺での不入権の侵害が原因で上宮寺など三河の真宗寺院と松平家康が対立したこと・数多くの真宗門徒と家康の家臣団を巻き込んだ三河一向一揆へ発展したこと)
- 伊達市「伊達氏天文の乱」(1542年から1548年までの稙宗と晴宗の対立・稙宗派と晴宗派への分裂・小梁川氏が同じ家中で両派に分かれたこと・土地を約束する書状が出すぎて持ち主が分からなくなったこと・1548年の将軍足利義輝の和睦命令と稙宗の隠居)
- 文化庁 文化遺産オンライン「塵芥集」(1536年に伊達稙宗が制定した171か条の分国法であること・巻末に「伊達家評定衆起請文」が付され11人が連署すること・重要文化財として仙台市で保管されていること)