勢力・家ページ / 名跡を継いだ越後の家

上杉氏うえすぎし

上杉氏(上杉家)は、二つの顔を持つ一族です。一つは室町時代に関東管領かんとうかんれいを世襲した関東の名門・山内上杉氏やまのうちうえすぎし。もう一つは、その名跡を1561年に継いだ越後の長尾景虎、のちの上杉謙信の家です。謙信は武田信玄・北条氏康と争い、養子の上杉景勝が家を継ぎました。景勝は豊臣政権の五大老となり会津120万石を得ますが、関ヶ原ののち米沢30万石に減らされます。それでも家臣団を離さず、米沢藩として明治維新まで続きました。

関東管領の名門・山内上杉氏 1561年 長尾景虎が名跡を継ぐ 謙信・景勝・兼続 会津120万石→米沢30万石、存続

上杉氏とは?

  • もとは関東管領を世襲した名門。室町幕府のもとで関東を統括する関東管領の職を、山内上杉氏が代々務めた。ただし戦国期には北条氏に押されて衰えた。
  • 越後の長尾氏が名跡を継いだ。越後守護・上杉氏の家臣筋で越後守護代を務めた長尾氏の長尾景虎が、1561年に上杉憲政のりまさから関東管領職と上杉の名跡を譲られ、上杉を名乗った。これが謙信の上杉家。
  • 謙信は「大義名分」で戦った。関東管領として北条氏と、信濃の国衆くにしゅうを助けて武田氏と戦った。川中島の戦い、小田原包囲など、領土拡大より秩序の回復を掲げた点が特徴。
  • 謙信の死後、養子どうしが争った。実子のいなかった謙信の跡を、養子の景勝と景虎が御館の乱おたてのらんで争い、景勝が勝った。
  • 減封されても家は続いた。景勝は五大老として会津120万石を得たが、関ヶ原ののち米沢30万石へ。家臣を減らさずに移り、米沢藩として明治まで続いた。
家のはじまり

「上杉」には、二つの流れがある

山内上杉氏
関東管領の家
足利尊氏の母を出した家で、足利将軍家と縁が深い。室町時代に関東管領を世襲し、上野・伊豆などの守護を兼ねた関東の名門。鎌倉公方かまくらくぼう・足利成氏しげうじと争った享徳の乱きょうとくのらん(1454〜82)では、関東管領として幕府方を率いた。分家の扇谷上杉氏(家宰の太田道灌おおた どうかんが江戸城・河越城を築いた家)と争い、さらに北条氏に押された。1546年の河越合戦で北条氏康に敗れ、扇谷上杉氏は滅び、山内上杉氏も衰えた。
長尾氏
越後の守護代
越後の守護・上杉氏の家臣で、越後の守護代を務めた家。謙信の父・長尾為景ながお ためかげは1507年に守護の上杉房能ふさよしを攻めて自害に追い込み、実権を握った。景虎(謙信)の代に、衰えた山内上杉氏の名跡を継いだ。

つまり謙信の上杉家は、守護代の家が主家の名を継いだ型です。北条氏が鎌倉北条氏の名を「借りた」のに対し、上杉氏は当主本人から正式に「譲られた」点が違います。関東管領という肩書きは、謙信が関東へ出兵する大義名分になりました。

謙信の時代

謙信は、何のために戦ったのか

  1. 011548年:長尾景虎、家督を継ぐ

    兄に代わって長尾家を継ぎ、分裂していた越後をまとめました。春日山城が本拠です。

  2. 021553〜64年:川中島の戦い

    武田信玄に追われた信濃の国衆を助ける形で、信濃へ出兵。川中島で信玄と5回にわたって対峙しました。1561年の第四次が最大の激戦です。

  3. 031561年:関東管領と上杉の名跡を継ぐ

    北条氏に追われて越後へ逃れていた上杉憲政から、鎌倉で関東管領職と上杉の名跡を譲られました。同年、小田原城を包囲しています。

  4. 041570年代:信長との対立と死

    北陸へ進出して1577年の手取川の戦いで織田軍を破りますが、翌1578年、春日山城で急死しました。49歳。

謙信は領土を広げることより、「関東管領として秩序を回復する」「助けを求めた者を救う」という大義を掲げて戦いました。この姿勢が後世「義の武将」と呼ばれる元になっています。詳しくは上杉謙信うえすぎ けんしんと川中島の戦いで整理しています。

謙信のあと

家はどう続き、なぜ米沢へ移ったのか

  • 御館の乱で景勝が勝った。謙信には実子がなく、甥の上杉景勝と北条氏から来た養子の上杉景虎が跡を争った。1579年に景勝が勝ち、家を継いだが、越後は疲弊した。
  • 秀吉に従って五大老へ。信長の攻勢で危機に陥ったが本能寺の変で救われ、秀吉に臣従。景勝は五大老の一人となり、1598年に会津120万石へ移された。
  • 関ヶ原で米沢30万石に。1600年、家康の会津征伐が関ヶ原の戦いの発端となった。西軍側とみなされた景勝は、戦後に米沢30万石へ減らされた。
  • 家臣を減らさず米沢へ。景勝と直江兼続は家臣団をほぼそのまま連れて米沢に移り、城下町を整えた。財政難は長く続いたが、米沢藩は明治まで続き、九代の上杉鷹山は藩政改革の名君として知られる。

御館の乱の経過は御館の乱で、減封後の本拠は米沢城で読めます。

上杉氏の家系図

長尾為景から、米沢藩の上杉鷹山まで。実線が親子、細い線が婚姻、緑の点線が養子。上杉氏は血の流れが何度も入れ替わった家で、謙信は長尾家から上杉の名跡を継ぎ、景勝は姉の子として養子に入り、江戸時代の鷹山も他家からの養子だった。

上杉氏(長尾・上杉)の家系図長尾為景の子:謙信・仙桃院(兄・晴景から家督を譲られる)。謙信は上杉憲政の養子として関東管領を継ぐ。謙信の養子:景勝(仙桃院と長尾政景の子)と景虎(北条氏康の子)。景勝→定勝→米沢藩→鷹山。 ながお ためかげ長尾為景越後守護代・謙信の父 うえすぎ のりまさ上杉憲政関東管領・北条に追われ越後へ うえすぎ けんしん上杉謙信兄・晴景から家督→上杉の名跡へ ながお まさかげ長尾政景上田長尾家・謙信の姉婿 せんとういん仙桃院謙信の姉・景勝の母 うえすぎ かげとら上杉景虎北条氏康の子・養子→御館の乱で自害 うえすぎ かげかつ上杉景勝養子・御館の乱に勝ち当主に なおえ かねつぐ直江兼続家老・景勝を支える うえすぎ さだかつ上杉定勝景勝の子・米沢藩二代 うえすぎ ようざん上杉鷹山九代・秋月家からの養子・藩政改革 家督(1548) 養子・上杉の名跡と関東管領(1561) 婚姻 実の甥 養子(1575) 養子(1570)・北条から 御館の乱(1578〜79) 重臣 関ヶ原後、米沢30万石へ (六代後)養子として入る
この図で見てほしいのは、緑の点線の多さです。謙信自身が上杉憲政の養子として名跡を継ぎ、その謙信も実子がなく二人の養子を残して、御館の乱で景勝が勝った。景勝の系統は米沢藩として続くが、江戸中期には秋月家から鷹山を養子に迎えている。上杉氏は「血筋」よりも「名跡を誰が継ぐか」で続いてきた家といえる。

図の人物:長尾為景ながお ためかげ・上杉憲政うえすぎ のりまさ・上杉謙信うえすぎ けんしん・上杉景勝うえすぎ かげかつ・上杉景虎うえすぎ かげとら・直江兼続なおえ かねつぐ・御館の乱・川中島の戦い

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上杉氏をめぐる人物

上杉氏についてのよくある疑問

謙信はもともと上杉ではなかったのか?

そのとおりです。謙信は越後の守護代・長尾家に生まれ、長尾景虎と名乗っていました。1561年、北条氏に追われて越後に身を寄せていた関東管領・上杉憲政から、関東管領の職と上杉の名跡を正式に譲られて上杉政虎と改名し、のちに輝虎、さらに出家して謙信と名乗ります。主家の名を継いだ形ですが、家そのものは長尾氏から続いています。

謙信に子がいなかったのに、家はどう続いたのか?

謙信は生涯独身で実子がなく、姉の子である景勝と、北条氏康の子である景虎の二人を養子にしていました。1578年に謙信が急死すると、二人は跡目を争い(御館の乱)、翌年に景勝が勝利して家を継ぎました。謙信が後継者を明確に定めていなかったことが争いを招き、越後の国力を大きく損なったとされています。

120万石から30万石に減らされて、なぜ家が続いたのか?

取りつぶしではなく減封で済んだのは、景勝が関ヶ原の戦場に直接関わらず、戦後に上洛して家康に謝罪したことが大きいとされます。減封後、景勝は家臣団をほとんど減らさずに米沢へ移りました。このため藩の財政は長く苦しみましたが、家臣が家を離れなかったことが、藩としてのまとまりを保つ土台になりました。上杉鷹山の改革は、この財政難への対応から生まれています。

上杉氏は本当に「義の家」だったのか?

「義」という評価は江戸時代以降に強調されたもので、同時代の謙信が自らそう称したわけではありません。ただし謙信が関東管領という肩書きを重んじ、助けを求めた国衆のために出兵を繰り返したことは史料で確かめられます。領土を広げて定着させることより、秩序の回復という名分を優先した戦い方は、同じ時代の北条氏や武田氏と比べると確かに異質でした。

「長尾景虎」と「上杉景虎」は同じ人?

別人です。長尾景虎は上杉の名跡を継ぐ前の謙信本人。上杉景虎は北条氏康の子で、1570年に謙信の養子になった人物で、御館の乱で景勝と争って敗れました。

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参考にした資料