上杉憲政とは?
- 関東管領の家の当主だった。山内上杉氏は室町時代に関東管領や上野の守護をつとめた家。群馬県立図書館の郷土人物データは、憲政を「上杉家最後の管領」と紹介している。
- 河越で両上杉氏が北条氏に退けられた。1546年(天文15年)、両上杉氏と古河公方の軍勢の反撃を、河越城の北条氏が退けた。
- 平井城を捨てた。1552年(天文21年)、上野の平井城を捨てた。その前年ごろには、四男の龍若丸が北条方に殺されたとされる。
- 景虎に家督と名跡を譲った。1561年(永禄4年)、越後の長尾景虎に家督を譲り、関東管領職と上杉の名跡も渡した。以後、長尾氏が上杉氏を名乗る。
- 家の古文書も謙信の家へ移った。山内上杉氏に伝わった古文書も受け継がれ、いまは国宝「上杉家文書」の一部として残る。憲政は1579年(天正7年)に没した。
何をした人物か
山内上杉氏は、室町時代に関東管領や上野の守護をつとめた家です。上野の平井城(いまの群馬県藤岡市)は、1438年(永享10年)に関東管領上杉憲実が鎌倉から退いた城で、永享の乱の舞台になりました。藤岡市は発掘調査をもとに、16世紀中頃を平井城が使われた最終段階ととらえています。のちに剣術の新陰流の祖とされる上泉秀綱も、22歳で父の跡を継いで上泉城主となり、関東管領上杉憲政に仕えました。
武蔵の河越城は、もとは扇谷上杉氏の家臣太田道真・道灌父子らが1457年に築いた城です。1537年(天文6年)の北条氏綱による河越攻めに始まる河越合戦で勝った北条氏は、1546年(天文15年)、俗に「河越夜戦」と呼ばれる戦いで両上杉氏と古河公方勢の反撃を退けました。以後50年あまり、河越城は北条氏の支城として使われます。1551年(天文20年)ごろには憲政の四男・龍若丸が北条方に殺され、翌1552年、憲政は平井城を捨てました。
1561年(永禄4年)、憲政は越後の長尾景虎に家督を譲りました。景虎(のちの輝虎・謙信)は関東管領職と上杉の名跡を受け継いで上杉氏を名乗り、山内上杉氏に伝わった古文書もこの家に移ります。謙信は1578年に急死し、養子の景勝と景虎(北条氏から入った養子)の家督争い、御館の乱が起こりました。憲政が没したのは、その翌年の1579年(天正7年)です。
年表で追う
- 011522年:誕生
大永2年に生まれる。
- 021546年:河越合戦
両上杉氏と古河公方勢が、河越城の北条氏に退けられる。
- 031551年ごろ:四男の死
四男の龍若丸が北条方に殺される。
- 041552年:平井城を捨てる
天文21年、上野の平井城を離れる。
- 051561年:家督を譲る
長尾景虎に家督を譲り、関東管領職と上杉の名跡も渡る。
- 061579年:死去
天正7年、謙信の死の翌年に没する。
憲政を読むときに気をつけたいこと
- 「河越夜戦」は俗称。川越市の説明も「俗に『河越夜戦』と称される戦い」と書き、北条氏が両上杉氏と古河公方勢の反撃を退けたとだけ述べる。夜襲の様子や兵力の数字は、このページでは扱わない。
- 譲られたのは名前と職だけではない。群馬県立文書館の文書群解説は、景虎が関東管領職と上杉の名跡を譲られたとき、山内上杉氏に伝わった古文書も受け継いだと書く。国宝「上杉家文書」には、室町時代の山内上杉氏の所領や相続にかかわる文書が含まれている。
参考にした資料
- 群馬県立文書館「文書群概要(上杉隆憲家文書)」(山内上杉氏が関東管領・上野守護をつとめたこと、憲政が1552年に平井城を捨て1561年に長尾景虎へ家督を譲ったこと、古文書も受け継がれたことを記載)
- 文化遺産オンライン「上杉家文書」(輝虎(謙信)が山内上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を譲られたこと、上杉家文書に山内上杉家文書が含まれることを記載)
- 群馬県立図書館「郷土人物データベースデータ」(憲政の生没年と「上杉家最後の管領」という紹介、四男龍若丸と上泉秀綱の項目での憲政への言及を収録。xlsx形式)
- 藤岡市「関東管領 上杉氏」(関東管領の成り立ちと、上杉憲実が平井城へ退いた永享の乱を解説。憲政の名は出てこない)
- 藤岡市「平井城跡」(平井城が永享の乱の舞台となったこと、16世紀中頃を在城の最終段階とすることを記載。憲政の名は出てこない)
- 川越市「県指定記念物 川越城跡」(河越城の築城と、1546年に北条氏が両上杉氏と古河公方勢の反撃を退けたことを記載。憲政の名は出てこない)
- 新潟県「坂戸山と御館の乱」(1578年の謙信の急死と、景勝と景虎が争った御館の乱を記載。憲政の名は出てこない)