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古河公方こがくぼう

古河公方とは?

古河公方とは、下総しもうさの古河(今の茨城県古河市)を本拠にした足利氏のことです。といっても新しく作られた役職ではなく、鎌倉を追われた鎌倉公方かまくらくぼうが、そのまま名前を変えて続いたものです。

1455年、5代鎌倉公方の足利成氏しげうじが鎌倉を離れ、下総の古河に入ります。
1457年、修築の成った古河城に入城。川の集まる古河に、公方の城と町ができます。
同じ1457年、幕府が足利政知まさともを鎌倉公方として送りますが、伊豆の堀越ほりごえで止まります。
1482年、幕府と成氏が和睦し、28年続いた戦いに区切りがつきます。
2代政氏と子の高基が家督を争い、1518年には政氏の次男・義明が下総の小弓おゆみで自立します。
1552年、4代晴氏はるうじが隠居を強いられ、1555年、北条の血を引く義氏よしうじが元服します。
1582年、5代義氏が9歳の娘を残して古河城で死去します。

古河へ——鎌倉を追われた公方が、下総の古河に本拠を移した

1454年(享徳3年)の暮れ、5代鎌倉公方の足利成氏が関東管領かんとうかんれいの上杉憲忠のりただを殺し、関東は成氏方と上杉方に割れた(享徳の乱きょうとくのらん)。

1455年 本拠を移す——鎌倉に戻って6年で、その鎌倉を離れた

足利成氏が鎌倉公方として鎌倉に復帰したのは1449年で、古河へ移ったのは6年後の1455年(康正元年)6月である。迎えられて間もない公方が、みずから起こした戦のさなかに鎌倉を出て、下総へ本拠を移した。この1455年をもって、古河公方家の成立とされる。古河に移ってからのこの家を、古河公方と呼ぶ。

よりどころ 尊氏の子・基氏の直系だと言って、京都と争った

関東を治める役目は、そもそも足利尊氏が子の基氏もとうじに持たせて鎌倉へ下したものである。成氏はその基氏から数えて5代目にあたり、初代鎌倉公方の直系である自分こそ関東の主だと言って、京都の室町将軍家と戦った。本拠を移してなお公方でいられたのは、この血筋があったからである。

東国の都——川が集まり、公方家に縁もある土地が選ばれた

古河に移って2年後の1457年(長禄元年)、修築の成った古河城に成氏が入る。それまでは鴻巣こうのすに館を建てていたと伝わる。

川の要 古河は、水の集まる交通の要所だった

古河は、川がいくつも集まる場所だった。利根川と渡良瀬川わたらせがわの支流が決まった筋を持たずに低地を流れていて、古河はその水の網に面した河川交通の要所である。当時の利根川は今のように太平洋へ注いではおらず、関東平野を南へ下って東京湾に流れ込んでいた。

舟運の網 公方の城は、川でつながっていた

古河公方の時代、古河から関東一円への舟運が発展し、古河城・鴻巣館・栗橋城くりはしじょう(今の茨城県五霞町ごかまちの城)・関宿城せきやどじょうのあいだを舟で行き来できたとみられる。関宿城は1457年、成氏の有力家臣・簗田やなだ成助が関宿(今の千葉県野田市)に築いたもので、古河公方家はこの川でつながった城の連なりの上に立っていた。

前からの縁 2代鎌倉公方も、古河に陣を置いていた

2代鎌倉公方の足利氏満うじみつは、小山若犬丸おやまわかいぬまるの乱(北関東の豪族の反乱)に際して古河に在陣した。その陣所が後年の古河城の前身とみられており、成氏が入る前から、古河は公方家に縁のある土地だった。

町の始まり 館の東に、家臣と商人の町ができた

鴻巣の館の東の土塁から古街道にいたる道筋は、上宿・中宿・下宿と呼ばれた。ここに家臣団の屋敷と商業者の住居が並び、初期の城下町が形づくられていく。古河は公方の居所であると同時に、人と物が集まる東国の都市になった。

二人の公方——幕府はもう一人の公方を送ったが、鎌倉に入れず伊豆で止まった

成氏が古河城に入ったのと同じ1457年(長禄元年)、幕府が関東へ送ったのは、将軍足利義政の兄・政知である。成氏に代わる鎌倉公方として、この人に関東を任せるつもりだった。

1457年 堀越公方——伊豆に構えた、都風の御所

足利政知は1457年に関東へ下ったが、鎌倉は荒廃して戦乱の只中にあり、伊豆国の韮山にらやま・堀越(今の静岡県伊豆の国市)に御所を構えてとどまった。ここにいた政知の家を堀越公方という。御所の跡からは遣り水やりみず(庭に引いた細い流れ)や滝口を伴う池の跡が見つかっており、伊豆の地で公方が都風の暮らしを送っていたことが分かる。

1471年 三島進軍——古河公方が、伊豆まで攻め込んだ

足利成氏は1471年(文明3年)、伊豆の三島(今の静岡県三島市)まで軍を進めた。三島も堀越も同じ伊豆国で、幕府が立てた公方の膝元まで古河の軍が届いたことになる。誰と戦ったのかは、史料では確定できない。

1493年 終わり——堀越公方は、伊勢宗瑞に滅ぼされた

堀越公方は、1493年(明応2年)に伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされた。1457年に関東へ送られてから36年で、幕府が関東に立てた公方は消えたことになる。関東で公方を名乗る家は、ふたたび古河公方だけになった。

都鄙合体——幕府と和睦し、成氏は認められた公方になった

都鄙合体とひがったいという言葉がある。都は京都の幕府、鄙は関東を指し、割れていた二つが一つに戻ったという意味である。

1482年 線引き——関東は成氏、伊豆は政知

1482年(文明14年)、幕府と足利成氏のあいだで和睦が成立し、武力衝突は回避された。この和睦で、関東は成氏が、伊豆は足利政知が治めると決まる。鎌倉公方として送り込まれた政知は伊豆一国の主として位置づけ直され、関東の主が古河にいるという形が、ここで公に確定した。

東の将軍 得たもの——古河にいながら、東国の将軍として立った

1482年の和睦で足利成氏が得たのは、鎌倉に戻らずとも関東の主でいられるという公の裏づけである。公方とは将軍を指す言葉で、西国の室町将軍に対して、古河にいるのは東国の将軍にあたる。

一族の分裂——父子が家督を争い、弟が下総の小弓で自立した

都鄙合体から15年、初代の足利成氏は1497年(明応6年)9月に古河で没し、子の政氏まさうじが2代を継いだ。ここから古河公方家は、幕府とではなく身内と争うようになる。

2代政氏 父子の争い——子に敗れ、久喜へ退いた

足利政氏は、子の足利高基たかもととの対立に敗れ、1519年(永正16年)に武蔵の久喜(今の埼玉県久喜市)へ移り住んだ。古河は勝った高基が継ぎ、3代となった。政氏の館は永安山甘棠院かんとういんという寺になり、政氏は1531年(享禄4年)にこの地で没している。父子がなぜ争ったのかは、史料では確定できない。

1518年 小弓公方——「もう一人の関東の将軍」が立った

その家督争いと同じころ、政氏の次男・足利義明が、1518年(永正15年)、房総の武士たちに支えられて下総の小弓(今の千葉市中央区生実町おゆみちょう)で自立した。小弓公方と呼ばれ、古河の兄・高基とは別に「もう一人の関東の将軍」と称された。古河の家督が高基に移るのと並んで、下総の南に、もう一つの公方の御所ができたことになる。

1538年 国府台こうのだい——小弓公方は当主を失った

足利義明は1538年(天文7年)10月、里見義尭よしたから房総の武士を率いて下総の国府台(今の千葉県市川市)に陣を取り、北条氏綱うじつなと戦って敗れ、戦死した(国府台合戦)。三男の国王丸くにおうまると二人の姫は安房里見氏に保護され、国王丸は成人して足利頼純よりずみと名乗る。小弓公方家は当主を失いながらも、血筋としては房総に残った。

北条の下で——縁組と河越の敗戦を経て、公方は北条の血を引く当主に替わった

4代・足利晴氏の代、古河公方家は相模から伸びてきた北条氏と縁を結ぶ。1539年(天文8年)、北条氏綱ほうじょう うじつなの娘・芳春院ほうしゅんいんが晴氏に嫁ぎ、この婚儀によって北条氏は「足利氏御一家」——足利の一門として扱われる格式を得て、古河公方家に次ぐ政治的な地位を手にした。1543年(天文12年)には二人の間に梅千代王丸うめちよおうまるが生まれる。のちの5代・足利義氏である。

1546年 河越合戦——公方は上杉方に付いて敗れた

1546年(天文15年)、古河公方の勢は山内・扇谷おうぎがやつの両上杉氏とともに、北条氏の手に落ちていた河越城(今の埼玉県川越市)へ攻めかかった。北条氏はこの反撃を退け、俗に「河越夜戦」と呼ばれる戦いになる。北条氏綱の娘を妻に迎えていた4代・足利晴氏が、なぜ妻の実家と戦うことになったのかは、史料では確定できない。

1552年 隠居——家督を譲らされた

1552年(天文21年)、足利晴氏は北条氏によって梅千代王丸への家督移譲と自身の隠居を強いられた。このころ公方家は葛西城(今の東京都葛飾区青戸にあった城)にいて、早ければ1550年、遅くとも1551年ごろにはこの城へ移っていたとみられる。古河公方の居所そのものが、北条氏の勢力圏の内側に入っていた。

1555年 元服——将軍から一字を与えられ、義氏と名乗った

1555年(弘治元年)、13歳の梅千代王丸は葛西城で元服した。13代将軍・足利義輝よしてるから「義」の字を与えられて足利義氏と名乗り、北条氏康はこの儀式に臨席して、北条の血を受け継ぐ公方の誕生を祝った。

1558年 関宿へ——鎌倉に参ってから、拠点を移した

足利義氏は1558年(永禄元年)4月4日、鎌倉社参のために葛西城を発った。鎌倉は初代基氏以来の公方の本拠だった土地で、成氏が去ってからおよそ百年後に、5代目が参ったことになる。その後、義氏は関宿城へ移った。

断絶——1582年、5代義氏が男子を残さず死に、家は絶えた

1582年(天正10年)、5代・足利義氏が古河城で死去した。残されたのは9歳の娘・氏姫うじひめ(氏女とも書く)だけで、家督を継ぐ男子はいない。初代成氏から数えて5代、下総の古河に続いた公方の家は、ここで断絶した。

1583年正月 葬送——古河で死に、久喜に葬られた

足利義氏の葬儀は、死の翌年の正月に久喜の甘棠院で行われ、同院に葬られた。2代政氏が退いた先の寺で、5代の葬儀が営まれたことになる。古河にも義氏の墓所が残り、県の史跡に指定されている。

その後 残された娘——絶えた家の名を、秀吉が別の血筋に継がせた

足利義氏の娘・氏姫は、1590年の北条氏滅亡と古河城の破却の後、鴻巣の館へ移った。豊臣秀吉とよとみ ひでよしは氏姫に鴻巣周辺の7か村を安堵し、男子の絶えた古河公方家に小弓公方家の足利国朝くにとも(義明の孫)を入れて再興を認めた。国朝の急死後は弟の足利頼氏よりうじがめあわされ、割れていた公方の家名は、分かれた小弓の血筋のもとで一つになった。

古河公方の疑問に答える

今の古河に、何が残っている?

成氏が最初に館を構えた鴻巣に、古河公方館跡が残る。二重の堀を持つ館で、今も堀跡と土塁が明瞭に見て取れ、一帯は古河公方公園として整備されている(茨城県古河市鴻巣)。この館は寛永4年(1627)まで「鴻巣御所」と呼ばれた。近くには県の史跡の成氏館跡があり、かつての御所沼ごしょぬまに突き出た半島の中央部にあたる。「鴻巣御所」「御所沼」という名は、公方すなわち将軍の在所に対する尊称である。

5代義氏の墓所も県の史跡である。墓所のある徳源院とくげんいん跡(古河にあった寺の跡)には、大正15年建立の「古河公方義氏公墳墓」の標石と、娘・氏姫、義氏の孫にあたる足利義親よしちか宝篋印塔ほうきょういんとう(供養のための石塔)が並ぶ。

古河の外に、古河公方ゆかりの場所はある?

埼玉県久喜市に、2代政氏の館跡と墓がある。館をそのまま寺にした甘棠院で、東西140メートル・南北250メートルの敷地の北・西・南の三方に空堀が残り、県の史跡に指定されている。政氏の五輪塔は、この寺の墓域にある。伊豆側では、静岡県伊豆の国市の伝堀越御所跡が国の史跡になっており、発掘で池の跡が見つかっている。

古河公方の子孫は、江戸時代どうなった?

秀吉が氏姫と結び直した家は、足利頼氏が下野の喜連川きつれがわ(今の栃木県さくら市)に居館を定め、その地名を名字としたことから喜連川公方と尊称された。喜連川氏となったこの家は、江戸時代を通じて続く。幕府は足利将軍家の子孫のうち唯一の大名として扱い、格式は10万石、実際の石高は1万石として優遇した。

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参考にした資料