国府台合戦とは?
1538年と1564年、国府台(今の千葉県市川市)で北条氏が房総の勢力を破り、小弓公方が当主を失い、里見氏が退いた戦い。
第一次(1538年)と第二次(1564年)の二つをまとめて、国府台合戦と呼びます。戦場はどちらも同じ、太日川(今の江戸川)の東岸に張り出した下総台地の西端でした。
第一次・開戦——晴氏の依頼を受けた氏綱が、義明の陣へ向かった
国府台は、下総国の国府が置かれた台地である。中世には「府中」と呼ばれ、享徳の乱で関東が東西に割れて以来、太日川をはさんで両陣営がにらみ合う位置にあたっていた。台地の上には、1479年(文明11年)に太田道灌が築いたと伝わる城があった。1518年(永正15年)には、古河公方の家から分かれた足利義明が下総の小弓で自立し、関東の公方は古河と小弓の二つに並んでいた。一度目の戦いが起きたのは、1538年(天文7年)10月のことである。
もう一人の将軍 足利義明が、房総の武士に支えられて小弓に拠った
足利義明は、千葉氏(下総に根を張った武士の一族)の重臣・原氏の本拠だった小弓(今の千葉市中央区)を、自らの本拠としていた。上総にも影響力を持ち、その上総の武田氏と安房の里見氏に支えられて、「もう一人の関東の将軍」と称されている。
討伐の依頼 1538年、足利晴氏が氏綱に義明の討伐を頼んだ
古河を本拠とする足利晴氏は1538年、敵対する義明の討伐を北条氏綱に依頼した。氏綱はこれを受けて軍を進め、子の氏康も出陣している。北条氏は1524年に扇谷上杉家を破り、武蔵へ勢力を伸ばしていた。
房総勢の北上 房総の軍が台地に上がり、川ごしに北条方と向かい合った
足利義明と里見義堯の軍は1538年(天文7年)10月、太日川の東岸にあたる国府台の台地に上がった。北条方は川の西岸に足場を置いており、両軍は川ごしに向かい合う形になる。義明は下総の小弓、義堯は安房を本拠としており、房総の二つの勢力が下総の西端まで進んだことになった。
前線基地 葛西城が、北条方の足場になった
葛西城(今の東京都葛飾区青戸)は、このとき北条氏の前線基地になったと考えられている。享徳の乱のころに上杉氏が築いた城で、太日川の西岸、国府台から見て川向こうに立つ。
第一次・決着——義明が子とともに討たれ、房総軍が退いた
1538年10月の戦いの場は、国府台の台地だけではなかった。となりの相模台(今の千葉県松戸市)にも、この年の戦いは及んでいる。
北条の勝利 北条軍が勝ち、足利義明が戦死した
1538年10月の戦いは北条軍の勝利に終わり、足利義明は子とともに討死して、房総軍は敗退した。小弓に拠った公方は、ここで当主を失う。
相模台の死者 となりの相模台でも、千余人が死んでいる
相模台では、第一次国府台合戦の戦死者が千余人にのぼったと『本土寺過去帳』に記されている。義明が討たれた場所は、国府台とする資料と、この相模台とする資料に分かれている。
葛西を得た 1538年の勝利で、北条氏が葛西一帯を治めた
北条氏は1538年の勝利によって、太日川の西岸にあたる葛西地域の一帯を治めるようになった。前線基地として使った葛西城は、そのまま北条方の城として残る。
小弓へ戻る原氏 義明が討たれ、原氏が生実城に復帰した
義明が討たれると、原氏が生実城(小弓城)に復帰した。小弓(生実)は下総国千葉郡にあたり、浜野湊と陸路が結ぶ場所にある。
二十六年——下総が北条に寄り、里見が北へ押し上げた
第一次から第二次まで、二十六年ある。この間に関東の力関係は大きく動いた。下総では千葉氏が北条方に寄り、房総では里見氏が上総へ勢力を広げた。その周りでは、城をめぐる争いが続いている。
千葉氏の選択 千葉氏が、北条氏への依存を強めた
千葉氏は、小弓公方に対抗するため小田原の北条氏に接近していた。義明が討たれて小弓公方が消えたあとも、この結びつきは解けなかった。むしろ争いが続くなかで、千葉氏は北条氏への依存を強めていく。
里見の攻勢 里見氏が、生実や千葉へたびたび攻め込んだ
里見氏は、義明が討たれたあとも生実や千葉へたびたび攻め込んだ。安房を本拠に上総へ勢力を広げ、下総との境まで押し上げてくる。天文年間(1532〜1554年)には上総の武田氏との争いに勝ち、佐貫城(今の千葉県富津市)を手に入れた。
葛西城が二度替わる 1560年と1562年、葛西城の主が入れ替わった
葛西城は1560年、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東へ攻め入ったときに落ち、葛西の周辺は反北条方へ移った。1562年には北条方の武将・太田康資の攻撃で再び落城し、北条方へ戻る。太日川の河口に近いこの城は、二度の合戦のあいだに何度も持ち主が替わっていた。
第二次・発端——太田康資が北条を離れ、里見義弘が下総へ入った
1546年に河越で両上杉を破ってから十八年、北条氏康は関東の広い範囲を押さえていた。二度目の戦いは、その足元で起きた離反から始まる。1564年(永禄7年)の正月のことである。
離反 1564年、太田康資が北条方から離れた
太田康資は1564年(永禄7年)、北条方から離反した。二年前に葛西城を攻め落とした功のある武将が、北条方の側から抜けた。なぜ離反したのかは、史料では確定できない。
里見の下総侵攻 康資の離反を受け、里見義弘が下総へ入った
安房の里見義弘は1564年(永禄7年)、康資の離反を受けて下総国へ侵攻した。義弘は、第一次で国府台に陣を取った里見義堯の子にあたる。父が退いた同じ台地へ、子の代の軍が上がってくることになった。
小金の高城氏 小金城の高城氏が、北条方に加わった
小金城(今の千葉県松戸市)を本拠とする高城氏は、この合戦で北条氏と手を組んで里見氏と戦った。15世紀のはじめから東葛地方(今の千葉県北西部)の大部分に勢力を広げ、1540年前後から小金城を本拠にした領主である。
川を挟んで 北条氏康と里見義弘が、太日川を挟んで対峙した
北条氏康と里見義弘は1564年の正月、太日川を挟んで対峙した。北条方が葛西城のある西岸、里見方が国府台のある東岸に立つ形になる。第一次と同じ川、同じ台地が戦場になった。
第二次・決着——七日は里見が押し、八日に崩れた
1564年(永禄7年)の正月、里見義弘の軍が国府台の台地に陣を構えた。迎え撃つ北条氏康の軍は、太日川の西岸から川を渡ってこの台地へ攻めかかる。
布陣 1564年1月4日、里見義弘が国府台に陣を構えた
里見義弘は1564年(永禄7年)1月4日、八千の兵を率いて国府台に布陣したと伝わる。陣を置いたのは、この台地に築かれていた国府台城だった。迎え撃つ北条氏康の軍はおよそ二万と伝えられ、兵の数では大きく開いていた。
七日 7日の戦いは、里見方に有利だった
1564年1月7日、両軍は国府台の台地でぶつかり、里見方が押したと伝わる。数で上回る北条軍は、この日のうちに決着をつけられていない。
八日未明 8日の未明、北条軍が寝込みを襲った
北条軍は1564年1月8日の未明、里見軍の寝込みを襲って一斉に攻めかかった。不意を突かれた里見軍は立て直せず、敗退したと伝わる。
討死 里見広次らをはじめ、五千が討死したと伝わる
1564年1月8日の敗退で、里見方の武将・里見広次らをはじめ五千が討死したと伝わる。両軍を合わせた戦死者を一万人とする伝えもある。
矢切の坂 激戦地は、矢切の「大坂」だったと伝わる
1564年1月の激戦地は、矢切(今の千葉県松戸市矢切)の「大坂」と呼ばれる坂道だったと伝わる。いまは古戦場跡として案内されている。
国府台合戦が残したもの——北条の下総、謙信を頼った里見、三舟山の挽回、江戸を見おろす城
二度の合戦は、二十六年をはさんで同じ形をくり返した。どちらも房総の軍が国府台の台地に陣を取り、北条方は太日川をはさんだ西岸から向かい合っている。第二次では、東葛の高城氏が北条方に加わって戦った。
北条の下総 1564年以後、この土地は北条氏のものになった
国府台とその周辺は、1564年の合戦のあと北条氏の支配するところとなった。第一次で得た葛西と合わせ、北条氏は太日川の両岸を押さえた。
謙信を頼った里見 1566年、謙信が臼井城を攻めて敗れた
大敗した里見氏は上杉謙信に助けを求め、1566年(永禄9年)、謙信は原氏の臼井城を攻めたが、北条の援軍を得た原氏・千葉氏に敗退している。
三舟山の挽回 1567年、里見義弘が佐貫城を本拠に北条軍を破った
里見義弘は1567年(永禄10年)、佐貫城を本拠に、三舟山(今の千葉県君津市と富津市の境の山)で北条氏政の軍を破り、これが里見氏の勢力を挽回する契機になったといわれる。
江戸を見おろす城 1590年、国府台城は廃城になった
国府台城は1590年(天正18年)、徳川家康が関東に入ったのち、家康の本拠となる江戸を見おろす位置にあることを理由に廃城となった。
国府台合戦の疑問に答える
「国府台」という名前はどこから?
下総国の国府が置かれた台地であることによる。近年の発掘では、東西約218メートルの大規模な区画(国庁=国府の中心の役所と推定される建物群)が確認されている。役所の中心は、国府台の南、今の国府台スポーツセンターから千葉商科大学のあたりと推定されている。古墳と国府の役所と戦国の城が、同じ台地に重なっている。なお地元には、日本武尊にコウノトリが浅瀬を教えたという伝説から「鴻之台」と呼ばれたという言い伝えも残る。
「太日川」は、今のどこを流れていた川?
今の江戸川になる。享徳の乱のころには、この川を挟んで西を幕府・上杉方、東を足利方が治めており、川ぞいは両陣営がにらみ合う場所だった。国府台の台地は、その東岸に立つ。二度の合戦で房総の勢力が越えようとしたのも、北条方が房総へ入るために越えたのも、この川になる。
第二次を戦った北条方は、氏康か氏政か?
資料によって名前が分かれる。戦場となった市川・葛飾・千葉の側に残る案内はいずれも「北条氏康」と書き、小田原に残る北条五代の年表は「氏政、第二次国府台の戦いで里見義弘に勝利する」と記す。1560年に家督は氏康から子の氏政へ移っており、どちらも誤りとは言えない。
地元には、どんな言い伝えが残っている?
敗れた側の言い伝えが、地元に多く残っている。市川市に伝わるものだけでも、里見軍が陣鐘を掛けたという「鍵掛けの松」、その鐘が落ちたという「鐘が渕」、敗れた里見軍の姫君が身を投じたと伝える「じゅんさい池の姫宮」がある。言い伝えのほかに、江戸時代には「北条九代記鴻台合戦」と題した絵も描かれ、中央に足利義明が置かれた。
第一次の戦死者を供養した塚は、今どこにある?
松戸市岩瀬の聖徳大学の構内にある。経世塚と呼ばれ、第一次国府台合戦の戦死者を供養したものと言い伝えられてきた塚である。この塚は陸軍工兵学校の建設で一度壊され、1930年(昭和5年)に陸軍が復元し、1995年(平成7年)に聖徳大学が移転のうえ復元した。今は松戸市の指定史跡になっている。戦国の供養塚が、近代の軍の施設と現代の大学に受け継がれてきたことになる。
現地に何が残っている?
国府台城の跡は市川市国府台三丁目の里見公園になっており、江戸川へ向かってコの字型に築かれた二重の土塁と、その外側の空堀が残る。園内には里見軍の戦死者を弔う三基の碑(里見諸士群亡塚・里見諸将群霊墓・里見広次公廟)があり、建てられたのは文政12年(1829年)になる。合戦から二百六十年あまりが過ぎてからの供養だった。ほかに夜泣き石、羅漢の井、明戸古墳の石棺が並ぶ。松戸市側では、矢切の「大坂」が古戦場跡として案内されている。
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参考にした資料
- 市川市「里見公園」(二度の合戦の骨格・1564年1月4日〜8日の経過・兵数と討死の伝承・国府台城跡の土塁と空堀・1479年の築城伝承・廃城)
- 市川市「国府台・堀之内界隈」(三基の碑が文政12年に建てられたこと・1590年の廃城・夜泣き石・鴻之台の言い伝え)
- 市川市「里見公園パンフレット」(園内の碑・土塁・羅漢の井・明戸古墳石棺の位置)
- 市川市教育委員会「下総国府跡(国府台遺跡)発掘調査概要」(国府が太日川に面した下総台地の西端に置かれたこと・中世の「府中」・東西約218mの区画)
- 松戸市「経世塚」(第一次の戦死者・『本土寺過去帳』が記す相模台の戦死者千余人・陸軍と聖徳大学による復元)
- 松戸市「西原文書」(静岡県函南町の土豪の家が四百年以上伝えた十通の文書。国府台合戦にかかわる北条氏康の書状を含み、高城氏が重要な役割を果たしたと記されること)
- 松戸市「高城氏の墓所」(高城氏が東葛地方の大部分を支配し、1540年前後から小金城を本拠にしたこと)
- 松戸市「水とみどりと歴史の回廊マップ(矢切地区)」(1564年に北条氏と高城氏が手を組んだこと・矢切の「大坂」・両軍で一万人の戦死者)
- 葛飾区「子ども葛飾区史 第1次国府台合戦」(足利晴氏が氏綱に義明討伐を依頼したこと・葛西城が前線基地になったこと・北条氏による葛西一帯の支配)
- 葛飾区「葛飾区史 関東の戦乱と葛西城」(1560年と1562年の葛西城の交替・1564年の太田康資の離反と里見義弘の下総侵攻・太日川を挟んだ対峙)
- 葛飾区「青戸に築かれた葛西城」(享徳の乱のころ太日川を挟んで東西が対立したこと・上杉氏による築城・葛西城の場所)
- 千葉市「千葉氏入門Q&A」(下総国府が今の市川市国府台にあること・義明の小弓入りと「小弓公方」・千葉氏の北条氏への接近・原氏の生実城復帰・1566年の臼井城)
- 千葉市立郷土博物館「特別展『我、関東の将軍にならん』」(1518年に義明が小弓で自立し「もう一人の関東の将軍」と称されたこと・相模台での戦死)
- 千葉市立郷土博物館「館長メッセージ」(小弓=生実が下総との国境に近く、浜野湊と陸路の結節点であること・原氏ゆかりの城であること)
- 小田原市「北条氏五代100年の歴史」(1538年に氏綱・氏康が勝利したこと・1560年の家督交替・第二次を氏政の名で記す年表)
- 小田原市「新・北条五代記 二代氏綱の北条改姓」(1524年に扇谷上杉家を破って武蔵へ勢力を伸ばしたこと)
- 館山市立博物館「里見氏について」(安房を本拠に一時は下総まで領土を広げたこと)
- 君津市「三舟山」(三舟山陣跡の位置・合戦で北条方が敗れ、里見氏の勢力挽回の契機になったといわれること)
- 富津市「佐貫城址」(1567年の三舟山合戦で里見義弘が佐貫城を本拠に北条氏へ勝利したこと)