享徳の乱とは?
1454年、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を鎌倉で殺害したことに始まり、鎌倉を追われて下総の古河に移った成氏と幕府・上杉方が、利根川を挟んで関東を二分したまま約28年争い、1482年の和睦(都鄙合体)で終わった内戦。
関東管領殺害——成氏方が、憲忠の屋敷を夜襲した
1449年に鎌倉公方として復帰した5代・足利成氏にとって、関東管領の上杉氏は父・持氏を死に追い込んだ相手だった(永享の乱)。復帰からほどなく、上杉方の家臣が成氏を襲う事件も起きており(江の島合戦)、公方と管領の対立はくすぶり続けた。1454年(享徳3年)12月27日の夜、成氏方が動いた。
夜襲 300騎が屋敷に押し寄せた
鎌倉の武士たちは、このころ公方方と管領方に割れていた。この日、公方方の武将たちが「上杉・長尾の陰謀はすでに発覚した。油断すれば味方の一大事になる」と憲忠の討伐を進言し、成氏はこれを許したと伝わる。その夜、結城成朝・武田信長・里見義実ら300騎が、鎌倉西御門の憲忠の屋敷に押し寄せた。
最期 主従22人、一人残らず討死
不意を突かれた憲忠側に戦う用意はなく、主従22人が刀をそろえて斬って出たが、一人残らず討死したと伝わる。翌28日、成氏方は上杉方の本拠・山内に兵を向け、一族と家臣を捕らえて上杉方を鎌倉から一掃しようとした。しかし上杉方の主力は鎌倉を逃れて上野へ退き、幕府に訴え出る。
古河へ——公方が鎌倉を捨て、川の向こうに都を作った
幕府は成氏の討伐を命じ、上杉方を支援して兵を関東へ向けた。成氏は翌1455年の正月、鎌倉を出て武蔵へ出陣し、府中の分倍河原で上杉勢を破って緒戦を制した。しかし幕府方との戦いが続くなかで鎌倉には戻らず、同じ年、下総の古河へ本拠を移す。以後の成氏とその子孫を古河公方と呼ぶ。なぜ古河だったのか、理由は3つ考えられる。
理由1 水運の要
古河は利根川水系の水運の要にあたる。人と物資が川で集まる土地で、長期戦の本拠に向いていた。
理由2 味方の中心に近い
成氏方についた結城・小山・千葉・里見らの武士は、下総・下野・常陸に多い。古河はその勢力圏のほぼ中心にある。
理由3 公方家ゆかりの陣所
2代公方・足利氏満が北関東の乱の際に古河に在陣した記録があり、後の古河城の前身とみられている。まったくの新天地ではなく、成氏は初め鴻巣の館に入り、1457年、修築の成った古河城へ移った。
利根川の対陣——関東が東西に割れた
成氏が古河に移ったことで、戦線は利根川の線に固定された。川の東には成氏を支える下総・下野・常陸の武士団が並び、西の武蔵・上野・相模は上杉方が押さえる。幕府の追討命令を実際に戦うのは上杉方で、乱は「幕府対成氏」というより「上杉対成氏」の形で続くことになった。
川の東 古河公方方
本拠は古河城。下総・下野・常陸を中心に、結城・小山・千葉・里見らの武士団が成氏を支えた。利根川の水運と味方の勢力圏に守られ、古河は容易には攻められない位置にあった。
川の西 幕府・上杉方
武蔵・上野・相模を押さえる。関東管領の山内上杉家と一族の扇谷上杉家が主力で、長尾・太田ら家宰(当主を支える筆頭家臣)の一族が実務を担った。前線に立つのは家宰たちで、関東管領の家そのものが戦場に出る戦いになった。
五十子陣——動かない前線で、両軍とも動いていた
上杉方が前線に築いたのが、鎌倉街道の要所・五十子(今の埼玉県本庄市)の陣になる。利根川を渡ればすぐ敵地という位置に関東中の上杉方の兵が集まり続け、乱の大半の期間、ここが最前線だった。
関東の中心 戦争が日常になった陣
対陣は長期化し、五十子は「一時は関東の中心」と評されるほどの場所になる。合戦のさなかに連歌師の宗祇や太田道灌がこの陣を訪れた記録もあり、戦争が関東の日常になっていたことがわかる。山内上杉家の当主・房顕は、この陣中で死去した。
公方が二人 幕府が堀越公方を置いた
幕府は1457年、将軍義政の兄・政知を新しい鎌倉公方として送り込んだ。しかし政知は戦乱で鎌倉に入れず、伊豆の堀越にとどまる(堀越公方)。関東の公方は、古河と堀越に二人並んだ。
成氏方の攻勢 五十子を何度も攻め、当主を討った
成氏方も動いていた。1461年には南の武蔵・葛西城(今の葛飾区)を攻めたとされ、五十子には繰り返し兵を向ける。1473年の五十子の戦いでは、扇谷上杉家の当主・政真を24歳で討ち取った。にらみ合いといっても、陣は当主の死に場所になっていた。
古河が一度落ちた 伊豆で敗れ、翌年に奪い返した
1471年、成氏方は伊豆の三島まで攻め込んで上杉方に敗れ、その直後に上杉方の攻勢で古河城を落とされた。成氏は千葉氏を頼って逃れたが、翌年には古河を奪い返し、前線は元の線に戻る。
五十子の崩壊——身内の反乱が、動かない前線を壊した
山内上杉家の軍事と実務を実際に回していたのは、家宰の長尾家だった。上杉の当主が陣中で代わっても、長尾家が前線を支え続けてきた。その長尾家の中で、相続をめぐる恨みが生まれる。
相続の恨み 家宰の職が、子ではなく弟に渡った
山内上杉家の家宰だった長尾景信が死ぬと、家宰の職は子の景春ではなく、弟の忠景に渡された。『鎌倉大草紙』は景春を「天性慓悪しき男」(生まれつき気性の荒い男、の意)と評し、職を継げなかった恨みから反乱を思い立ち、縁者の太田道灌に相談したことまで記す。
1477年正月 味方の陣を、身内が襲った
景春は1476年(文明8年)、荒川沿いの断崖の上に鉢形城を築いたと伝えられ、翌1477年(文明9年)正月、味方であるはずの五十子陣を襲った。両上杉は支えきれず、太田道真をしんがりに利根川を渡って上野へ退く。長年の前線基地は、敵の公方方ではなく身内の攻撃で崩れた。
道灌の鎮圧 江戸城から出て、景春を破った
景春の反乱を鎮圧する主役は、太田道灌だった。江戸城から出て景春方の豊島氏を破り(江古田原・沼袋の戦い)、石神井城を落とし、用土原で景春本人を破って五十子を奪い返した。
成氏の加勢 決着はつかず、和睦の話へ
成氏はこの混乱に乗じて景春に加勢し、上杉方を揺さぶったが、決着はつかない。この長い消耗の先で、双方の間に和睦の話が動き始める。
都鄙合体——戦場ではなく、交渉で終わった
五十子の崩壊から5年、1482年(文明14年)、幕府と成氏の和睦が成立した。「都」は京都の幕府、「鄙」は関東を指し、都と関東がひとつに戻るという意味で都鄙合体と呼ばれる。
和睦の中身 関東は成氏、伊豆は政知
和睦により、関東は成氏(古河公方)が、伊豆は政知(堀越公方)が治める形に落ち着いた。幕府が送り込んだ対抗公方は、鎌倉には入れないまま伊豆一国の主として残ることになる。
成氏 地位を保ったまま、乱を終えた
関東管領を殺して追討を受けた成氏が、28年後、古河公方として幕府に公認された形になる。幕府が命じた討伐は、成らなかった。
上杉 決着はついていない
和睦の相手は幕府であって、関東で28年戦い続けた上杉氏との間に決着がついたわけではない。乱は終わっても、公方と上杉の対立の構図は関東に残った。
享徳の乱が残したもの——鎌倉の終わり、東国の都、対陣が生んだ城、止まらない戦乱
28年の乱に、一発の決戦も、明確な勝者もなかった。それでも関東は、この乱を境に元の姿へは戻らなかった。京都で応仁の乱が始まった1467年、関東はすでに開戦から13年目だった。この乱を関東の戦国時代の始まりとする見方は、ここから来ている。
鎌倉の終わり 武家の都が村になった
公方が去った鎌倉は急速に活気を失い、農業と漁業の村になっていった。以後、関東の政治の中心が鎌倉に戻ることはなかった。
東国の都 古河公方は5代130年
古河は政治と文化の都市に整備され、「東国の都」となった。西の室町将軍に対する東の古河将軍——日本を二分した政治権力と評される。
対陣が生んだ城 江戸城と川越城
乱のさなかの1456〜57年、太田道真・道灌父子らが江戸城と川越城を築いた。のちに家康が本拠を置く江戸の出発点は、享徳の乱の時代に生まれている。
止まらない戦乱 上杉の内戦、そして早雲へ
和睦の数年後、今度は山内上杉と扇谷上杉の内戦(長享の乱)が始まる。1493年には堀越公方の家が北条早雲に滅ぼされ、関東は戦国大名の時代へ入っていく。
享徳の乱の疑問に答える
なぜ「享徳」の乱と呼ぶ?
乱が始まった1454年の元号「享徳」から取られている。元号+乱・変・役という事件名の付け方は、乱・変・役・陣の違いで整理しています。
資料によって「1455〜1483年」とも書かれるのはなぜ?
始まりの憲忠殺害は旧暦の享徳3年12月27日で、年の瀬の事件になる。享徳3年をそのまま西暦に置き換えれば1454年、日付を西暦に換算すれば1455年1月になり、ここで1年ズレる。終わりの和睦も、文明14年=1482年と書く資料と1483年と書く資料がある。期間が「28年」「約30年」と幅を持って書かれるのも同じ理由になる。
今のどこで戦っていた?
関東のほぼ全域になる。名前の出る主な場所だけでも、鎌倉(神奈川県鎌倉市)、分倍河原(東京都府中市)、五十子(埼玉県本庄市)、古河(茨城県古河市)、そして堀越公方のいた堀越(静岡県伊豆の国市)まで広がる。
現地に何か残っている?
古河には古河公方館跡(鴻巣御所)の堀と土塁が残り、一帯は古河公方公園になっている。五十子陣跡(本庄市)は遺構が残っておらず、解説看板が立つ。伊豆の国市の伝堀越御所跡は国指定史跡で、発掘で庭園の池跡が見つかっている。景春の鉢形城跡(寄居町)も国指定史跡になる。
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参考にした資料
- 古河市 古河歴史博物館「古河公方 足利氏」(成氏の古河移座・古河公方の存続)
- 古河市「古河公方足利成氏館跡」(1449年の成氏の復帰)
- 古河市「古河公方館跡」(鴻巣御所の堀と土塁・古河公方公園)
- 千代田区「江戸城築城」(太田道灌による1456〜57年の築城)
- 川越市「川越の歴史年表」(1457年、太田道真・道灌による河越城築城)
- 古河市「古河公方公園づくり基本構想」(東国の都・氏満の在陣・鴻巣御所・水運の要)
- 茨城県教育委員会「古河公方足利成氏館址・同足利義氏墓所」(1455年の移座・1457年の古河城入城)
- 鎌倉市「鎌倉市の歴史」(成氏の敗走と、その後の鎌倉の衰退)
- 本庄市「『五十子の陣』の史跡について」(五十子陣の評価・現地の状況)
- 本庄市「中世・近世(本庄地域)」(五十子陣の位置・宗祇と道灌の来訪)
- 寄居町「鉢形城公園案内」(長尾景春の築城)
- 伊豆の国市「史跡伝堀越御所跡」(堀越公方の設置・発掘成果・1493年の最期)
- 葛飾区「葛飾区史 第2章」(都鄙合体の内容・1461年の成氏による葛西城攻め)
- 埼玉県立嵐山史跡の博物館「企画展図録」(図録14『道灌の時代―戦国時代は関東から始まった―』)
- 国立国会図書館 次世代デジタルライブラリー『群書類従』第13輯所収「鎌倉大草紙」(江の島合戦・憲忠殺害の夜と翌日の山内追捕・分倍河原・1471年の三島と古河落城・政真の討死・景春の反乱と道灌の鎮圧)