太田道灌とは?
扇谷上杉家の家宰(筆頭家臣)として1457年に江戸城と河越城を築き、享徳の乱と長尾景春の乱で関東を転戦して上杉方を立て直したが、1486年に主君・上杉定正に糟屋(今の神奈川県伊勢原市)の館で殺された武将。
家宰の子——鎌倉で学び、24歳で扇谷上杉家の家宰を継いだ
1432年、太田道灌は扇谷上杉家の家宰・太田道真の嫡男として生まれた。家宰とは、当主に代わって家の政務と軍事を取り仕切る筆頭家臣のことで、道真は相模の守護代(守護の代理として国の実務を担う役)も務めていた。幼名は鶴千代、元服して資長と名乗る。幼いころから鎌倉の禅寺で学問を修め、1455年、24歳で家督を継いだ。
扇谷上杉家 関東管領を出せない、もう一つの上杉
上杉氏は山内・犬懸・宅間・扇谷の四家に分かれていたが、犬懸と宅間は没落し、関東管領を独占する山内上杉家と、扇谷上杉家の二家が残った。扇谷上杉家の当主・持朝は、1440年の結城合戦の功で相模の守護になったと考えられている。持朝は相模の糟屋に守護所(守護が国を治めるための役所)を置き、その実務を担ったのが太田氏だった。道灌はこの家の家宰として生涯を送る。
享徳の乱 生まれ育った関東は、東西に割れていた
1450年、鎌倉に入った鎌倉公方・足利成氏と上杉方の対立が深まる中、山内の長尾景仲と父・道真らが成氏の御所を襲い、敗れて糟屋へ逃れた(江ノ島合戦)。1454年、成氏が関東管領・上杉憲忠を殺して享徳の乱が始まる。成氏は鎌倉を出て下総の古河(今の茨城県古河市)へ本拠を移し、以後は古河公方と呼ばれる。翌1455年、持朝らは糟屋を出て成氏方と戦い、敗れて伊豆へ逃れた。道灌が家督を継いだ1455年は、この敗走の年だった。
江戸城——江戸と河越に城を築き、主家の拠点は相模から武蔵へ移った
1457年、道真・道灌父子は江戸城と河越城を、古河公方・成氏に対抗するために築いた。道灌はこの二城と、のちに一族の本拠となる岩付城(今のさいたま市岩槻区)を拠点に、各地を転戦したとされる。
江戸城 千葉氏との境目に置いた城
江戸城は、1456年に着工し、1457年に道灌が築き上げた。古河公方方の有力武将である下総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境だった当時の利根川(今の江戸川)下流域に城が必要だった。道灌は本拠をこの江戸城に置き、以後の戦いはここから出撃する。
河越城 武蔵の中央に置いた、扇谷上杉家の本城
河越城は、持朝の命を受けて同じ1457年に道真・道灌父子らが築いた。相模に拠点を置く扇谷上杉家が南関東の支配を固めるため、武蔵の中央に据えた城で、以後約80年、扇谷上杉家6代の居城となった。その姿は、堀をめぐらせた方形の居館をいくつか並べたものだったと考えられている。
五十子崩壊——首脳は上野へ逃げ、道灌は江戸城に残った
上杉方の本陣は、1458年ごろから武蔵の五十子(今の埼玉県本庄市)にあった。山内上杉家の家宰は長尾景仲から子の景信へ受け継がれたが、1473年に景信が死ぬと、家宰職は景信の子・景春ではなく叔父の忠景に渡った。忠景は、家宰に次ぐ序列の武蔵守護代を務めていた。納得しない景春方が五十子陣へ通じる道を封鎖すると、道灌は「景春を五十子から遠ざけた方がいい」と当主・顕定に献策する。これが実現して、1476年6月、景春は五十子を退き、鉢形城を築いた。
1476年 駿河へ出て、帰ると江戸城に籠った
同じ1476年、道灌は主家の命により、扇谷上杉家と縁のある駿河の今川家の家督争いを収めるため駿河へ出陣した。10月に帰陣したが、本拠の江戸城に入ったまま五十子には参陣しなかった。道灌は景春の叔母を妻とする親戚で、家宰職の争いでは「忠景を家宰にする代わり、忠景が務めていた武蔵守護代を景春に譲る」という和解案を出していた。顕定と忠景はこれを拒み、山内の首脳と道灌の間には大きな溝ができていた。
1477年1月 五十子陣が落ち、首脳は上野へ逃げた
1476年12月、忠景は家宰の所領である武蔵の柴郷を、軍勢を出して力ずくで取り上げた。権益を奪われた景春方は、それを奪い返すために動く。1477年正月、景春が五十子陣を攻撃し、在陣していた顕定・忠景と扇谷の当主・定正は上野へ敗走した。山内の宿老の半分以上が景春に付き、山内上杉家は真二つに割れる。上杉方の首脳で武蔵と南関東に残ったのは、江戸城に籠っていた道灌ただ一人だった。
景春の乱——江古田原から日野まで、3年転戦して鎮めた
1477年3月、道灌は相模と南武蔵の景春方の鎮圧を始めた。扇谷上杉家の家宰でありながら、上杉方全体の反乱鎮圧を事実上主導したのは道灌だった。相模では景春方の小沢(愛川町)・溝呂木(厚木市)・小磯(大磯町)の要害を攻め落としている。景春に付いた領主を寝返らせるため、道灌は「彼らの領地をそのまま認めてほしい」と顕定に求め、顕定は承認した。しかしこの約束は、実行されないままになる。
1477年4月 江古田原——豊島氏を破り、石神井城を落とした
1477年4月14日、道灌は江古田原・沼袋(今の中野区)で、古河公方方に付いていた豊島泰経の軍勢と戦い、これを破る。豊島氏は石神井・練馬に本拠を置く武蔵の名族だった。道灌自身の記録では豊島側の死者は80人余、両軍で160人を超えたとみられる。豊島氏の本城・石神井城は落とされ、廃城になった。
1477年5月 用土原——北武蔵で景春の本隊を破った
1477年5月、道灌は用土原(鉢形城の近く、今の埼玉県寄居町)で長尾景春と戦い、これを破った。上野に避難した上杉方の首脳を武蔵に迎え入れるため北武蔵へ進軍したところを、鉢形・五十子に展開する景春の主力が迎え撃ったものである。激戦の末、景春は五十子付近の富田まで後退した。
1478年 小机城と鉢形城——南関東を鎮め、景春は秩父へ
1478年2月から4月、横浜の小机城をめぐって攻防が続き、武蔵南部・相模・甲斐の景春勢力は相次いで道灌に鎮圧された。この年、成氏と上杉方は和睦したが、上杉方は景春を「自分の家来のもめ事」として追討を続ける。7月、成氏が景春と断交して討伐を要請すると、道灌は翌日に景春を攻めて破り、景春は秩父へ逃れて鉢形城は落城した。道灌は顕定に、五十子ではなく鉢形を本拠にするよう薦めた。
1478〜80年 境根原から日野へ——乱の終わりまで
1478年12月10日、道灌は、成氏と上杉方の和睦に不満を持つ下総の千葉孝胤を境根原(今の柏市)で破る。翌1479年の臼井城攻めでは弟の資忠が戦死した。同じ年、景春が児玉で再び蜂起すると、道灌は北武蔵へ進んで御嶽城を攻め、1480年1月、越生で敗れた景春は秩父に閉じ込められる。秩父の日野城を道灌が落として、乱は終わった。
糟屋——主君・定正の館で殺された
1482年、幕府と成氏の和睦(都鄙合体)で享徳の乱が終わった。相模の糟屋は、扇谷上杉家が守護所を置いた土地で、拠点が河越へ移った後も館が残されていた。1486年7月、道灌はその館に招かれる。
1486年7月26日 風呂場で襲われ、「当方滅亡」と叫んだと伝わる
1486年7月26日、道灌は相模・糟屋にあった定正の館に招かれ、定正の手の者に殺された。55歳だった。館の風呂場で襲われ、「当方滅亡(これでこちらは滅びる)」と叫んで死んだ、と子孫に伝わる話がいちばん知られている。当時の記録は、詩僧・万里集九が「相陽糟屋の府第」で死んだと書いた一語だけである。糟屋で殺されたことまでは史料で言えるが、館そのものの場所は今も特定されていない。
四十九日 万里集九が祭文を捧げ、松を植えた
道灌の遺体は糟屋の洞昌院の裏手で荼毘に付されたという。四十九日には、関東に滞在していた万里集九が墓前で祭文を捧げ、松を植えたと考えられている。墓前には今もその松の大きな切り株が左右に残り、風呂場で丸腰のまま襲われた道灌にせめて刀をという思いから、木刀が奉納されている。父・道真は越生の隠居所で悲報に接し、6年後の1492年、81歳で世を去った。
死後——翌年、両上杉が戦い始め、城は北条と徳川へ渡った
道灌が殺された翌年、山内上杉家と扇谷上杉家の戦いが始まる。山内には顕定の生家である越後の上杉家が、扇谷には古河公方の足利政氏が付き、関東の領主を巻き込む内乱になった。景春は、領地を持たないまま扇谷上杉家に頼まれて戦う立場になり、なお顕定と戦い続けた。景春が没するのは、道灌の死から28年後の1514年と伝わる。
1487年 長享の乱——両上杉が戦端を開いた
1487年閏11月、下野で山内と扇谷が戦端を開いた。1488年2月、顕定は千余りの軍勢で糟屋に押し寄せ、定正は河越城から二百余騎で駆けつけて実蒔原(伊勢原市・厚木市)で戦い、かろうじて勝った。争いは休戦を挟んで18年続き、1505年3月、本拠の河越城を囲まれた扇谷上杉家が降伏して終わった。
城のゆくえ 河越城は北条氏へ、江戸城は家康へ
河越城は1537年に北条氏綱に落とされ、1546年の河越合戦で北条氏康が両上杉と古河公方を破って、北条氏の武蔵支配が固まる。以後の河越城は、小田原城の支城として北条氏の武蔵支配を支えた。江戸城も北条氏の城となり、1590年に徳川家康が入って幕府の城になった。
道灌が残したもの——江戸の始まり、文武の名将、道灌状
享徳の乱の後半と景春の乱で上杉方を実際に動かしたのは、関東管領を出す家ではなく、扇谷上杉家の家臣である道灌だった。関東平野で30以上の合戦に参加したと伝わる武将は、同時に学問と詩歌の人でもあった。
江戸の始まり 境目の城が、幕府の城になった
道灌が両勢力の境に築いた江戸城は、北条氏の城を経て、1590年に徳川家康の本拠となる。家康が征夷大将軍になった1603年から本格的な改修が始まり、幕府の城に変わった。道灌が築いてから幕府の城になるまで、130年余りが経っていた。
文武 蔵書印「含雪巣」を持つ武将
道灌は鎌倉の禅寺で学び、明の詩文集に「含雪巣」の蔵書印を押し、公家の歌人・飛鳥井雅親らと和歌を交わした。1486年には隅田川の船上や、父の住む越生で詩歌の会を催している。歌人としての名は、若いころの「山吹の里」の逸話とともに語り継がれてきた。
道灌状 自分の戦いを、自分で書き残した
道灌は、主君・定正の側近だった高瀬民部少輔に宛てて、長い手紙を書き残した(太田道灌状)。江古田原から境根原までの自分の戦功と、山内側への不満を書き連ねたものである。景春の乱を最も詳しく記した史料で、この乱の経過は今もこの手紙をもとに語られている。
太田道灌の疑問に答える
なぜ主君に殺された?
手を下したのは主君の定正だが、定正がなぜそうしたかを語る当時の史料はなく、理由は確定できない。道灌が重ねた戦功が、かえって定正の不興を買ったのだと説明されてきた。史料からたどれるのは、殺害までに上杉方の内側で高まっていた緊張である。一つは、景春の乱での約束の食い違いである。道灌が寝返らせた領主たちの領地は、すでに忠景方の家臣に配り直されていたため、顕定は認めたくても認められなかった。この食い違いが顕定と道灌の溝を広げ、殺害の大きな背景の一つになったと考えられている。もう一つは、1482年の都鄙合体で享徳の乱が終わったあと、山内と扇谷の関係が悪くなったことである。道灌は山内との戦いを見越して江戸城と河越城を修築しており、その最中に事件が起きた。
山吹の里はどこ?
鷹狩りの途中で雨に遭った若い道灌が蓑を借りようとすると、娘が山吹の枝を差し出した——という逸話の故地である。故地は各地に伝わるが、よく知られるのは埼玉県越生町である。一帯は県指定旧跡で「山吹の里歴史公園」として整備され、水車小屋が復元されている。昔から山吹の自生地で地名も「山吹」だったこと、道灌と同時代に山吹姓の一族がいた記録があることが、越生町を故地とする根拠とされる。父・道真が越生に隠居していたことも、記録で確かめられる。逸話そのものは、江戸中期の逸話集『常山紀談』などに載る。娘が枝を差し出したのは、古歌の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」に掛けて「蓑が無い」と伝えたもので、その意味を後で知った道灌は歌道を志した、という筋である。
岩付城(岩槻城)も道灌が築いた?
道灌が鶴のしぐさから沼地を造成する工法を思いついて築いた、という伝説が『岩槻巷談』に伝わる。ただしこれは民間の伝承で、築城者については別の説もある。岩槻城が確かな史料に初めて現れるのは、道灌の死から8年後の1494年である。確かめられるのは、のちに岩付を本拠にした太田氏(岩付太田氏)が道灌の一族だということまでである。
現地に何が残っている?
墓、館跡、合戦の碑が、道灌の動いた各地に残る。
| 神奈川県伊勢原市 | 洞昌院の墓(宝篋印塔)、寺の近くに従者の墓とされる七人塚、下糟屋の墓(五輪塔)、大慈寺に伝わる道灌の画像。上杉館跡は産業能率大学のある台地に比定されているが、発掘では館とはっきり分かる遺構は見つかっていない。 |
|---|---|
| 埼玉県越生町 | 龍穏寺にある道真・道灌の墓、山吹の里歴史公園、道真の隠居所・自得軒の跡。 |
| 東京都 | 千代田区一ツ橋の「江戸城築城」プレート、中野区江古田公園の合戦の碑、練馬区の石神井城跡(土塁と空堀が現存)、日暮里駅前と東京国際フォーラムの道灌像。 |
| 千葉県柏市 | 酒井根に残る境根原合戦の首塚・胴塚。 |
参考にした資料
- 寄居町 鉢形城歴史館「長尾景春と鉢形城」講座録(家宰職が景春ではなく忠景に渡ったこと・忠景が武蔵守護代だったこと・道灌の和解案と顕定忠景の拒否・道灌の献策と景春の五十子退陣/鉢形築城・柴郷の引き渡しと蜂起・五十子崩壊・道灌が主導した鎮圧・寝返った者の領地を顕定が認められなかった経緯と殺害の背景・用土原と富田への後退・小机・鉢形を薦めたこと・御嶽城と秩父・都鄙合体・道灌殺害後の景春の立場)
- 寄居町「鉢形城公園案内」(1476年、長尾景春による鉢形城築城)
- 伊勢原市「いせはらの歴史 室町時代」(扇谷上杉家と糟屋・江ノ島合戦・1455年の敗走・1457年の築城・景春の乱の相模の戦い・日野城で終結・都鄙合体後の両上杉・城の修築・長享の乱と実蒔原)
- 伊勢原市「上杉館跡」(1486年7月26日の殺害・「当方滅亡」・万里集九の記録・館の比定)
- 伊勢原市「太田道灌の墓(洞昌院)」(55歳・風呂場の伝承・荼毘・万里集九の祭文と松・墓前の松の切り株と木刀)
- 伊勢原市観光ガイド「太田道灌の墓(洞昌院)」(従者の墓とされる七人塚・命日の法要)
- 伊勢原市「太田道灌の墓(大慈寺)」(五輪塔・大慈寺と道灌画像)
- 越生町「太田道真・道灌の墓」(家宰の嫡男・24歳で家督・江戸・河越・岩付を拠点・戦功が定正の不興を買ったという説明・道真の死)
- 越生町「山吹の里」(逸話と故地の根拠・歴史公園)
- 越生町「太田道真退穏地」(隠居所・自得軒の跡)
- 越生町「龍穏寺」(1472年の道真・道灌父子による中興・父子の墓)
- 国立公文書館「蔵書家列伝 太田道灌」(幼名と名・1455年家督・30以上の合戦・鎌倉の禅寺・1486年の詩歌会・蔵書印「含雪巣」・『常山紀談』の山吹の里)
- 中野区「江古田原沼袋合戦古戦場」(1477年4月14日の合戦・豊島泰経・道灌状による死者数・江古田公園の碑)
- 練馬区「石神井城跡」(1477年の落城と廃城・土塁と空堀)
- 柏市「酒井根原の合戦〜太田道灌、襲来〜」(1478年12月10日の境根原合戦・千葉孝胤・臼井城で弟資忠が戦死・江戸城を築いた理由・道灌状・首塚と胴塚・公家歌人との交流・長尾景春の生没年1447〜1514の一説)
- 千代田区「まちの記憶保存プレート 江戸城築城」(1456〜57年の築城・1590年の家康入城・1603年からの本格改修)
- 川越市「県指定記念物 川越城跡」(持朝の命による1457年の築城・武蔵の中央・扇谷6代の居城・1537年の北条氏の攻略)
- 川越市「川越の歴史年表」(1470年の河越千句・1477年の景春の蜂起・1486年の殺害・1546年の河越合戦)
- さいたま市「岩槻城築城伝説」(『岩槻巷談』の道灌築城伝説・岩付太田氏)
- 本庄市「中世・近世(本庄地域)」(五十子陣が今の本庄市域にあったこと・読み)
- さいたま市「太田窪と岩槻城 中編の上」(1487年閏11月の長享の乱の開始・越後上杉家と古河公方の支援・1505年3月の扇谷降伏と終結・岩槻城が確かな史料に現れる1494年)