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家宰かさい

家宰とは?

家宰とは、上杉家で当主に代わり、所領の配分まで決めた筆頭家臣の職のことです。山内やまのうち上杉家では長尾氏が、扇谷おうぎがやつ上杉家では太田氏が世襲し、その相続争いが長尾景春の乱になりました。

室町時代の中期、関東管領を代々務めた山内上杉家に、当主に代わって家の政務を仕切る家宰が置かれます。初代は長尾満景みつかげでした。
1444年に長尾景仲かげなかが家宰になったころには、土地の配分も年貢の額も家宰が決め、他家とのもめごとも家宰同士で片づけていました。
山内上杉家は、本国の上野の守護代を家宰に兼ねさせ、武蔵にはこれとは別に守護代を置きました。
山内上杉家では足利・白井・総社の三つの長尾家が代わるがわる家宰を務め、扇谷上杉家では太田道真どうしん・道灌の父子が務めました。
本家筋ではない白井長尾家から出た景仲が、1461年に子の景信かげのぶへ職を譲ります。
1473年に景信が死ぬと、職は1474年までに弟の忠景ただかげへ渡り、1477年に長尾景春が反乱を起こします。
13代の家宰・長尾当長まさながの代に、上杉憲政のりまさ上野こうずけを追われ、家宰の職も消えます。

家の職——幕府が任じる役ではなく、上杉家の中で決まった

関東管領は、幕府が任命する公の役職である。だが、その職を代々務めた山内上杉家の中を実際に動かしていたのは、当主だけではなかった。室町時代の中期から、この家には家宰が置かれる。この職は、以後長尾一族の中で受け継がれていった。

三つの役 家の中と、国と、家来との取り次ぎを兼ねた

家宰は、上杉家で三つの役を一人で兼ねた。一つは、当主に代わって家の中のことを取りまとめること。二つは、上杉家が預かる国の政務を、当主に代わって受け持つこと。三つは、家来の言い分を当主へ取り次ぎ、当主が決めたことを家来へ伝えることである。

窓口 外から見ても、上杉家の窓口は家宰だった

上杉家では、家宰を通さなければ何も決まらなかった。だから家宰の判断が、事実上そのまま家の決定になる。1462年には、堀越公方ほりごえくぼう(幕府が伊豆に置いた足利氏)が幕府の命を伝えた相手も、当主ではなく山内上杉家の家宰・長尾景信だった。

家宰の仕事——所領を与え、年貢を決め、他家と交渉した

15世紀の半ばから後半、山内上杉家では長尾景仲・景信父子が、扇谷上杉家では太田道真どうしん(太田道灌の父)・道灌父子が家宰を務めた。

土地 与えるのも、認めるのも家宰だった

家宰は、家来に新しい土地を与え、いま持っている土地をそのまま持ち続けてよいと認めた。土地を与えられ、認められることが主従関係そのものだったので、この判断は家来の暮らしを直接左右した。

年貢と代官 取り分を決め、集める人を決めた

家宰は、どこからどれだけ年貢を取るかを決め、この寺は免除するといった特例も取り仕切った。上杉家に収入が入る土地には代官(現地で年貢を集めさせる役)を置くが、代官の取り分は収入のおよそ1割になる。その代官職を自分の系列の家来に配ることが、家宰の力の元手だった。

他家との交渉 もめごとは家宰同士で片づけた

山内上杉家の家来と扇谷上杉家の家来がもめると、両家の家宰が前に出て折り合いをつけた。当主同士が向き合う前に、家宰同士の話し合いで決着するのが通例だった。

戦時の配分 敵から取り上げた土地を、味方に配った

享徳の乱のような長い戦の間、家宰は敵方から取り上げた土地を味方に配った。誰にどれだけ配るかを決められるのだから、戦が長引くほど家宰のまわりに人と土地が集まっていく。

一件 1470年代、家宰同士が寺の土地の代官職を取り合った

1470年代の初め、山内上杉家の家宰・長尾景信と扇谷上杉家の家宰・太田道灌が、鎌倉長寿寺ちょうじゅじが持っていた殖田谷うえたや郷(今のさいたま市西区植田谷本)の代官職を取り合った。武蔵の守護は山内上杉家だから、本来なら景信は裁く側である。その景信が当事者として押し合い、最後は道灌のとりなしで代官職は長寿寺に返された。

守護代との違い——国の役と、家の役

守護代は国の役、家宰は家の役である。誰が任じるかも、束ねる相手の範囲も違っていた。

国の役 守護代は、幕府から下りてくる筋の上にいる

守護代は、幕府が国ごとに置いた守護の代理である。幕府の命令は守護に下り、守護から守護代へ、守護代から現地の領主へと伝わっていく。国という単位で区切られた、外向きの公の職といえる。

家の役 家宰を任じるのは、主家の当主だった

家宰を任じるのは、主家である上杉家の当主である。束ねる相手も上杉家の財産と家来で、国という単位では区切られない。主家が守護を務めていれば結果として国も動かすが、職そのものは家の側にある。

序列 家宰へ上がるとき、武蔵守護代は別の人に譲るのが慣例だった

山内上杉家では、家宰が第一、武蔵の守護代が第二という順に置かれていた。武蔵守護代を務めていた者が家宰へ上がるときは、守護代の職を別の人に譲るのが慣例だった。

本国では重なる 本国の守護代は、家宰が兼ねた

山内上杉家の家宰は、本拠の上野(今の群馬県)では守護代を兼ねていた。上野については、国の政務も家宰が任されている。扇谷上杉家でも、家宰の太田道真が相模さがみの守護代を務めたとみられる。

二つの家——山内は長尾、扇谷は太田

家宰を置いたことが確かめられるのは、山内上杉家と扇谷上杉家の二つである。山内の家宰は長尾氏が務めたが、長尾氏は一つの家ではない。初代から13代までを、次の三つの家が分け合っている。

足利長尾家長尾氏の本家筋にあたる家。初代の家宰・長尾満景を出し、2代と5代、そして最後の11代から13代までを務めた。あわせて6代になる。
白井長尾家上野の白井しろい城(今の群馬県渋川市)を本拠とした家。長尾景仲が4代と6代、その子の長尾景信が7代を務めた。あわせて3代になる。
総社長尾家上野の総社(今の群馬県前橋市)を本拠とした家。3代の家宰を出したのち、8代の長尾忠景から10代までを続けて務めた。あわせて4代になる。

扇谷の家宰 太田道真から、子の道灌へ

扇谷上杉家の家宰は、太田道真から子の太田道灌へ継がれた。道灌が父の家督を継いだのは24歳のときである。扇谷側で名前まで確かめられる家宰は、この父子二代だけになる。

1450年 江ノ島合戦——扇谷の家宰が軍を率いた

1450年、扇谷上杉家の家宰・太田道真と山内上杉家の家宰・長尾景仲の軍勢が、鎌倉公方足利成氏あしかが しげうじの御所を襲った。なぜ襲ったのかは史料では確定できない。家宰は、主家の外へ兵を率いて出ていく立場でもあった。

主家をしのぐ 家が伸びる以上に、家宰の威勢が伸びた

扇谷上杉家は、家宰・太田道灌の働きで山内上杉家と並ぶ勢力に育った。その過程で、主人の上杉定正さだまさ(当時の扇谷上杉家の当主)が家宰の威勢に危機感を抱くようになった。家が伸びた分だけ、それを動かした家宰の側にも力が集まっていた。

世襲——本家筋ではない長尾景仲が、子へ譲った

1440年代の山内上杉家は、関東管領・上杉憲実のりざねが政治から退いたあとの立て直しのさなかにあった。それまで家宰を出してきたのは、長尾氏の本家筋にあたる足利長尾家と、これに次ぐ総社長尾家である。当主の座が定まらないこの時期、次の当主を誰にするかを決めたのは、当主の側ではなく家臣たちのほうだった。

1444年 本家筋ではない家から、初めて家宰が出た

1444年、長尾景仲が山内上杉家の家宰になった。景仲は長尾氏の本家から分かれた家の出で、この家系から家宰が出るのは景仲が最初だった。以後、白井長尾家は家宰を出す家として関東の政治の中心に座る。

なぜ景仲か 当主を作った者が、家宰になった

景仲が家宰に就けたのは、政治から退いた憲実に代わって、家臣たちが子の上杉憲忠のりただを当主に擁立した、その立役者だったからである。当主が家宰を選ぶはずの順序が、ここでは逆になっている。

再任 一度退き、乱を機に戻った

景仲は享徳の乱の直前に一度家宰を退いたが、乱が始まると再び家宰に就き、以後は上杉方を主導した。歴代を数えると、景仲は4代と6代の二度数えられることになる。

1461年 嫡男へ譲り、世襲の形をはっきりさせた

1461年の4月ごろ、景仲は嫡男の長尾景信に家宰職を譲った。家宰を親から子へ渡すという形が、ここではっきりする。

相続争い——職が動けば、家臣の取り分も全部動いた

山内上杉家はこのころ、享徳の乱の戦線である五十子いかっこ(今の埼玉県本庄市)に陣を構え、古河公方方と向かい合っていた。当主も家宰もこの陣に詰めており、家の人事は戦のさなかに動くことになる。

1473年6月 景信が死に、職は子ではなく弟へ渡った

1473年6月、山内上杉家の家宰・長尾景信がこの五十子の陣で死去した。当主の上杉顕定あきさだが家宰職を与えたのは、景信の子の長尾景春ではなく、景信の弟の長尾忠景だった。ただし忠景が正式に職へ就いたのは1474年12月より前、景信の死から1年半ほどのちのことで、その間は景春方と忠景方の綱引きが続いた。忠景は、総社長尾家を継いでいた人物である。

なぜ景春でなかったか 奉行衆が、忠景を推した

このとき、家宰を助ける奉行衆(家宰の下で実務を分担した家臣)が忠景を推し、その発言力が就任を左右したと説明される。家宰は、当主の一存だけで決まる職ではなかった。ただし、奉行衆がなぜ景信の子の景春ではなく弟の忠景を推したのかは、史料では確定できない。

取り分ごと動く 代官職も所領も、まとめてよそへ移った

家宰が別の家に移ると、前の家宰の系列に配られていた代官職も所領も、まとめて新しい家宰の系列へ移った。景春の同僚や家来にとっては、自分たちの取り分がそっくり別の系列へ移るということである。

慣例やぶり 忠景は、武蔵守護代を手放さなかった

忠景は武蔵の守護代を持ったまま家宰に就いた。第一の職と第二の職を一人が握るという、それまでなかった形である。太田道灌は景春の叔母を妻とする親戚で、その立場から、武蔵守護代を景春に譲れば収まると調停案を出した。だが上杉顕定と忠景はこれを受け入れず、景春に譲られる職はなかった。

1477年 家宰の相続争いが、関東の戦になった

1477年の正月、長尾景春が五十子の陣を攻め、主家に反旗をひるがえした。景春はその前年の6月に五十子の陣を退いて鉢形はちがた(今の埼玉県寄居町)へ移り、ここに城を築いたと伝わる。家宰職の継承をめぐる家の中の争いが、主家に対する反乱になった。

消滅——13代で、家宰という職が消えた

景春の乱のあとも、家宰の職は忠景の子孫へ引き継がれていった。そのあいだ家宰について残っているのは、誰が継いだかという順だけである。

その後の継承 総社長尾家から、足利長尾家へ

忠景のあと、家宰は子の長尾顕忠あきただ、孫の長尾顕方あきかたへと総社長尾家で継がれ、そののち座は本家筋の足利長尾家へ移った。

扇谷の側 道真・道灌の二代しか確かめられない

扇谷上杉家の家宰は、太田道真と太田道灌の父子二代までしか名前を確かめられない。代を数えた記録が残っているのは、山内の側だけである。

家宰の疑問に答える

家宰と関東管領は、どちらが上の役?

上下でいえば関東管領が上になる。関東管領は幕府が任命する公の役職で、山内上杉家の当主が務めた。家宰はその当主に仕える家臣の筆頭である。ただし、誰にどの土地を与えるか、他家とどう折り合うかを日々決めていたのは家宰の側だった。

上杉家のほかにも、家宰を置いた家はあったの?

家宰の例を史料で確かめられるのは、関東の山内上杉家と扇谷上杉家である。ほかの家に同じ職が置かれていたかどうかは、確かめられていない。

家宰たちの跡は、今どこに残っている?

白井長尾家の本拠だった白井城跡(群馬県渋川市)には長尾氏累代の墓があり、景仲・景春らの供養塔が並ぶ。景春が築いたと伝わる鉢形城の跡は、埼玉県寄居町の鉢形城公園として整備されている。

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参考にした資料