勢力ページ / 相模の守護を務めた、もう一つの上杉

扇谷上杉家おうぎがやつうえすぎけ

扇谷上杉家(扇谷上杉氏)は、相模国(今の神奈川県)と武蔵国(今の埼玉県・東京都)を地盤にした上杉氏の分家です。

扇谷上杉家とは?

鎌倉の扇谷に屋敷を構えた上杉氏の分家で、相模の守護として河越城を本拠にし、1546年の河越合戦で当主が討たれて滅んだ家。関東管領を出したのは同じ上杉氏の山内上杉家のほうで、扇谷上杉家からは一人も出ていません。家名のもとになった扇谷は、今の神奈川県鎌倉市扇ガ谷にあたります。

上杉氏が鎌倉のどこに屋敷を構えたかで四家に分かれ、扇谷に居館を構えた家が扇谷上杉家になります。
15世紀半ば、上杉持朝が相模国の守護になり、糟屋(今の神奈川県伊勢原市)に守護所を置きます。
1457年、太田道真・道灌父子が河越城と江戸城を築き、本拠は相模から武蔵へ移ります。
山内上杉家で起きた長尾景春の乱を道灌が鎮め、扇谷上杉家は宗家と並ぶ勢力になります。
1487年、山内上杉家との戦端が下野で開かれます(長享の乱)。18年戦い、1505年に本拠の河越城を囲まれて降伏します。
1509年に伊勢宗瑞が同盟を破って相模へ攻め込み、1524年には江戸城を失って、領国は武蔵南部に縮みます。
1537年に本拠の河越城を奪われ、1546年4月、取り返そうとした攻囲陣を破られて滅びます。

山内上杉家と扇谷上杉家、どっちがどっち

 山内上杉家扇谷上杉家
家名のもと鎌倉の山内(今の鎌倉市山ノ内)の屋敷鎌倉の扇谷(今の鎌倉市扇ガ谷)の屋敷
関東管領早くから独占した一人も出していない
守護上野・武蔵・伊豆など相模
本拠上野の平井城(今の群馬県藤岡市)相模の糟屋館から、1457年に武蔵の河越城(今の埼玉県川越市)へ
家宰長尾氏太田氏
終わり扇谷上杉家が滅んだあとも続いた。その後は関東管領でたどれる1546年、河越で北条氏に敗れて滅亡した

鎌倉の谷戸——四つに分かれた上杉のうち、扇谷に住んだ家

上杉氏は貴族の家から出た一族で、重房しげふさの代に鎌倉へ下り、丹波国の上杉荘(今の京都府綾部市)を得て武士になり、足利氏に仕えた。室町時代のうちに、上杉氏は鎌倉のどこに屋敷を構えたかで山内やまのうち犬懸いぬかけ・扇谷・宅間たくまの四家に分かれる。このうち、扇谷の谷戸やと(山あいの細長い谷)に居館を構えた家が、扇谷上杉家になった。

四家のゆくえ 犬懸は禅秀の乱で滅び、宅間は永谷に残った

四家のうち犬懸上杉家は、1416年(応永23年)の上杉禅秀ぜんしゅうの乱で滅んだ。前の関東管領だった犬懸上杉家の上杉禅秀(氏憲うじのり)が鎌倉公方・足利持氏もちうじに反乱を起こし、敗れて自害したためである。宅間上杉家は、いつのころからか永谷ながや(今の神奈川県横浜市港南区)に根拠地を移したとされ、のちに小田原の北条氏に仕える家として残った。扇谷上杉家はこの禅秀の乱では持氏の側、1438年(永享10年)の永享の乱では関東管領・上杉憲実のりざねの側と、いずれも勝った側に付いて勢力を広げている。

検証 「扇谷」は、家名が先か、地名が先か

扇谷は鎌倉駅の北西一帯にあたる。この一帯は鎌倉時代には「亀谷かめがやつ」と呼ばれており、室町時代にのちの当主・上杉定正さだまさがこの辺りに住んで「扇谷殿」と呼ばれるようになったことから、「亀谷」の名が使われなくなり「扇谷」がこの一帯の地名になった、という説明がある。一方で、四家はいずれも鎌倉にあった自分の根拠地の名前を取って分かれた、という説明もある。家名と地名のどちらが先かは、公的な資料の中でも割れている。読みは「おうぎがやつ」だが、「おおぎがやつ」と振る資料もある。

相模の守護——関東管領は出せないが、一国の守護は務めた

山内上杉家が関東管領を代々務めるあいだ、扇谷上杉家が持っていたのは相模国一国の守護という立場である。15世紀の半ば、上杉持朝もちともが相模守護になり、守護所(守護が政務をとる役所)を糟屋かすやに置いたと考えられている。1440年(永享12年)の結城合戦(鎌倉公方の遺児を担いだ北関東の武士の挙兵)で挙げた功によるとみられ、以後、糟屋は扇谷上杉家の相模支配の拠点になった。この家の名前が出てくる相模の城は、糟屋の館のほかに二つある。

糟屋館 場所が今も特定されていない、相模の本拠

糟屋の館は、扇谷上杉家が河越城へ本拠を移したあとも残された。当時の記録には「相陽糟屋の府第ふてい」とあるだけで、「上杉館」「糟屋館」はのちの呼び名である。館そのものの場所は今も特定されていない。伊勢原市上粕屋の台地が館跡と推定されてきたが、1975年から翌年にかけての発掘では館の明確な遺構が見つからず、館はその東側にあるのではないかと推定されている。

七沢城 相模の根拠地の一つ。1488年に落ちた

七沢城ななさわじょう(今の神奈川県厚木市の城)は、相模での扇谷上杉家の根拠地の一つで、当主・定正の兄にあたる上杉朝昌ともまさが守っていた。1488年(長享2年)2月、山内上杉家との戦いのなかで攻め落とされている。定正とこの土地の縁は深く、七沢の寺には定正夫妻の墓をはじめ、その墓所がいくつか伝えられている。定正の愛馬を供養したという伝承の残る馬頭観音ばとうかんのんもある。

大庭城 15世紀末に築き、1512年に失った

大庭城おおばじょう(今の神奈川県藤沢市の城)は、15世紀末に扇谷上杉家が築いた城である。1512年(永正9年)に伊勢宗瑞いせそうずい(北条早雲)に攻め落とされた。今は大庭城址公園として市の指定史跡になっており、戦国時代の山城の跡が残る。

河越城——本拠を相模から武蔵へ移し、家宰の太田氏が城を築いた

1454年(享徳3年)に始まった享徳の乱で、鎌倉公方の足利成氏しげうじは下総の古河(今の茨城県古河市)へ移り、関東は東西に割れた。相模に拠点を置いていた持朝は、1457年(長禄元年)、武蔵の中央にあたる河越に城を築かせる。南関東の支配を確立するためだったと考えられている。同じ年、江戸にも城が築かれた。

1457年 河越城——扇谷上杉家6代、約80年の本城

河越かわごえ城は、1457年に上杉持朝の命を受けた太田道真どうしん道灌どうかん父子が築いた。堀をめぐらせた方形の居館をいくつも組み合わせた造りだったと考えられており、以後およそ80年、扇谷上杉家6代の居城になる。1470年(文明2年)には、道真がこの城で連歌の会(河越千句)を催している。

1457年 江戸城——同じ年に、同じ父子が築いた

道真・道灌の父子は、同じ1457年に江戸にも城を築いている。河越城の跡は今の埼玉県川越市、江戸城の跡は今の東京都千代田区にあたる。二つの城はどちらも古河へ移った成氏に向き合うために取り立てられたもので、扇谷上杉家はこの二点で武蔵の中央と南部を押さえた。

太田氏 城を築いたのは、当主ではなく家宰だった

この父子が務めていたのは、扇谷上杉家の家宰かさい(当主に代わって家の政務と軍事を取り仕切る筆頭家臣)である。家宰は、山内上杉家では長尾氏、扇谷上杉家では太田氏が代々務めた。太田氏は糟屋にも屋敷を持っていたとみられ、相模から武蔵への本拠の移動を、当主と一緒にたどった一族だった。

山内と並ぶ——家臣の働きで、宗家と対等の勢力になった

1473年(文明5年)、当主の上杉政真まささねが、武蔵の五十子いかっこ(今の埼玉県本庄市)の陣で討たれた。享徳の乱のさなかの戦死である。この乱で扇谷上杉家は幕府方として戦い、勢力を広げる一方で当主まで失っていた。そして家が宗家と並ぶきっかけは、自分の家の外——山内上杉家の内紛のほうにあった。

長尾景春の乱 宗家の内紛を、扇谷の家宰が鎮めた

1470年代、山内上杉家では家宰の職を継げなかった長尾景春かげはるが反乱を起こす。この鎮圧のために相模から上野まで転戦したのが、扇谷上杉家の家宰・太田道灌だった。相模では景春方の小沢おざわ溝呂木みぞろぎ小磯こいそといった要害ようがい(守りを固めた砦)を攻め落とし、1480年(文明12年)に秩父の日野城を攻略して乱は終わった。この乱を契機に、扇谷上杉家は道灌の働きで勢力を拡大し、山内上杉家と並ぶ勢力になる。

確執 関東管領の職をめぐって、数十年争うことになった

長尾景春の乱ののち、山内上杉家と扇谷上杉家は、関東管領の職をめぐって数十年にわたる確執を生むことになる。のちに両家が決裂すると、山内上杉家に背いた長尾景春は、今度は扇谷上杉家の側に加担した。景春はこの加担で、本拠だった上野の白井城しろいじょう(今の群馬県渋川市)を一時失っている。

18年の内戦——主家と分家が、関東管領の座をめぐって戦った

1486年(文明18年)7月26日、上杉定正は相模・糟屋の館に太田道灌を招き、そこで殺した。定正がなぜそうしたのかを語る当時の史料は無く、理由は確定できない。道灌の本拠だった江戸城は定正が接収して側近の曽我そが氏を城代に入れ、道灌の嫡子・太田資康すけやす甲斐かい国(今の山梨県)へ逃れて、家中に大きな動揺が起きた。

1487〜1505年 長享の乱——18年戦い、本拠を囲まれて降伏した

1487年(長享ちょうきょう元年)閏11月、山内上杉家と扇谷上杉家は下野(今の栃木県)で戦端を開いた。山内上杉家は当主・顕定あきさだの生家である越後上杉家(越後国の守護を務めた上杉氏の一家)、扇谷上杉家は古河公方2代の足利政氏まさうじの支援を受け、関東とその周辺の領主を巻き込む内乱になる。そのさなかの1494年(明応3年)、当主の定正は伊勢宗瑞とともに顕定を攻めようと荒川を渡ろうとした際に落馬し、それがもとで急死した。1505年(永正2年)3月、越後上杉家の援軍を得た顕定に本拠の河越城を囲まれ、当主の上杉朝良ともよしが降伏して18年の戦いは終わった。

削られる領国——取り返した城もあったが、北条氏に一つずつ奪われた

18年の内戦のあいだに、伊豆には伊勢宗瑞が入っていた。宗瑞は1495年(明応4年)に大森おおもり氏を破って小田原城を奪い、そのあいだ扇谷上杉家とは同盟を結んでいる。ところが1509年(永正6年)、宗瑞は同盟を破って、扇谷上杉家の基盤である相模国の攻略を始めた。

1510年 権現山城——重臣に寝返られ、攻めて取り返した

1510年(永正7年)7月、扇谷上杉家は重臣の上田うえだ氏に寝返られた。宗瑞が上田氏を味方に付け、権現山城ごんげんやまじょう(今の神奈川県横浜市神奈川区)に入れたのである。扇谷上杉家はこの城を攻め、山内上杉家も直轄の軍と、成田なりた藤田ふじた渋江しぶえといった有力な国衆くにしゅう(その土地に根を張った領主)を援軍に送って、城は扇谷方が取り返した。

同盟 18年戦った相手と、今度は組んだ

扇谷上杉家は、相模を攻められた1509年以降、内紛から立て直した山内上杉家と同盟し、宗瑞の侵攻に抗戦していく。それでも1516年(永正13年)、扇谷方の大名だった三浦氏(相模の三浦半島を本拠にした一族)が滅ぼされ、宗瑞は相模国を手中に収めた。守護を務めた国を、扇谷上杉家はここで失う。宗瑞の跡を継いだ氏綱うじつなは、本拠を小田原城と定め、名字を北条と改めた。

1524年 江戸城——道灌の孫が、北条方に内応した

1524年(大永4年)1月、北条氏綱が上杉朝興ともおきの居城・江戸城を攻めた。このとき朝興の重臣・太田資高すけたか——江戸城を築いた太田道灌の孫といわれ、この系統は江戸太田氏と呼ばれる——が扇谷上杉家を見限って北条氏に内応したため、江戸城は落ちた。朝興は板橋いたばし(今の東京都板橋区)でいったん態勢を整えようとしたが追撃され、河越城まで逃れた。資高は氏綱のもとで江戸城将の一員となり、江戸城周辺の所領を保障されている。相次ぐ戦乱のなかで、山内上杉家の領国は武蔵北部から上野に、扇谷上杉家の領国は武蔵南部に定まった。

1546年——河越で当主が討たれ、家が終わった

北条氏綱は、1524年に江戸城を奪ったあとも武蔵への進出を続けた。このころ扇谷上杉家の当主は、上杉朝定ともさだの代になっている。相模はすでに北条氏のものになっており、この家に残っていたのは武蔵南部の領国だけだった。

1537年 本拠の喪失——河越城が北条氏のものになった

1537年(天文6年)7月、北条氏綱が河越城を攻略した。80年の本拠は、これで北条氏のものになる。同じ年、氏綱は扇谷方の拠点だった武蔵松山城むさしまつやまじょう(今の埼玉県吉見町の城)も攻めた。朝定はこののち、河越城を取り返そうと動く。

1545〜1546年 河越合戦——攻囲陣が破られ、当主が討たれた

1545年(天文14年)、山内上杉家・扇谷上杉家・古河公方の連合軍が河越城を包囲した。北条氏の急な領土拡大を前に、18年戦った両上杉家と古河公方が手を結んだ形になる。翌1546年(天文15年)4月、北条氏康うじやすが攻囲陣を破り、扇谷上杉軍では大将の朝定が討ち死にして、扇谷上杉家は滅亡した。本拠の河越城を奪われてから9年、その城を取り返す途中で家が終わったことになる。

城のゆくえ 奪われた城は、そのまま北条の城になった

河越城はこののち50余年、小田原城の支城として北条氏の武蔵支配を支え、1590年(天正18年)に徳川家康とくがわ いえやすが江戸へ入るまで軍事と経済の要であり続けた。江戸城も北条氏の支城になった。武蔵松山城は支配者が何度も変わったが、北条氏の勢力下に入った上田氏の支配下にあることが多かった。

扇谷上杉家をめぐる人物

当主の流れ

当主一言解説
上杉顕定あきさだ丹波から鎌倉の扇谷へ移り、居館を構えたのが扇谷上杉家のはじまりとされる。18年の内戦で扇谷と戦った山内上杉家の当主も同じ「上杉顕定」で、別人になる。
上杉持朝もちとも相模守護として糟屋に守護所を置き、家宰に河越城と江戸城を築かせた当主。
上杉政真まささね享徳の乱のさなか、武蔵の陣中で討たれた当主。
上杉定正さだまさ家宰の太田道灌を糟屋の館で殺し、翌年から山内上杉家と戦った当主。
上杉朝良ともよし河越城を囲まれて降伏し、18年の内戦を終えた当主。のちに江戸城で没している。
上杉朝興ともおき江戸城を北条氏に奪われ、本拠の河越城へ退いた当主。
上杉朝定ともさだ本拠の河越城を奪われ、取り返そうとして討ち死にした最後の当主。

扇谷上杉家についてのよくある疑問

上杉謙信の上杉家とは関係がある?

別の家になる。扇谷上杉家は1546年に滅びていて、その名跡を継いだ人物はいない。関東の上杉氏という点では同じ一族から分かれた家だが、越後の上杉家につながっていくのは山内上杉家のほうで、そのいきさつは関東管領のページでたどれる。

扇谷上杉家が滅んだあと、家臣はどうなった?

太田氏の二つの系統が、そのまま北条氏の下に入った。江戸城を明け渡した江戸太田氏は、北条氏のもとで江戸城将の一員として所領を保っている。もう一つの岩付いわつき太田氏(武蔵・岩槻城を本拠にした太田氏の系統)は、河越の敗戦の直後は北条氏に抵抗し、太田資正すけまさが岩槻城に入って反北条方として立ったが、1548年(天文17年)1月に氏康の攻囲を受けて降伏した。1510年に北条方へ寝返った上田氏は、もとは扇谷上杉家のもとで相模守護代(守護に代わって国の政務をとる役)を務めた家系で、のちに北条氏の勢力下に加わり、武蔵松山城を主城として比企(今の埼玉県中部)の一帯を支配した。

今、扇谷上杉家の跡はどこで見られる?

本拠だった河越城の跡は埼玉県の指定記念物で、全国に2例しか残らない本丸御殿が建っている。相模では大庭城址公園(藤沢市の指定史跡)に、大型の掘立柱建物跡が地下に保存されている。武蔵松山城の跡は、菅谷館跡・杉山城跡・小倉城跡とあわせて「比企城館跡群」として国の史跡に指定されている。糟屋の館だけは、場所そのものが特定されていない。

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参考にした資料