場所ページ / 神奈川県鎌倉市・相模湾に面した三浦半島の基部

鎌倉かまくら

鎌倉とは?

今の神奈川県鎌倉市。1455年に公方が去って武家の都ではなくなった町で、焼けた鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうを北条氏綱が建て直し、上杉謙信がその社前で関東管領を継いだ。

公方が去ったあとの鎌倉は、都市としての役割を失い、静かな農漁村へ変わっていきます。戦国のあいだ、この町と周りを治めたのは、1512年に玉縄城たまなわじょうへ入った後北条氏でした。

1455年、鎌倉公方の足利成氏あしかが しげうじが下総の古河へ移り、鎌倉に関東を治める主がいなくなります。
1512年、伊勢宗瑞が玉縄城を築きます。
1526年の暮れ、房総から来た里見の軍が街なかを戦場にし、鶴岡八幡宮が焼けました。
1532年5月、北条氏綱が再建の準備に着手します。1536年8月に仮の社殿へ神を移し、1540年11月21日に正遷宮が行われました。
1558年4月、古河公方の足利義氏が鶴岡八幡宮に参詣します。1561年閏3月16日、長尾景虎が同じ社前で上杉の名字と関東管領職を譲られました。
1590年に玉縄城が開き、鎌倉は徳川氏の領内に入ります。1603年、徳川家康とくがわ いえやすが主要な社寺の復興を進めました。

公方が去る——1455年、関東を治める役所が鎌倉から無くなった

鎌倉幕府が滅びたあとの鎌倉には、室町幕府が東国支配のために置いた鎌倉府かまくらふ(関東を治める役所)があり、その長官である鎌倉公方の足利氏が関東を治めていた。それが1455年に終わる。前年に5代の足利成氏しげうじが関東管領の上杉憲忠のりただを殺して享徳の乱きょうとくのらんが始まり、成氏はこの年、下総の古河へ移った。以後、鎌倉に公方が戻ることはなかった。

1455年 まちの働きが止まった

鎌倉は、1455年に足利氏が鎌倉支配を放棄したことで、都市としての役割を失った。鶴岡八幡宮から海へまっすぐ伸びる若宮大路わかみやおおじを軸にした中世都市の活気は、ここで失われた。

社寺 荒れたが、消えはしなかった

鎌倉の社寺も、1455年以降しだいに荒廃した。それでも鎌倉幕府のもとで創建された社寺は存続しており、荒れた鎌倉で寺社の建て直しに力を尽くした僧もいた。建長寺けんちょうじ明月院めいげついんの住職を務めた玉隠は、古河公方や関東管領、太田道灌おおた どうかんらの帰依を受け、1524年に93歳で没している。

検証 公方は、信仰の側では鎌倉を手放さなかった

足利氏は、古河へ移ったあとも鎌倉の雪下殿ゆきのしたどのに一族を送り続けた。雪下殿とは鶴岡八幡宮の別当べっとう(社を管理する寺の長)で、公方の近親者が就く地位である。政治は古河、信仰は鎌倉という形で、関東の支配は二つの場所に分かれていた。

北条の東——1512年の玉縄城で、鎌倉は小田原の東の押さえになった

公方が去ってからの半世紀、関東では関東管領を出す山内上杉家やまのうちうえすぎけと分家の扇谷上杉家おうぎがやつうえすぎけが、1487年から18年にわたって争っていた。その争いが収まったころ、荒れた鎌倉に入ってきたのが、伊豆の韮山城にらやまじょう小田原城を拠点に関東へ版図を伸ばしていた伊勢宗瑞そうずい北条早雲ほうじょう そううん)である。1512年、宗瑞は鎌倉の北西に玉縄城を築いた。鎌倉はこれ以後、小田原の東を押さえる城の足もとの町になる。

1512年 玉縄城が築かれた

玉縄城は、1512年に伊勢宗瑞が小田原城の支城として築いた城で、以後は北条氏の一族が代々の城主になった。彼らは玉縄北条氏と呼ばれ、鎌倉の周りを治めている。

出入口 七つの切通が、道であり守りだった

鎌倉の町そのものに、城が置かれることはなかった。山側の出入口は、尾根を深く掘り込んで道にした七つの切通きりどおしである。道は途中で折り曲げられ、一度に多くの人が通れないほど狭くしてある。周りには武者が陣取る平場や、垂直に削り落とした崖(切岸きりぎし)が配された。切通は各地へ続く幹線道路であると同時に、鎌倉を守る防御施設だった。

焼ける——1526年、里見の軍が街なかを戦場にし、鶴岡八幡宮が灰になった

1524年に北条氏綱が江戸城を取ると、東京湾の海上交通と物資の流通は北条氏の手に移った。安房を本拠とする房総の大名・里見氏にとって、北条氏はここから利害のぶつかる相手になる。1526年5月、里見の軍は江戸城下の湊である品川を攻めた。東京湾の主導権をめぐる対決である。同じ年の11月には上杉氏が玉縄城を攻め、その暮れ、里見の軍が鎌倉に入った。鎌倉への侵入もこの対決の一環で、玉縄城への攻撃と連動した動きだった。

1526年の暮れ 八幡宮は灰になった

1526年の暮れ、里見の軍が鎌倉に入り、鶴岡八幡宮に乱入した。軍勢は建物を破壊して火を放ち、社殿も堂塔も灰になった。

焼失 焼けたのは、社であり寺でもあった

鶴岡八幡宮は、明治の神仏分離まで鶴岡八幡宮寺と呼ばれた。別当のもとに25人の供僧ぐそう(社に仕える僧)が置かれ、社であると同時に寺でもある。1526年に失われたのは、その両方だった。

検証 誰が率いたかは、資料で分かれる

1526年の攻撃を率いた人物は、資料によって二通りに書かれる。一方は、里見実尭さねたか(安房の里見氏の一族)が三浦半島に上陸して玉縄城に迫り、北条軍との激闘の末に鎌倉を掠奪して火を放ち、房総へ引き揚げたという。もう一方は、当時の八幡宮にいた僧が「馬の鼻を八幡宮に向けて狼藉を働いた」と非難した相手として、里見義豊よしとよ(このころの里見家の当主)の名を挙げる。年と結果は両方の資料で一致するが、率いた人物までは確定できない。

建て直す——1532年から8年、氏綱は敵にまで材木を頼んだ

焼けた社が動き出すのは6年後になる。相模国さがみのくにの守護だった北条氏綱は、1532年5月に鶴岡八幡宮の再建の準備に着手し、鎌倉代官の大道寺盛昌もりまさ惣奉行そうぶぎょう(工事全体の責任者)に任じた。氏綱は奉行たちに、日々の作業記録を毎日改めるよう命じ、違背すれば改易するとまで言い切っている。

職人 奈良と京都からも呼び寄せた

集められた職人は、大工・塗師ぬし檜皮師ひわだし・瓦師・炭焼・絵師・壁師・石切と多岐にわたった。建物を組む番匠ばんしょうは、領内の鎌倉・玉縄・伊豆だけでなく、奈良や京都からも高い賃銭を払って呼び寄せている。1534年2月には、作事のやり方が違う鎌倉と奈良の番匠が諍いを起こし、玉縄衆(玉縄城に属する家臣団)の太田兵庫助が仲裁に入った。

拒否 1533年、敵味方の区別なく頼んで断られた

氏綱は1533年、造営への協力を敵味方の区別なく求めた。上野・武蔵の上杉方の諸将、房総の真里谷武田氏まりやつたけだし(上総の武田氏の一族)と原氏はらし(下総の千葉氏に属した武家)、そして八幡宮を破壊した当人とされる里見義豊にまで要請し、対立する小弓公方には使節を送っている。しかし義豊も敵地の諸将も、拒否を通告した。鶴岡八幡宮の再建はそもそも公方と管領が主催するものであり、氏綱に協力することは、北条氏を上杉氏の後継者と認めることになるからだった。

1536年3月 断った相手の家から材木が届いた

造営を断った1533年、里見家で内乱が起きた。翌年、家督は義豊から里見義尭よしたか(内乱のあとの当主)に移る。1536年3月、その義尭が氏綱の造営に協力して材木を送っている。

1536年8月 大鳥居の巨木は敵地から来た

大鳥居に使う巨木は、北条氏の領内に見つからなかった。1536年8月の晦日、敵地である房総で伐り出された材が海上を運ばれ、由比ガ浜ゆいがはまから陸揚げされている。駿河からも材木が運ばれたが、こちらは花蔵の乱はなくらのらん今川家の家督争い)で到着が遅れた。

町の人 門と橋と大鳥居は、勧進で直された

社殿など中心の部分は氏綱の事業だったが、それとは別に行われた門の葺き替え、参道の道と下馬橋の修理、由比ガ浜の大鳥居の建て替えは、鎌倉の町人などの勧進かんじん(寄付を募って費用にすること)を主体に実行されたといわれる。

1540年 正遷宮までこぎ着けた

工事は1536年8月に仮の社殿へ神を移す段階を経て、上宮・拝殿・廻廊から下宮・赤橋・大鳥居までが完成し、1540年11月21日に正遷宮しょうせんぐう(本来の社殿へ神を戻す儀式)が行われた。この日は下宮で神楽と相撲が奉納され、氏綱が神馬と太刀を進めている。翌日の落成の法事には、氏綱・氏康をはじめ一門と大名が正装で列座した。その7日後、古河公方の足利晴氏はるうじに嫁いでいた氏綱の娘が、道中の安全を願って参詣している。

正統の舞台——公方が参り、管領がここで代わった

建て直された社に、関東の主を名乗る側が次々にやってきた。先に来たのは、北条氏が立てた古河公方の足利義氏よしうじである。義氏は晴氏と氏綱の娘とのあいだに生まれた子で、1555年に13歳で元服したときには北条氏康ほうじょう うじやすが席に着いていた。その3年後、義氏は鎌倉へ向かった。

1558年 公方が鶴岡八幡宮に参詣した

古河公方の足利義氏は、1558年4月4日に葛西城かさいじょう(今の東京都葛飾区)を出発し、10日に鎌倉の鶴岡八幡宮へ参詣、15日に北条氏の本拠・小田原城へ入った。公方の社参と、北条氏の本拠への訪問が、一続きの道のりになっている。

1561年 同じ社前で関東管領が代わった

1561年3月に小田原城を包囲した長尾景虎かげとらは、翌閏3月16日、鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で、越後に逃れていた上杉憲政うえすぎ のりまさから上杉の名字と関東管領職を譲られ、上杉政虎まさとら(のちの輝虎、上杉謙信)と名を改めた。

立場 相手も関東管領を名乗っていた

景虎は1561年、将軍家から相続の許しを得たうえで関東管領に就いた。これによって、同じ職を主張する北条氏と、正面から対立することになる。

房総から 房総の里見も鎌倉に来ていた

1561年の小田原城の包囲には、安房の里見義弘よしひろ(材木を送った義尭の子)も加わり、景虎と鎌倉で対面している。義弘は1550年代の後半にも鎌倉へ軍勢を入れていた。里見氏は、足利氏による鎌倉の再興を唱えて北条氏との戦いに加わっている。

その後 陣を引いた先も鎌倉だった

上杉軍は小田原城を攻めきれず、鎌倉まで撤退した。その後、越後の春日山城かすがやまじょうへ帰っている。

聖地になる——北条が去り、家康が社寺を建て直した

1561年に管領が代わったあとも、鎌倉の町と周りを治めたのは玉縄城の北条氏だった。その29年後の1590年、豊臣秀吉とよとみ ひでよし小田原征伐で北条氏が降る。同じ年の7月、徳川家康が秀吉から関東への転封を命じられ、鎌倉は徳川氏の領内に入った。社寺の扱いは、ここから変わっていく。

1590年 玉縄城が開いた

玉縄城は1590年に開城し、1619年に廃城となった。1512年の築城から続いた玉縄北条氏による鎌倉周辺の支配も、ここで終わっている。

1603年 家康が主要な社寺を復興した

1603年、江戸に幕府を開いた徳川家康は、鎌倉を武家政権発祥の聖地として重視し、鶴岡八幡宮や建長寺など主要な社寺の復興を行った。これを機に、江戸幕府などの関与による鎌倉の社寺の修造が、その後も続いていくことになる。

まち 町は農漁村のままだった

一方でまちは、室町時代のあと明治時代に至るまで衰退の道をたどった。江戸時代には江戸に近い史跡名勝の地として観光の対象になったが、往時のように繁栄することはなく、静かな農漁村のままだった。社寺が建て直されても、都市としての鎌倉は戻らなかった。

検証 権力者が代わるたびに、社殿は直された

鎌倉幕府が滅びたあとも、室町幕府・鎌倉公方・小田原北条氏江戸幕府は、いずれも鶴岡八幡宮への社領の寄進と社殿の修造に努めている。八幡宮に伝わる文書のなかには、小田原北条氏のものと並んで、豊臣秀吉と徳川家康のものがある。

鎌倉が戦国に残したもの——正統の証しと、職人の町

関東を治める役所が消えたあとも、鎌倉は関東の争いの外に出なかった。八幡宮が焼かれ、8年かけて建て直され、その社前で関東管領が代わっている。

正統の証し 主のいない町が、名乗りの場所に選ばれた

1455年から、鎌倉に関東を治める主が置かれることはなかった。それでも関東の主を名乗る側は、就任と参詣の場所として、この町の鶴岡八幡宮を選び続けている。八幡宮を誰が建て、誰がその社前に立つのかが、関東の主を示す形になっていた。

職人の町 再建に集まった職人が、そのまま残った

鶴岡八幡宮の再建には、鎌倉にいた多くの職人が携わった。彼らは後北条氏の庇護を受け、後々まで鎌倉を拠点に活動していくことになる。

鎌倉の疑問に答える

今の鶴岡八幡宮の建物は、氏綱が建てたもの?

ちがう。現在の上宮は1828年の再建で、国の重要文化財に指定されている。末社の丸山稲荷社本殿は1398年の建立で、1526年の炎上より前の建物にあたる。氏綱の再建でできた社殿そのものは、今は残っていない。

1550年代の後半に里見氏が鎌倉へ侵入したあと、尼寺の太平寺が無くなったのはなぜ?

最後の住職が寺を出て、安房へ渡ってしまったから。太平寺たいへいじは鎌倉の尼五山の筆頭で、住職は正月に鎌倉公方から茶の接待を受け、2月には公方が焼香に訪れるのが年中行事という格式の寺だった。最後の住職の青岳尼は小弓公方足利義明の娘で、里見義弘が鎌倉へ侵入した際、寺を捨てて安房へ移ってしまう。鎌倉を支配していた北条氏康はこれを北条氏への敵対行動とみなし、太平寺を廃寺にした。残された仏殿は、のちに円覚寺えんがくじへ移されて舎利殿になったと考えられている。円覚寺舎利殿は、神奈川県で唯一の国宝の建物である。

鎌倉大仏は、戦国時代も屋根がなかった?

なかった。足利氏が鎌倉の支配を放棄したあと、鎌倉では社寺の荒廃が進み、大仏も露座ろざ(屋根のない状態)になった。戦国の鎌倉を歩いた人が見た大仏も、今と同じく屋根のない姿だったことになる。

戦国の鎌倉の跡は、今どこで見られる?

国の史跡になっている社寺の境内が中心になる。鶴岡八幡宮の境内、建長寺の境内、円覚寺の境内などが指定されており、八幡宮から海へまっすぐ伸びる若宮大路は、現在も鎌倉のメインストリートである。大鳥居の材木が陸揚げされた由比ガ浜は、その若宮大路の南の先にあたる。

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参考にした資料