今川氏とは?
- 足利一門の名門。足利氏の分家・吉良氏からさらに分かれた家で、南北朝の動乱で足利方として働き、駿河の守護となった。室町幕府のもとで高い家格を持った。
- 氏親が戦国大名の仕組みを整えた。北条早雲(伊勢宗瑞)の甥にあたる今川氏親は遠江を手中にし、1526年に分国法「今川仮名目録」を定めた。戦国大名の分国法の早い例である。
- 義元が東海最大の勢力にした。花倉の乱を制して家督を継いだ義元は、三河へ進出し、武田・北条と三国同盟を結んで、駿河・遠江・三河を支配した。
- 桶狭間で義元を失った。1560年、尾張へ進んだ義元は桶狭間で織田信長に討たれた。家臣の離反が相次ぎ、三河では松平元康(徳川家康)が自立した。
- 氏真の代に領国を失った。1568年、武田信玄が駿河へ、徳川家康が遠江へ侵攻。氏真は掛川城に退いたのち開城し、大名としての今川氏は終わった。家は高家として江戸時代も続いた。
今川氏は、なぜ「名門」と呼ばれるのか
- 足利将軍家の分家の分家。足利氏から吉良氏が分かれ、吉良氏から今川氏が分かれた。「御所(将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という言い回しは、この家格を表したもの。
- 南北朝の功で駿河守護に。今川範国が足利尊氏に従って働き、駿河・遠江の守護となった。以後、駿河守護を世襲し、駿府に守護所を置いた。
- 京都の文化が根づいた。今川氏は代々京都との結びつきが深く、公家や連歌師が駿府を訪れた。義元の代の駿府は、東国の文化の中心の一つだった。
今川氏は、守護の家がそのまま戦国大名になった型で、武田氏や大友氏と同じです。駿河の地理は駿河国で、本拠の町は駿府で整理しています。
今川氏は、どうやって東海最大の勢力になったのか
- 01氏親:遠江の平定と仮名目録
今川氏親(義元の父)は、叔父にあたる伊勢宗瑞(北条早雲)の助けで家督争いを制し、遠江を手中にしました。1526年に定めた「今川仮名目録」は、家臣の争いの裁き方や所領の扱いを定めた分国法で、戦国大名の領国経営の手本とされます。
- 021536年:花倉の乱
氏親の子・氏輝が急死すると、弟たちの間で家督争いが起きました。僧籍にあった義元が母・寿桂尼と軍師・太原雪斎の支援で勝ち、家督を継ぎます。
- 031540年代:三河への進出
義元は織田信秀と三河をめぐって争い、松平家を従属させました。松平広忠の子・竹千代(家康)を人質として駿府に置き、三河を勢力下に収めます。
- 041554年:甲相駿三国同盟
武田信玄・北条氏康と同盟を結び、背後を固めました。これで義元は西の尾張方面に集中できるようになり、今川氏は駿河・遠江・三河を支配する東海最大の大名となります。
今川氏はなぜ、義元の死から8年で領国を失ったのか
- 1560年、桶狭間の戦い。尾張へ大軍を進めた義元は、桶狭間で織田信長の奇襲を受けて討たれた。東海最大の大名の当主が、戦場で命を落とした。
- 三河で家康が自立した。義元の死後、松平元康(家康)は岡崎城に戻り、1562年に信長と同盟を結んで今川氏から離れた。三河は失われた。
- 遠江の国衆が離反した。氏真は家臣の統制に苦しみ、遠江では飯尾連龍ら国衆の離反が相次いだ。氏真はこれを鎮めようとして、かえって不信を広げた。
- 1568年、武田・徳川の侵攻。三国同盟を破った武田信玄が駿河へ、家康が遠江へ同時に攻め込んだ。氏真は駿府を捨てて掛川城に退き、翌年開城して北条氏を頼った。
- 家は続いた。氏真はのちに家康の庇護を受け、1615年まで生きた。その子孫は江戸幕府の高家として今川の名を伝え、明治まで続いた。
今川氏の家系図
氏親と寿桂尼から、江戸の高家今川家まで。実線が親子、細い線が婚姻、赤い点線が対立。桶狭間で終わった家と思われがちだが、氏真の子孫は幕末まで続いた。
今川氏をめぐる人物
今川氏についてのよくある疑問
義元は本当に「公家かぶれの弱い大名」だったのか?
義元が化粧をして輿に乗っていたという像は、江戸時代以降に信長を引き立てるために強調されたものです。実際の義元は、花倉の乱を制し、三河を手中にし、三国同盟を結び、仮名目録に追加の法を定めた有能な当主で、近年は静岡市などで「海道一の弓取り」として再評価されています。桶狭間の敗北は、義元が弱かったからではなく、信長の奇襲が成功したからと考えるのが適切です。
今川氏は桶狭間で滅んだのか?
滅んでいません。義元の死後も氏真が当主として8年間領国を保ち、領国を失ったのは1568年の武田・徳川の侵攻によってです。さらに氏真自身は1615年まで生き、子孫は江戸幕府の高家として続きました。「桶狭間で今川は終わった」という見方は、当主の死と家の終わりを混同したものです。
氏真は本当に無能だったのか?
氏真は蹴鞠や和歌に親しんだことから「文弱な当主」とされがちですが、義元の急死という最悪の状況で家督を継ぎ、家臣の離反と武田・徳川の同時侵攻という難局に直面しました。同じ状況で家を保てた大名は多くありません。領国を失ったあとも北条・徳川を頼って生き延び、家を残したことは、別の意味での能力といえます。
今川仮名目録は何がすごいのか?
1526年に氏親が定めた33か条の法で、戦国大名の分国法のなかで最も早い時期のものの一つです。家臣どうしの争いを当主が裁くこと、勝手な私闘を禁じることなどを定め、守護の権威ではなく大名自身の力で領国を治める姿勢を示しました。1553年に義元が追加した21か条では、幕府の守護に頼らず自力で領国を治めることを明言しており、戦国大名の自立を示す史料として知られます。