事件・合戦ページ / 1560年 / 信長の台頭

桶狭間の戦いおけはざまのたたかい

1560年、織田信長が尾張へ侵攻した今川義元の本隊を攻め、義元を討ち取った戦いです。勝因は「大軍が油断したところを豪雨に紛れて奇襲した」の一言では説明できません。城と砦をめぐる戦線、分散していた今川軍、信長の情報と決断、大将を失った影響をつなげて見る必要があります。

1560年 織田信長 今川義元 尾張・三河

織田信長の論理

砦を取り返すのではなく、義元のいる本隊だけを狙う。兵を分けず、情報と速さで局地戦に持ち込む。

今川義元の論理

大軍を城と砦に分けて着実に尾張を切り取る。本隊は後方で全体を指揮する。——その本隊が狙われた。

桶狭間の戦いとは?

  • 1560年、信長が今川義元を討った。尾張へ進んだ今川軍の本隊を、信長の軍が桶狭間で急襲し、大将の義元を討ち取った。
  • 兵力差は「10倍」ほどではなかった可能性が高い。今川軍は城や砦へ兵を分けており、義元の本隊だけを見れば差は縮まる。数字は後世の記録で膨らんでいる。
  • 迂回奇襲か正面攻撃かは議論がある。山を回り込んで背後を突いたとする通説と、正面から攻めたとする見方があり、確定していない。
  • 勝因は場所を絞ったこと。砦を取り返すのではなく、義元のいる本隊だけを狙った。情報と速さで局地戦に持ち込んだ。
  • 東海の勢力図を変えた。今川氏は衰え、松平元康(家康)が三河で自立し、信長は美濃攻略へ向かう。信長・家康の出発点になった戦い。
最初に疑問へ答える

信長はなぜ今川義元に勝てたのか

信長は今川軍全体を正面から打ち破ったのではありません。各地の城・砦へ兵を分けていた今川軍のなかから義元の本隊へ攻撃を集中し、戦場の大将を討ち取ったことで軍を退却させました。

01

勝負する場所を絞った

丸根・鷲津の砦を奪い返すのではなく、義元がいる本隊を目標にしました。

02

今川軍は一か所にいなかった

大高城・鳴海城と周辺の砦をめぐる作戦のため、全軍が義元のそばに集結していたわけではありません。

03

情報を得て素早く動いた

信長は清洲から熱田・善照寺砦・中島砦へ進み、義元本隊へ短時間で迫りました。

04

大将の戦死が退却を招いた

局地戦で義元を失ったことが決定打となり、今川軍は尾張から後退しました。

一つの必勝策があったわけではありません。兵力、進軍経路、攻撃が迂回奇襲だったかなど、細部には史料と研究による違いがあります。確実な経過と有名な物語を分けて読んでいきます。

一日の奇襲だけでは見えない

戦いの前から、尾張南東部では城と砦が争われていた

今川義元いまがわ よしもとは駿河・遠江とおとうみから三河へ支配を広げ、尾張南東部にも影響を及ぼしていました。今川方の鳴海城なるみじょうと大高城おおだかじょうに対し、信長は周囲へ丸根砦まるねとりで・鷲津砦わしづとりでなどを置いて連絡と補給を圧迫しました。桶狭間は、こうした国境戦のなかで起きた決戦です。

今川方の狙い

大高城への補給路を確保し、織田方の砦を排除して尾張での軍事的優位を広げる必要がありました。

織田方の狙い

今川方の城を孤立させ、尾張南東部への進出を止めなければ、尾張支配そのものが脅かされました。

元康の役割

今川方の松平元康まつだいら もとやす、のちの徳川家康は大高城への兵糧入れを成功させ、前線の一翼を担いました。

義元は上洛する途中だったのか?

後世には「大軍で京都を目指した」と語られましたが、上洛がこの出兵の確定した目的だったと示す同時代史料はありません。まず尾張国境の城・砦をめぐる軍事行動として見るのが安全です。

永禄3年5月19日

桶狭間の一日を六段階で追う

01

元康が大高城へ兵糧を入れる

今川方として行動していた元康は、織田方に包囲されていた大高城への補給を成功させます。

02

丸根・鷲津の砦が攻められる

今川方は大高城周辺の織田方拠点を攻撃。信長は砦の救援だけでなく、義元本隊との決戦を選びます。

03

信長が清洲から出陣する

信長は早朝に清洲城を出て、熱田を経て善照寺砦ぜんしょうじとりでへ進み、集まった兵を率いて前線へ向かいます。

04

中島砦から義元本隊へ近づく

信長は中島砦なかじまとりでから今川勢へ向かいます。急な風雨があったと記す史料もありますが、経路と天候の作用は断定できません。

05

義元の周囲へ攻撃が集中する

織田勢は義元本隊へ突入します。今川軍全体を包囲殲滅したのではなく、大将の周囲で激しい近接戦になりました。

06

義元が討たれ、今川軍が退く

義元は服部小平太はっとり こへいたと戦い、毛利新介もうり しんすけに討ち取られたと『信長公記しんちょうこうき』は伝えます。総大将を失った今川軍は尾張から後退しました。

伝承 山を回り込む迂回奇襲

信長が山中を迂回して背後から義元本陣を突いたとする説。江戸時代の『甲陽軍鑑』や小瀬甫庵おぜほあんの『信長記』で広まった。

史料 正面からの攻撃

太田牛一ぎゅういちの『信長公記』では、信長は善照寺砦から中島砦へ進み、雨のあと正面から義元の本隊に攻めかかったと読める。近年はこちらが有力。

桶狭間の位置関係

桶狭間の戦いの位置関係(模式図)北西の清洲城から信長が南東へ進み、鳴海・大高の今川方の城と織田方の砦の間を抜けて、桶狭間の義元本隊へ向かった。 東海道(鎌倉街道) 信長、未明に出陣 義元本隊 今川方、砦を攻める 清洲城信長の本拠 熱田熱田神宮で兵を集める 善照寺砦信長の前進拠点 鳴海城今川方 大高城今川方 丸根・鷲津砦織田方、朝に落ちる 桶狭間義元本陣が討たれる 沓掛城義元が前夜に宿営 今川軍 織田軍 ↑北
この図で見てほしいのは、今川軍が鳴海・大高・丸根・鷲津と兵を分けていて、義元の本隊だけが桶狭間にいたことです。信長はその本隊だけを狙いました。 位置関係を示す模式図で、距離や地形は正確ではありません。今川軍は城と砦の攻略に兵を分け、義元の本隊は桶狭間で休息していました。信長は善照寺砦から義元本隊だけを目標に進みました。本陣の正確な場所(桶狭間山・田楽狭間など)には諸説あります。
勝敗より長く残った影響

桶狭間の後、東海はどう変わったか

桶狭間の勝敗は、その場で天下を決めたわけではありません。しかし、義元個人を中心に維持されていた軍事的な結びつきが揺らぎ、信長・元康・今川氏真いまがわ うじざねがそれぞれ領国を組み直す出発点になりました。

義元が戦死→今川軍が尾張から後退→元康が岡崎へ帰還→西三河で今川離れが進む→信長と元康が同盟へ

家康はその場で即座に独立を宣言したわけではありません。義元戦死後もしばらく今川方として織田方と戦い、その後に氏真から離れて信長との和解・同盟へ進みました。

織田方今川方
戦いの直後義元を討ち、尾張南部の今川方の城を回復。義元と重臣を失い、尾張から撤退。
数年後美濃攻略へ集中でき、1567年に稲葉山城を落とす。三河で松平元康(家康)が自立し、遠江でも国衆くにしゅうが離反。
長期的に信長が畿内へ進む出発点になった。氏真の代で領国が崩れ、1568年に武田・徳川に攻められて滅亡へ。

桶狭間は今川氏を一日で滅ぼしたのではなく、衰退の始まりだった。

通説を一度立ち止まって見る

桶狭間についてのよくある疑問

織田軍2千対今川軍2万5千だったのか?

今川軍が織田軍を大きく上回ったという理解は広く共有されていますが、人数は史料によって異なります。また今川軍は城・砦への攻撃や各地の守備へ分かれており、義元本隊の周囲に全軍がいたわけではありません。総兵力と決戦地点の兵力を分けて考える必要があります。

豪雨に紛れた迂回奇襲だったのか?

『信長公記』には急な風雨の記述があります。一方、信長が大きく迂回して背後から忍び寄ったという有名な作戦像は、後世の軍記や近代の戦史によって広まった面があります。正面攻撃・側面攻撃・迂回奇襲のどれと呼ぶかは、進軍経路と本陣位置の復元によって見方が変わります。

義元は油断して宴会をしていたのか?

前線で今川方が丸根・鷲津の砦を攻略していたため、優勢の報を受けていた可能性はあります。しかし「公家風の軟弱な大名が酒宴にふけり油断した」という人物像まで事実として扱うことはできません。義元は三国を動かし、尾張国境へ軍を展開した有力大名でした。

義元は京都へ上洛しようとしていたのか?

「上洛軍だった」という説明は有名ですが、この出兵の目的を全国政権獲得のための上洛と断定できる同時代史料はありません。鳴海・大高の今川方拠点を救援し、尾張南東部の優位を固める目的をまず押さえ、その先の構想は分けて考えます。

戦場は現在のどこなのか?

桶狭間一帯には複数の伝承地があり、義元本陣や戦死地点、信長の進軍経路を完全には確定できません。豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」は国指定史跡ですが、史跡名にも「伝説地」とあるように、伝承と地形・史料の検討を分けて見る必要があります。

この一戦で信長は天下人になったのか?

なっていません。信長はその後も家康との同盟、美濃攻略、足利義昭よしあきを奉じた上洛まで八年を要しました。桶狭間の重要性は天下統一の完成ではなく、今川氏を中心とした東海の均衡を崩し、三人が別々の方向へ動き出したことにあります。

信長は義元本隊の位置を知っていたのか?

断定できる史料はありません。信長公記を素直に読むと、信長は中島砦から出て眼前の敵へ決死の攻撃をかけ、崩れた敵を追ううちに義元の本隊に達した、という流れです。「簗田政綱が本陣の位置を通報した」という有名な話は、簗田が戦後に大きな恩賞を受けた事実からの後世の推測が濃く、何の功績だったかは記録上はっきりしません。「本隊だけを狙った精密な作戦」より、「決死の攻撃が、雨と地形で分断されていた本隊に届いた」と見るのが近年の研究の主流です。

義元を討った二人は、その後どうなったのか?

信長公記によれば、服部小平太(一忠)が槍をつけ、毛利新介(良勝)が首を取りました。二人のその後は対照的な悲劇です。毛利新介は本能寺の変の日、二条御所で織田信忠おだ のぶただとともに討死。服部小平太は秀吉に仕えて大名格まで出世しますが、豊臣秀次とよとみ ひでつぐの事件に連座して命を絶ちました。義元を討った二人が、織田と豊臣それぞれの悲劇で最期を迎えています。

桶狭間から、次にたどる

勝者だけでなく、同盟へ進んだ元康、敗れた今川家、次の美濃攻略まで追うと、桶狭間が東海の分岐点だった意味がつながります。

参考にした資料

合戦の経過は太田牛一の『信長公記』を重要な手がかりとし、家康の岡崎帰還と今川氏から離れる過程は国立公文書館・名古屋市博物館の公開資料も参照しました。ただし、『信長公記』も後年にまとめられた記録であり、進軍経路・人数・本陣位置を完全に復元できるわけではありません。