城・場所ページ / 尾張の政治の中心から、信長が東海へ出る城

清洲城

清洲城は、尾張下四郡の守護代・清洲織田氏が拠点とした城です。1555年に織田信長が那古野から入城すると、尾張統一、桶狭間、清洲同盟、信長没後の清洲会議へつながる政治と軍事の中心になります。清洲城を見ると、信長が「城を移った」のではなく、尾張の中心を手に入れたことが分かります。

尾張下四郡清洲織田氏1555年 信長入城桶狭間の出発点

清洲城を最初にどう覚える?

尾張の中心

守護の館と近い構造を持つと考えられる、尾張の政治上重要な城です。

清洲織田氏の城

信長以前は、尾張南部の清洲織田氏が拠点にした城でした。

信長が立場を変える城

1555年に信長が入城し、那古野の一勢力から尾張をまとめる側へ進みます。

桶狭間へ出る城

1560年、信長は清洲から桶狭間へ出陣します。

1555年の入城は、何を変えたか

信長が清洲へ入る前、尾張には清洲・岩倉など複数の織田系統がありました。清洲城を得たことは、城を一つ増やしただけではなく、尾張南部の政治的な中心を押さえることでした。

信長は清洲を足場に尾張内部の対立を越え、岩倉城の攻略へ進みます。桶狭間の直前には、今川義元に向き合うための領国の足場が整っていました。

清洲から、四つの転換点へ

尾張統一清洲を押さえ、岩倉など尾張内部の有力勢力と向き合います。
桶狭間1560年、信長は清洲から出陣し、今川義元の本隊を狙います。
清洲同盟桶狭間後、三河で自立する家康と信長が関係を結び、東の背後を安定させます。
清洲会議1582年、本能寺の変後に織田家の後継と領地配分を協議します。清洲城は、信長の時代の終わりと次の政局をつなぐ舞台になります。

信長の後、清洲はどうなったか

信長の時代1555年の入城から小牧山へ移るまで、尾張統一と桶狭間を支える本拠になります。
信雄の時代清洲会議後に織田信雄が城主となり、天守と広い城下を備えた城塞都市へ大きく整えられました。
清須越1610年に始まる名古屋城築城と城下移転で、清須の町・寺社・商人は名古屋へ移され、清洲城は廃城へ向かいます。
現在現在の「清洲城天主閣」は1989年に建てられた歴史博物館で、戦国期の天守そのものではありません。五条川を挟んだ清洲古城跡公園側に、旧城地を考える手掛かりがあります。

清洲城は、信長だけの城ではありません。 信長の出発、信長後の巨大化、名古屋への都市移転まで追うと、尾張の政治中心がどのように移ったかを一つの場所で理解できます。

ここだけ覚える

  • 清洲城は尾張下四郡の政治の中心で、清洲織田氏の拠点だった。
  • 1555年の信長入城は、尾張の主導権を得る転換点。
  • 桶狭間と清洲同盟に加え、1582年の清洲会議も清洲城で開かれ、信長の死後の政局を左右した。

清洲城から、どこへ進む?

参考にした資料