事件・合戦ページ / 信長後の体制づくり

清洲会議きよすかいぎ

本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が倒れたあと、織田家の後継と領地配分を話し合った会議です。「清須会議」と書かれることもあります。地味に見えますが、ここで秀吉の発言力が強まり、柴田勝家との対立が賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいへつながっていきます。秀吉側・勝家側に分かれる相関図は、ページ中ほどの清洲会議の相関図にあります。

1582 織田家後継 羽柴秀吉 柴田勝家
清洲城模擬天守と大手橋
清洲城模擬天守と大手橋 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

清洲会議とは?

  • 1582年、本能寺の変後の織田家の後継を決めた会議。柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀にわながひで・池田恒興いけだ つねおきが清洲城に集まった。
  • 家督は三法師に決まった。信忠の子で3歳の三法師(織田秀信)が家督を継ぎ、信長の子・信雄のぶかつと信孝は後見の立場になった。
  • 秀吉が主導権を握った。光秀を討った功で秀吉の発言力が増し、三法師を擁する形で織田家の実権に近づいた。
  • 領地の配分で対立が残った。秀吉は近江・山城を得て畿内きないを押さえ、勝家は北近江を得たが、両者の対立は翌年の賤ヶ岳へつながる。
  • 「会議で天下が決まった」は言いすぎ。会議は織田家の内部問題を扱ったもので、秀吉が天下人になるのはその後の戦いの結果。

清洲会議を理解する四つの視点

  1. まず、本能寺の変で信長と信忠が倒れたことを見る。
  2. 次に、誰を織田家の中心にするかを見る。
  3. そのうえで、秀吉と勝家の立場がどう変わったかを見る。
  4. 最後に、会議後の火種が賤ヶ岳へつながる流れを見る。

本能寺の変のとき、織田領はどうなったか

1582年6月の時点で織田家の支配は畿内から中部・北陸・中国東部に及んでいた。清洲会議でその配分が組み替えられた。一方、本能寺の直後に会議の外で手放した地域もある。

地域1582年6月(変の直前)清洲会議後
尾張信忠(織田の本国)信雄
美濃信忠(岐阜城)信孝(岐阜城)・三法師も岐阜に
近江信長直轄(安土)・光秀(坂本)・秀吉(長浜)秀吉が南部、勝家が長浜、丹羽が志賀・高島
山城・丹波光秀秀吉
摂津・河内池田恒興・中川清秀なかがわ きよひで・高山右近たかやま うこんら池田が摂津の大坂・尼崎・兵庫
越前・加賀・能登・越中勝家・前田利家まえだ としいえ・佐々成政さっさなりまさ変わらず
甲斐・信濃・上野河尻秀隆かわじり ひでたか・森長可ながよし・滝川一益かずます(武田滅亡直後)天正壬午の乱てんしょうじんごのらんで徳川・北条・上杉が奪う
播磨・因幡・備前など秀吉(姫路)・宇喜多氏秀吉

清洲会議で決められたのは畿内周辺の配分が中心で、東国の旧武田領は会議の外で失われた。北陸の前田利家は、このとき勝家に付けられた与力(配下の武将)で、会議に出る宿老ではない。利家が大大名として台頭するのは、賤ヶ岳で勝家から離れて以降のこと。この配分は翌年の賤ヶ岳の戦いでさらに動き、1年後には織田領の大半が秀吉方の手に渡る(詳しくは賤ヶ岳の戦い)。

清洲会議の相関図

1582年6月、本能寺の変で信長と信忠を同時に失った織田家の後継を、四人の重臣が清洲城で決めた。新当主は3歳の三法師。図の左が勝家の側、右が秀吉の側で、会議のあとこの二つの側に分かれていく。

清洲会議の相関図新当主の三法師を秀吉が擁立し、勝家は信孝を推した。丹羽・池田は秀吉に同調し、勝家はお市の方と結婚。秀吉と勝家の対立は翌年の賤ヶ岳で決戦になる。 勝家の側 秀吉の側 さんぼうし三法師信忠の子・3歳で新当主 おだ のぶかつ織田信雄信長の次男・叔父として後見 おだ のぶたか織田信孝信長の三男・叔父として後見 しばた かついえ柴田勝家筆頭家老 おいちのかたお市の方信長の妹 はしば ひでよし羽柴秀吉光秀を討った功で主導 にわ ながひで丹羽長秀宿老 いけだ つねおき池田恒興宿老 擁立 同調 同調 のち接近 推す(後世の記録) 会議後に結婚 後見 後見 兄弟で不仲 対立 → 翌年、賤ヶ岳で決戦
この図で見てほしいのは、秀吉と勝家を結ぶ赤い線です。会議で決まったのは三法師の相続だが、秀吉が三法師を擁し、勝家が信孝と結んだことで、織田家中は二つの側に割れた。この対立が翌1583年の賤ヶ岳の戦いで決着する。「秀吉が三法師を、勝家が信孝を推して争った」という会議の場面は後世の記録によるもので、図は会議の結果として生まれた陣営を示す。光秀はすでに山崎で敗死しており、図には入れていない。

関係人物

織田信長おだ のぶなが 会議の直接の参加者ではありませんが、信長の死が会議の出発点です。
織田信忠おだ のぶただ 信長の嫡男で、織田家当主だった人物。本能寺の変の際に亡くなったため、後継問題が一気に難しくなります。
三法師さんぼうし 信忠の子。のちの織田秀信。幼い三法師をどう支えるかが、清洲会議の中心になります。
織田信雄おだ のぶかつ 信長の次男。尾張を得るなど、会議後の織田家の動きに関わります。
織田信孝おだ のぶたか 信長の三男。勝家と結びつき、会議後の反秀吉側の流れに関わります。
お市の方おいちのかた 信長の妹。会議後、柴田勝家と結ばれる流れで、勝家側の人間関係を厚くします。
羽柴秀吉はしば ひでよし 山崎の戦いで光秀を破った功績により、会議で発言力を強めた人物。ここから信長後の中心へ近づきます。
柴田勝家しばた かついえ 織田家の古参重臣。会議後、秀吉との立場の差が目立ち、賤ヶ岳へつながる対立が深まります。
丹羽長秀にわ ながひで 織田家の重臣。会議に参加した宿老の一人で、秀吉・勝家の力関係を見るうえで重要です。
池田恒興 会議に参加した重臣の一人。清洲会議では、重臣たちの合意形成を見るうえで押さえたい人物です。
賤ヶ岳の戦い 清洲会議後に残った対立が、翌年の戦いへつながります。清洲会議は賤ヶ岳の前段として重要です。

なぜ開かれた?

本能寺の変で信長だけでなく、嫡男の信忠も亡くなりました。つまり、織田家の中心が一気に二人分失われたことになります。

このままだと、織田家の領地や家臣団がまとまりません。そこで、織田家の重臣たちが清洲城に集まり、後継体制と領地配分を決める必要がありました。清洲会議は、信長の死後に織田家をどう立て直すかを決める場だったと見るとわかりやすいです。

失われたもの

当主の信長と、家督を継いでいた嫡男・信忠。政権の中心と後継者が同じ日に死んだ。

決めるべきこと

誰が織田家を継ぐか、誰が後見するか、空いた領地(近江・山城・丹波など)を誰が持つか。

清洲会議を5段で見る

1. 信長と信忠が倒れる

本能寺の変で織田家の中心が失われ、後継問題が一気に表面化します。

2. 秀吉が光秀を破る

山崎の戦いで秀吉が光秀を破り、「信長の仇を討った人」として発言力を強めます。

3. 清洲城に重臣が集まる

柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興らが集まり、織田家の体制を話し合います。

4. 三法師を中心にする

信忠の子である三法師を織田家の中心に据える体制が作られます。ただし、幼い当主を誰が支えるかが火種になります。

5. 秀吉と勝家の差が開く

会議後、秀吉の存在感が増し、勝家側との対立が深まります。ここから賤ヶ岳へ進みます。

ざっくり年表

1582
本能寺の変で織田信長と織田信忠が亡くなります。
1582
山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀あけち みつひでを破り、織田家臣団の中で発言力を強めます。
1582
清洲会議。織田家の後継体制と領地配分が話し合われます。
1582
会議後、秀吉と勝家、信孝らの対立が強まっていきます。
1583
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と柴田勝家の対立が決定的になります。

何が決まった?

家督の中心:信忠の遺児・三法師(のちの織田秀信)を織田家の後継に据え、幼い当主を宿老たちが支える体制が選ばれました。信長の次男・信雄、三男・信孝のどちらか一人がそのまま信長の地位を継いだわけではありません。

国ごとの配置:信雄は尾張、信孝は美濃を押さえ、三法師は信孝のいる岐阜城に置かれました。重臣にも所領の配分・加増が行われ、会議は家名だけでなく、実際に誰がどの地域と軍勢を持つかを組み替える場でした。

残った問題:三法師が幼いため、後見を担う信雄・信孝と、秀吉・勝家ら宿老の権限の境界は曖昧でした。決定を実行する過程で信雄と信孝も対立し、秀吉は信雄と結び、勝家は信孝を支えます。会議は決着というより、次の陣営分裂の出発点になりました。

決まったことその後
家督信忠の子・三法師(3歳)が継ぐ秀信と名乗り岐阜城主に。関ヶ原で西軍につき改易
後見信長の子・信雄と信孝が後見二人は対立し、信雄は秀吉、信孝は勝家と結ぶ
領地秀吉は近江・山城、勝家は北近江(長浜)を得る秀吉が畿内を押さえ、翌年の賤ヶ岳で勝家を破る
宿老の領地丹羽長秀は若狭に加えて近江の志賀・高島2郡、池田恒興は摂津の大坂・尼崎・兵庫丹羽は賤ヶ岳で秀吉に味方し越前・加賀で大大名に。池田は美濃へ移り、小牧・長久手で戦死

会議で決まったこと

史料で確かめられることと、後世の物語

確かめやすい骨格

三法師を後継の中心に据えたこと、信雄が尾張国主となったこと、会議後に織田家臣団が秀吉・勝家側へ分かれていったことは、同時代文書や各地の支配の変化から追えます。

慎重に見る場面

会議で誰がどんな台詞を言い、秀吉がどの瞬間に全員を圧倒したかという劇的な描写は、後世の軍記・創作の影響を受けます。会議一日だけで秀吉の天下が決まった、と単純化しないことが大切です。

秀吉の優位は、山崎での勝利、会議での合意形成、その後の信雄との連携、冬の軍事行動、翌年の賤ヶ岳という連続した過程で固まりました。

秀吉側から見る

秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を破った直後だったため、会議で強い発言力を持ちます。信長の家臣の一人だった秀吉が、信長後の政治の中心へ近づく場として見ると、清洲会議はかなり重要です。

勝家側から見る

勝家は、織田家の古参重臣です。本来なら信長家臣団の中で大きな発言力を持つ人物ですが、本能寺後の流れでは秀吉が一気に前へ出ます。清洲会議を見ると、勝家が「古参の重み」だけでは流れを取り戻せなかったことが見えます。

羽柴秀吉柴田勝家
会議前の立場中国方面軍の指揮官。山崎で光秀を討った直後筆頭家老・北陸方面軍の指揮官。光秀討伐に間に合わず
会議で得たもの三法師の擁立と、畿内の領地(近江・山城)北近江の長浜と、信孝との結びつき
翌年(1583)賤ヶ岳で勝家を破り、織田政権の主導者に賤ヶ岳で敗れ、北ノ庄城で自害

会議そのものより、会議の前に「誰が光秀を討ったか」で差がついていた。

よくある勘違い

  • 清洲会議は、ただの事務的な会議ではない。信長後の権力関係が動く場です。
  • 「誰が後継者か」だけで見ると薄くなる。幼い三法師を誰が支えるかも大事です。
  • 秀吉がいきなり天下人になったわけではない。会議を経て、少しずつ中心へ近づきます。
  • 勝家は会議で終わった人ではない。ここから賤ヶ岳までの対立を見ると厚くなります。
  • 清洲会議を飛ばすと、本能寺から賤ヶ岳への流れが急に見えてしまう。

ここだけ覚える

  • 清洲会議は、本能寺後に織田家の体制を決めた会議。
  • 中心人物は、三法師、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興。
  • 秀吉は山崎の戦い後で発言力を強めていた。
  • 勝家との対立は、会議後にさらに深まる。
  • 清洲会議は、賤ヶ岳の戦いへの前段として見るとわかりやすい。

清洲会議についてのよくある疑問

清洲会議には誰が出たのか?

柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の四人の重臣が出席し、滝川一益たきがわ かずますは関東から戻れず参加できませんでした。信長の子・信雄と信孝は当事者として会議の外に置かれました。

なぜ三法師が後継に選ばれたのか?

信忠が家督を継いでいたため、その子・三法師が正統な後継者でした。秀吉はこれを推し、勝家が推したとされる信孝は後見にとどまりました。ただし勝家が信孝を推したという話は後世の記録によるもので、会議の実際の議論は確かめにくいとされます。

清洲会議で秀吉は天下人になったのか?

なっていません。秀吉が得たのは織田家中での主導権で、織田家の当主は三法師でした。秀吉が天下人と呼べる立場になるのは、賤ヶ岳で勝家を破り、小牧・長久手で家康と和睦し、関白に就いた1585年以降です。

三法師はその後どうなったのか?

織田秀信と名乗り、秀吉のもとで岐阜城主となりました。関ヶ原の戦いで西軍につき、岐阜城を落とされて高野山に送られ、1605年に死去しています。織田家の全体像は織田氏で整理しています。

なぜ清洲城が会議の場所に選ばれたのか?

第一に、信長の本拠だった安土城が使えなかったためです。本能寺の変の直後、安土城は明智方が退去する際に焼け落ちていました(出火の経緯には諸説あります)。第二に、清洲は信長がかつて本拠とした尾張の中心で、織田家の「本国」にあたり、岐阜(信孝の拠点)や近江(秀吉・勝家の領地)のように特定の人物に偏らない場所でした。北陸から戻る勝家、畿内から来る秀吉、伊勢の信雄、美濃の信孝のどこからも集まりやすい位置にあったことも理由とみられます。

清洲城は、今の地名だとどこ?

尾張、今の愛知県清須市です。現在は模擬天守が建っています。

5問クイズ

Q1. 清洲会議が開かれるきっかけになった事件は?

A. 本能寺の変。

Q2. 清洲会議で中心に据えられた幼い人物は?

A. 三法師。のちの織田秀信です。

Q3. 山崎の戦い後、会議で発言力を強めた人物は?

A. 羽柴秀吉。

Q4. 秀吉と対立を深める古参重臣は?

A. 柴田勝家。

Q5. 清洲会議後の対立が翌年つながる戦いは?

A. 賤ヶ岳の戦い。

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参考にした資料

人物関係と会議後の流れは、掲載した公開資料を基に整理しています。領地配分や発言の細部には、史料・研究による見方の違いがあります。