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関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい

関ヶ原の戦いは、徳川家と豊臣家が正面から戦った合戦ではありません。豊臣秀吉とよとみ ひでよしの死後、幼い秀頼を誰がどの仕組みで支えるのかをめぐって、豊臣政権内部の大名が二つの連合へ分かれた全国規模の政争です。関ヶ原の一日だけでなく、会津・伏見・岐阜・上田・大津での動きと、合戦前から進んでいた交渉まで見ると、東軍が勝った理由がつながります。

1600年9月15日 徳川家康 石田三成 豊臣政権の分裂

関ヶ原の戦いとは?

  • 1600年、徳川家康の東軍が石田三成らの西軍を破った。秀吉の死後、豊臣政権の主導権をめぐる対立が戦いに発展し、美濃の関ヶ原で一日で決着した。
  • 「徳川対豊臣」ではなかった。東軍にも西軍にも豊臣家臣がおり、秀頼は戦いに関わっていない。豊臣家臣どうしの対立に家康が乗った形。
  • 決戦は関ヶ原だけではなかった。会津・北陸・九州・奥羽でも両軍が戦い、関ヶ原はその一つ。全国規模の戦いとして読む。
  • 勝敗を決めたのは内応の連鎖。小早川秀秋の寝返りが決定的だったが、毛利勢の不動、吉川広家きっかわひろいえの内通など、西軍の大兵力が動かなかったことが前提にある。
  • 戦後の大名配置が江戸時代を作った。西軍大名の改易・減封と東軍への加増で全国の地図が書き換えられ、1603年の江戸幕府へつながった。
先に結論

なぜ関ヶ原が起こり、なぜ東軍が勝ったのか

秀吉の死後、五大老・五奉行ごたいろう・ごぶぎょうを中心とする合議の均衡が崩れ、最大の大名・家康へ権力が集まりました。三成らはその動きを豊臣政権の決まりに反するとして挙兵します。しかし家康は合戦前から大名との結びつきと内応交渉を広げ、西軍は大軍を集めながら指揮と目的を一つにできませんでした。

01

秀吉死後の仕組みが揺れた

幼い秀頼に代わって政務を担う有力者の均衡が、前田利家の死と三成の失脚を経て崩れました。

02

家康が先に人を結んだ

養女を大名家へ嫁がせる婚姻などを通じて大名との関係を重ね、豊臣恩顧(秀吉に取り立てられた恩がある)の武将も味方にしました。

03

西軍の大兵力が一斉に動かなかった

毛利勢は南宮山なんぐうさんで戦わず、小早川勢は途中まで動かず、島津勢も独自の判断を取りました。名目上の兵力がそのまま戦力になりませんでした。

04

内応が戦場で連鎖した

小早川秀秋が大谷吉継隊へ攻撃し、脇坂安治わきざか やすはるらも東軍側へ転じました。均衡していた戦線が西軍の側面から崩れました。

徳川家康の論理

秀吉死後の政権を自分の手に。豊臣家臣の対立に乗り、三成を「豊臣家への反逆者」と位置づけて豊臣系大名を味方にした。

石田三成の論理

家康の専横を止め、秀頼中心の豊臣政権を守る。毛利輝元を総大将に立て、大名の数と兵力で家康を圧倒しようとした。

対立の正体

東軍と西軍は、徳川対豊臣だったのか

一般に家康方を東軍、三成らの側を西軍と呼びますが、両軍の多くは秀吉に仕えた大名でした。豊臣家当主の秀頼は大坂城にとどまり、自ら西軍を率いて関ヶ原へ出陣したわけではありません。両陣営とも「秀頼を支える豊臣政権」を名分にしながら、誰を政権の敵と見なすかが異なっていました。

東軍

家康を中心に「三成らの挙兵」を討つ

徳川譜代だけの軍ではありません。秀吉恩顧の大名が多数加わったことが、家康を全国的な連合の中心にしました。

西軍

家康の行動を批判し、政権の合議を立て直す

三成は重要な組織者ですが、最大の大名でも総大将でもありません。大坂の輝元、戦場の諸大名を一つに動かす指揮の難しさがありました。

争点は「豊臣か徳川か」だけではない。秀頼を支えるという同じ名分の下で、家康中心の政権運営を認めるか、それを合議の破壊として止めるかが対立しました。戦後に家康が処分と領地配分を主導したことで、結果として徳川の優位が決定的になります。

関ヶ原の戦いの相関図

1600年9月15日。図の右が東軍、左が西軍。西軍の大兵力のうち、松尾山と南宮山の二つが動かなかった。

関ヶ原の戦いの相関図家康の東軍と三成の西軍。西軍の総大将は毛利輝元だが大坂城から動かず、小早川秀秋は寝返り、吉川広家は毛利軍を動かさなかった。 西軍(三成方) 東軍(家康方) いしだ みつなり石田三成西軍の実質的な指導者 もうり てるもと毛利輝元西軍総大将・大坂城から動かず うきた ひでいえ宇喜多秀家西軍最大の1万7千 おおたに よしつぐ大谷吉継小早川の寝返りを受ける こばやかわ ひであき小早川秀秋松尾山・寝返り きっかわ ひろいえ吉川広家南宮山・毛利軍を動かさず とくがわ いえやす徳川家康東軍総大将・桃配山 ふくしま まさのり福島正則豊臣系・東軍先鋒 とくがわ ひでただ徳川秀忠上田で足止め・遅参 挙兵・対決 総大将に擁立 寝返って攻撃 事前に内通 内通 毛利軍を止める 三成憎しで東軍へ 正面で激突 本戦に間に合わず
この図で見てほしいのは、金色の点線です。小早川秀秋と吉川広家が家康と内通していたため、西軍は兵力の大半を使えなかった。
1598年から1600年

秀吉の死から関ヶ原までの流れ

05

伏見城攻防の間に、東軍が西へ反転する

西軍が伏見城を攻撃するなか、家康方の諸将は西へ戻る方針を固めました。この決定の場と伝わるのが小山評定で、実在や場面の細部には議論があります。伏見城はその後、8月1日に陥落します。

06

岐阜城が落ち、両軍が西美濃へ集まる

福島正則・池田輝政ら東軍の先鋒が織田秀信おだ ひでのぶの岐阜城を攻略。西軍は大垣城を拠点とし、9月14日夜から関ヶ原方面へ移動しました。翌朝、霧と雨上がりの盆地で両軍が向き合います。

全国の関ヶ原

決戦は美濃だけで起きていたのではない

「関ヶ原の戦い」は9月15日の本戦だけでなく、その前後に全国で進んだ軍事行動と政治交渉の総称として見る必要があります。別の場所で大軍を引きつけた戦いが、本戦に到着する兵数と時間を変えました。

1600年9月15日

関ヶ原本戦は、どう動いたのか

兵数は史料や集計方法で大きく異なります。国立公文書館の解説では家康方約7万、三成方約8万とされますが、南宮山など実際に戦わなかった部隊をどう数えるかでも戦力の見え方は変わります。

午前

家康が前方へ本陣を移す

家康は戦況を把握しやすい位置へ陣を進めます。一方、松尾山の小早川勢と、南宮山の毛利勢はまだ主戦闘へ加わっていませんでした。

正午前後

小早川勢が大谷隊を攻撃

小早川秀秋は西軍の位置に布陣しながら、事前に東軍と内応していました。松尾山まつおやまから大谷吉継隊へ攻め下り、脇坂安治らの転身も続きます。

午後

西軍主力が崩れ、島津勢が突破する

側面を突かれた大谷隊が崩れ、宇喜多・小西・石田隊も敗走。島津義弘隊は家康本陣近くをかすめて敵中を突破し、多くの犠牲を出しながら戦場を離れました。

関ヶ原本戦の位置関係

関ヶ原の戦いの位置関係(模式図)盆地の西と北に西軍の主力、東に東軍。南の松尾山に小早川秀秋、南東の南宮山に毛利勢が布陣し、どちらも動かないか寝返った。 中山道 伊勢街道 東軍、正面から攻める 小早川、大谷隊へ寝返り 島津の退き口(敵中突破) 笹尾山石田三成 宇喜多秀家 大谷吉継 松尾山小早川秀秋 南宮山毛利・吉川(動かず) 桃配山家康の本陣 福島正則ら東軍の先鋒 島津義弘 寝返り 西軍 東軍 ↑北
この図で見てほしいのは、南の松尾山(小早川)と南東の南宮山(毛利)の位置です。西軍の大兵力がこの二つの山で動かず、寝返ったことが勝敗を決めました。 位置関係を示す模式図で、距離や地形は正確ではありません。布陣は通説(江戸時代の軍記や明治の参謀本部の研究)によるもので、近年は開戦時の配置や小早川の寝返りの時刻に異論もあります。
勝敗を変えた判断

小早川・毛利・島津は、なぜ同じ西軍として動かなかったのか

転身

小早川秀秋こばやかわ ひであき

西軍側の松尾山に布陣しましたが、東軍との交渉は合戦前から進んでいました。戦場で突然気が変わったというより、どの時点で東軍への内応を実行するかを見極めていたと考える方が経過に合います。

独自行動

島津義弘しまづ よしひろ

島津勢は西軍に加わりましたが、軍勢は島津家の総力ではなく、義弘の指揮する限られた兵でした。本戦では積極攻勢を控え、西軍崩壊後に正面突破で退却します。

戦後は家康との交渉を重ね、島津家の本領維持へつなげました。

伝承 「問鉄砲」で小早川が決断

迷う小早川秀秋の陣に家康が鉄砲を撃ちかけ、驚いた秀秋が寝返りを決めたとする話。江戸時代の軍記で広まった。

史料 開戦前から内通していた

秀秋は戦いの前から東軍と通じており、当日の寝返りは既定路線だったとする見方が近年は有力。問鉄砲は同時代の史料では確かめられない。

勝因をまとめる

東軍の勝利を決めた五つの積み重ね

1

家康が広い大名連合をつくった

徳川譜代と秀吉恩顧の武将を同じ陣営へまとめ、家康個人の軍を超える規模にした。

2

岐阜城を早く落とし、西進路を確保した

東海道勢の素早い前進で西軍の東側防衛を崩し、家康本隊が関ヶ原へ入れる状況を作った。

3

調略が本戦前から進んでいた

黒田長政・藤堂高虎とうどう たかとららを通じて小早川・脇坂・吉川らと接触し、相手の大軍を内側から動きにくくした。

4

西軍には一元的な指揮がなかった

総大将の輝元は大坂、三成は関ヶ原、各大名はそれぞれの利害を抱え、命令と作戦を一本化しにくかった。

5

小早川の攻撃が均衡を崩した

正面で善戦していた西軍に側面から新たな敵が加わり、内応が連鎖して総崩れへ進んだ。

戦場の後

関ヶ原で、豊臣から徳川へ何が動いたのか

関ヶ原の勝利だけで江戸幕府がその日に成立したわけではありません。しかし家康が敗者の処分、領地の没収・削減、味方への加増を主導したことで、全国の大名配置を決める権力が家康へ移ったことが明確になりました。

西軍主力が敗北家康が戦後処分大名配置を再編1603年に将軍就任豊臣家との緊張が残る

東軍大名を西国の要地へ

福島正則・池田輝政・黒田長政らが大きく加増され、西国の重要な城と地域へ移りました。恩賞であると同時に、豊臣家や旧西軍領を囲む配置でもありました。

豊臣家はすぐには滅びない

秀頼は大坂城に残り、高い家格と大きな経済力を保ちました。ただし豊臣家の蔵入地や旧臣の領地は家康の戦後処分で再編され、全国政権としての主導権は失われます。

東軍(徳川方)西軍(三成方)
戦いの直後一日で勝利。三成・小西・安国寺恵瓊えけいを処刑。総大将の毛利輝元は大坂城を明け渡して帰国。
領地東軍大名に加増。家康の直轄領も拡大。改易88家、減封5家。毛利は112万石から周防・長門の36万9千石余、上杉は120万石から30万石へ。
長期的に1603年に江戸幕府を開き、大名配置を固める。豊臣家は65万石の一大名に。1615年に滅亡。

関ヶ原は「徳川対豊臣」ではなかったが、結果として豊臣家の地位を決定的に下げた。

戦後処理

西軍と東軍の大名は、その後どうなったか

関ヶ原の翌日から数か月で、全国の大名配置が書き換えられた。西軍は改易88家・減封5家、東軍は大幅な加増。ここでは主な顔ぶれだけを挙げる。

西軍についた主な大名

関ヶ原前戦後
石田三成いしだ みつなり近江佐和山19万石捕らえられ、京都六条河原で処刑(10月1日)
小西行長こにし ゆきなが肥後宇土20万石三成・安国寺恵瓊とともに処刑
宇喜多秀家うきた ひでいえ備前岡山57万石改易。薩摩に潜伏ののち八丈島へ流罪、1655年没
毛利輝元もうり てるもと安芸広島112万石周防・長門36万9千石余へ減封(長州藩)
上杉景勝うえすぎ かげかつ会津120万石出羽米沢30万石へ減封
島津義弘しまづ よしひろ薩摩・大隅ほか2年の交渉の末、領地をそのまま安堵
長宗我部盛親ちょうそかべ もりちか土佐22万石改易。大坂の陣で豊臣方につき処刑
立花宗茂たちばな むねしげ筑後柳川13万石改易。のち1620年に柳川へ復帰した唯一の例
真田昌幸さなだ まさゆき・信繁信濃上田高野山麓の九度山くどやまへ流罪(信之の助命嘆願)

改易された大名の領地が、次の表の東軍大名への加増に回った。

東軍で大きく加増された主な大名

関ヶ原前戦後
福島正則ふくしま まさのり尾張清洲24万石安芸広島50万石(毛利の旧領)
黒田長政くろだ ながまさ豊前中津18万石筑前福岡52万石
池田輝政いけだ てるまさ三河吉田15万石播磨姫路52万石(姫路城を築く)
加藤清正かとう きよまさ肥後北半19万石肥後一国52万石(小西の旧領を加える)
細川忠興ほそかわ ただおき丹後宮津12万石豊前小倉40万石
山内一豊遠江掛川6万石土佐20万石(長宗我部の旧領)
小早川秀秋こばやかわ ひであき筑前名島30万石備前岡山55万石。1602年に21歳で没し、家は断絶
前田利長まえだ としなが加賀83万石加賀・能登・越中120万石(外様最大)
伊達政宗だて まさむね陸奥仙台58万石62万石。約束された「百万石」は実現せず

加増を受けたのは豊臣恩顧の大名が多い。家康は彼らを西国の要地に置き、徳川の親藩・譜代を関東と東海に集めた。

通説を確認

関ヶ原の戦いで、よく気になること

西軍は三成の人望不足で負けた?

個人的な対立はありましたが、それだけでは不十分です。毛利家内部の方針差、各大名の領国事情、家康方の調略、総大将と戦場の距離など、連合軍の構造に原因がありました。

関ヶ原で豊臣家は滅亡した?

滅亡していません。秀頼は大坂城に残り、豊臣家は1615年まで続きます。関ヶ原は、豊臣家が全国を動かす政権から一大名家に近い立場へ変わる決定的な段階でした。

関ヶ原の間、豊臣秀頼は何をしていたのか?

大坂城にいて、戦いには関わっていません。西軍は秀頼の名で家康を討つ形をとろうとしましたが、秀頼本人(8歳)が出陣することはなく、東軍の大名も「秀頼に背く」とは考えていませんでした。戦後、家康は秀頼に会い、豊臣家は摂津・河内・和泉65万石の一大名として残されました。

島津はなぜ西軍なのに領地を保てたのか?

島津義弘が率いた兵は千人余りと少なく、西軍に深く関わった証拠が薄かったこと、当主の義久が国元で「義弘の独断」として家康と交渉したこと、薩摩まで攻め込むには大きな費用がかかることが重なりました。約2年の交渉の末、1602年に領地はそのまま安堵されました。

小早川秀秋はその後どうなったのか?

寝返りの功で備前・美作55万石を与えられ、岡山城主になりました。しかし1602年に21歳で急死し、子がなかったため小早川家は断絶しました。「大谷吉継の祟り」という話は後世の創作です。岡山には池田輝政の子・忠継が入りました。

なぜ処刑されたのは三成・行長・恵瓊の3人だけだったのか?

家康は「三成らの私戦を討った」という名分で戦ったため、罪を少数の首謀者に集約する必要がありました。責任を3人に絞って京の六条河原で処刑することで、残りの西軍大名は「騙された側」として改易・減封で処理できたのです。また、毛利や上杉のような大大名を処刑しようとすれば本国での戦争が続くため交渉で減封にとどめ、宇喜多秀家や真田父子のように有力な嘆願があった者は流罪で命を拾いました。処刑・流罪・改易の使い分けは流罪のページで整理しています。

関ヶ原は、今の地名だとどこ?

美濃、今の岐阜県関ケ原町です。中山道の宿場で、北陸や伊勢へ向かう道が分かれる交通の要地でした。

「内府ちがひの条々」の内府って誰?

内府は内大臣の唐名で、ここでは徳川家康を指します。奉行衆が、家康の行動を豊臣政権の決まりに反するものとして列挙し、糾弾した文書です。

関ヶ原から、次にたどる

開戦までの政局、戦場で決断した大名、勝利後の政権づくり。気になった方向から豊臣と徳川の転換を続けて読めます。

参考にした資料

公的機関・博物館の解説と、同時代の書状・日記を紹介する資料を優先しています。軍勢数、布陣、開戦時刻、逸話の細部は史料や研究によって異なるため、確定値として言い切っていません。