関ヶ原の戦いとは?
- 1600年、徳川家康の東軍が石田三成らの西軍を破った。秀吉の死後、豊臣政権の主導権をめぐる対立が戦いに発展し、美濃の関ヶ原で一日で決着した。
- 「徳川対豊臣」ではなかった。東軍にも西軍にも豊臣家臣がおり、秀頼は戦いに関わっていない。豊臣家臣どうしの対立に家康が乗った形。
- 決戦は関ヶ原だけではなかった。会津・北陸・九州・奥羽でも両軍が戦い、関ヶ原はその一つ。全国規模の戦いとして読む。
- 勝敗を決めたのは内応の連鎖。小早川秀秋の寝返りが決定的だったが、毛利勢の不動、吉川広家の内通など、西軍の大兵力が動かなかったことが前提にある。
- 戦後の大名配置が江戸時代を作った。西軍大名の改易・減封と東軍への加増で全国の地図が書き換えられ、1603年の江戸幕府へつながった。
なぜ関ヶ原が起こり、なぜ東軍が勝ったのか
秀吉の死後、五大老・五奉行を中心とする合議の均衡が崩れ、最大の大名・家康へ権力が集まりました。三成らはその動きを豊臣政権の決まりに反するとして挙兵します。しかし家康は合戦前から大名との結びつきと内応交渉を広げ、西軍は大軍を集めながら指揮と目的を一つにできませんでした。
秀吉死後の仕組みが揺れた
幼い秀頼に代わって政務を担う有力者の均衡が、前田利家の死と三成の失脚を経て崩れました。
家康が先に人を結んだ
養女を大名家へ嫁がせる婚姻などを通じて大名との関係を重ね、豊臣恩顧(秀吉に取り立てられた恩がある)の武将も味方にしました。
西軍の大兵力が一斉に動かなかった
毛利勢は南宮山で戦わず、小早川勢は途中まで動かず、島津勢も独自の判断を取りました。名目上の兵力がそのまま戦力になりませんでした。
内応が戦場で連鎖した
小早川秀秋が大谷吉継隊へ攻撃し、脇坂安治らも東軍側へ転じました。均衡していた戦線が西軍の側面から崩れました。
徳川家康の論理
秀吉死後の政権を自分の手に。豊臣家臣の対立に乗り、三成を「豊臣家への反逆者」と位置づけて豊臣系大名を味方にした。
石田三成の論理
家康の専横を止め、秀頼中心の豊臣政権を守る。毛利輝元を総大将に立て、大名の数と兵力で家康を圧倒しようとした。
東軍と西軍は、徳川対豊臣だったのか
一般に家康方を東軍、三成らの側を西軍と呼びますが、両軍の多くは秀吉に仕えた大名でした。豊臣家当主の秀頼は大坂城にとどまり、自ら西軍を率いて関ヶ原へ出陣したわけではありません。両陣営とも「秀頼を支える豊臣政権」を名分にしながら、誰を政権の敵と見なすかが異なっていました。
家康を中心に「三成らの挙兵」を討つ
徳川譜代だけの軍ではありません。秀吉恩顧の大名が多数加わったことが、家康を全国的な連合の中心にしました。
家康の行動を批判し、政権の合議を立て直す
三成は重要な組織者ですが、最大の大名でも総大将でもありません。大坂の輝元、戦場の諸大名を一つに動かす指揮の難しさがありました。
争点は「豊臣か徳川か」だけではない。秀頼を支えるという同じ名分の下で、家康中心の政権運営を認めるか、それを合議の破壊として止めるかが対立しました。戦後に家康が処分と領地配分を主導したことで、結果として徳川の優位が決定的になります。
関ヶ原の戦いの相関図
1600年9月15日。図の右が東軍、左が西軍。西軍の大兵力のうち、松尾山と南宮山の二つが動かなかった。
秀吉の死から関ヶ原までの流れ
三成らが挙兵し、毛利輝元を迎える
三成、大谷吉継、宇喜多秀家らが動き、毛利輝元が大坂城へ入って総大将となります。奉行衆は「内府ちがひの条々」を発し、家康の行動を糾弾しました。
決戦は美濃だけで起きていたのではない
「関ヶ原の戦い」は9月15日の本戦だけでなく、その前後に全国で進んだ軍事行動と政治交渉の総称として見る必要があります。別の場所で大軍を引きつけた戦いが、本戦に到着する兵数と時間を変えました。
関ヶ原本戦は、どう動いたのか
兵数は史料や集計方法で大きく異なります。国立公文書館の解説では家康方約7万、三成方約8万とされますが、南宮山など実際に戦わなかった部隊をどう数えるかでも戦力の見え方は変わります。
東軍が宇喜多・小西・三成隊へ攻撃
井伊直政と松平忠吉が宇喜多隊へ発砲したとされ、福島正則隊も攻撃を開始。石田隊の島左近ら、西軍の主力は激しく抵抗し、戦況はすぐには決まりませんでした。
家康が前方へ本陣を移す
家康は戦況を把握しやすい位置へ陣を進めます。一方、松尾山の小早川勢と、南宮山の毛利勢はまだ主戦闘へ加わっていませんでした。
小早川勢が大谷隊を攻撃
小早川秀秋は西軍の位置に布陣しながら、事前に東軍と内応していました。松尾山から大谷吉継隊へ攻め下り、脇坂安治らの転身も続きます。
西軍主力が崩れ、島津勢が突破する
側面を突かれた大谷隊が崩れ、宇喜多・小西・石田隊も敗走。島津義弘隊は家康本陣近くをかすめて敵中を突破し、多くの犠牲を出しながら戦場を離れました。
関ヶ原本戦の位置関係
小早川・毛利・島津は、なぜ同じ西軍として動かなかったのか
小早川秀秋
西軍側の松尾山に布陣しましたが、東軍との交渉は合戦前から進んでいました。戦場で突然気が変わったというより、どの時点で東軍への内応を実行するかを見極めていたと考える方が経過に合います。
毛利秀元・吉川広家
南宮山の毛利勢は大兵力でしたが、前方の吉川広家が家康方と領国保全を交渉し、進軍しませんでした。大坂の総大将・輝元の方針と、戦場の広家の判断が一致していなかったことを示します。
「宰相殿の空弁当」は不戦を風刺した後世の言い回しとして知られます。島津義弘
島津勢は西軍に加わりましたが、軍勢は島津家の総力ではなく、義弘の指揮する限られた兵でした。本戦では積極攻勢を控え、西軍崩壊後に正面突破で退却します。
戦後は家康との交渉を重ね、島津家の本領維持へつなげました。伝承 「問鉄砲」で小早川が決断
迷う小早川秀秋の陣に家康が鉄砲を撃ちかけ、驚いた秀秋が寝返りを決めたとする話。江戸時代の軍記で広まった。
史料 開戦前から内通していた
秀秋は戦いの前から東軍と通じており、当日の寝返りは既定路線だったとする見方が近年は有力。問鉄砲は同時代の史料では確かめられない。
東軍の勝利を決めた五つの積み重ね
家康が広い大名連合をつくった
徳川譜代と秀吉恩顧の武将を同じ陣営へまとめ、家康個人の軍を超える規模にした。
岐阜城を早く落とし、西進路を確保した
東海道勢の素早い前進で西軍の東側防衛を崩し、家康本隊が関ヶ原へ入れる状況を作った。
調略が本戦前から進んでいた
黒田長政・藤堂高虎らを通じて小早川・脇坂・吉川らと接触し、相手の大軍を内側から動きにくくした。
西軍には一元的な指揮がなかった
総大将の輝元は大坂、三成は関ヶ原、各大名はそれぞれの利害を抱え、命令と作戦を一本化しにくかった。
小早川の攻撃が均衡を崩した
正面で善戦していた西軍に側面から新たな敵が加わり、内応が連鎖して総崩れへ進んだ。
関ヶ原で、豊臣から徳川へ何が動いたのか
関ヶ原の勝利だけで江戸幕府がその日に成立したわけではありません。しかし家康が敗者の処分、領地の没収・削減、味方への加増を主導したことで、全国の大名配置を決める権力が家康へ移ったことが明確になりました。
処刑・改易・減封
三成・小西行長・安国寺恵瓊は処刑。宇喜多秀家は逃亡後に流罪となり、毛利氏は中国の大領から周防・長門へ、上杉氏は会津120万石から米沢30万石へ大幅に減らされました。
東軍大名を西国の要地へ
福島正則・池田輝政・黒田長政らが大きく加増され、西国の重要な城と地域へ移りました。恩賞であると同時に、豊臣家や旧西軍領を囲む配置でもありました。
豊臣家はすぐには滅びない
秀頼は大坂城に残り、高い家格と大きな経済力を保ちました。ただし豊臣家の蔵入地や旧臣の領地は家康の戦後処分で再編され、全国政権としての主導権は失われます。
江戸幕府から大坂の陣へ
家康は1603年に征夷大将軍となります。それでも大坂の豊臣家との二重構造は残り、1614・15年の大坂の陣まで緊張が続きました。
| 東軍(徳川方) | 西軍(三成方) | |
|---|---|---|
| 戦いの直後 | 一日で勝利。三成・小西・安国寺恵瓊を処刑。 | 総大将の毛利輝元は大坂城を明け渡して帰国。 |
| 領地 | 東軍大名に加増。家康の直轄領も拡大。 | 改易88家、減封5家。毛利は112万石から周防・長門の36万9千石余、上杉は120万石から30万石へ。 |
| 長期的に | 1603年に江戸幕府を開き、大名配置を固める。 | 豊臣家は65万石の一大名に。1615年に滅亡。 |
関ヶ原は「徳川対豊臣」ではなかったが、結果として豊臣家の地位を決定的に下げた。
西軍と東軍の大名は、その後どうなったか
関ヶ原の翌日から数か月で、全国の大名配置が書き換えられた。西軍は改易88家・減封5家、東軍は大幅な加増。ここでは主な顔ぶれだけを挙げる。
西軍についた主な大名
| 関ヶ原前 | 戦後 | |
|---|---|---|
| 石田三成 | 近江佐和山19万石 | 捕らえられ、京都六条河原で処刑(10月1日) |
| 小西行長 | 肥後宇土20万石 | 三成・安国寺恵瓊とともに処刑 |
| 宇喜多秀家 | 備前岡山57万石 | 改易。薩摩に潜伏ののち八丈島へ流罪、1655年没 |
| 毛利輝元 | 安芸広島112万石 | 周防・長門36万9千石余へ減封(長州藩) |
| 上杉景勝 | 会津120万石 | 出羽米沢30万石へ減封 |
| 島津義弘 | 薩摩・大隅ほか | 2年の交渉の末、領地をそのまま安堵 |
| 長宗我部盛親 | 土佐22万石 | 改易。大坂の陣で豊臣方につき処刑 |
| 立花宗茂 | 筑後柳川13万石 | 改易。のち1620年に柳川へ復帰した唯一の例 |
| 真田昌幸・信繁 | 信濃上田 | 高野山麓の九度山へ流罪(信之の助命嘆願) |
改易された大名の領地が、次の表の東軍大名への加増に回った。
東軍で大きく加増された主な大名
| 関ヶ原前 | 戦後 | |
|---|---|---|
| 福島正則 | 尾張清洲24万石 | 安芸広島50万石(毛利の旧領) |
| 黒田長政 | 豊前中津18万石 | 筑前福岡52万石 |
| 池田輝政 | 三河吉田15万石 | 播磨姫路52万石(姫路城を築く) |
| 加藤清正 | 肥後北半19万石 | 肥後一国52万石(小西の旧領を加える) |
| 細川忠興 | 丹後宮津12万石 | 豊前小倉40万石 |
| 山内一豊 | 遠江掛川6万石 | 土佐20万石(長宗我部の旧領) |
| 小早川秀秋 | 筑前名島30万石 | 備前岡山55万石。1602年に21歳で没し、家は断絶 |
| 前田利長 | 加賀83万石 | 加賀・能登・越中120万石(外様最大) |
| 伊達政宗 | 陸奥仙台58万石 | 62万石。約束された「百万石」は実現せず |
加増を受けたのは豊臣恩顧の大名が多い。家康は彼らを西国の要地に置き、徳川の親藩・譜代を関東と東海に集めた。
関ヶ原の戦いで、よく気になること
西軍は三成の人望不足で負けた?
個人的な対立はありましたが、それだけでは不十分です。毛利家内部の方針差、各大名の領国事情、家康方の調略、総大将と戦場の距離など、連合軍の構造に原因がありました。
関ヶ原で豊臣家は滅亡した?
滅亡していません。秀頼は大坂城に残り、豊臣家は1615年まで続きます。関ヶ原は、豊臣家が全国を動かす政権から一大名家に近い立場へ変わる決定的な段階でした。
関ヶ原の間、豊臣秀頼は何をしていたのか?
大坂城にいて、戦いには関わっていません。西軍は秀頼の名で家康を討つ形をとろうとしましたが、秀頼本人(8歳)が出陣することはなく、東軍の大名も「秀頼に背く」とは考えていませんでした。戦後、家康は秀頼に会い、豊臣家は摂津・河内・和泉65万石の一大名として残されました。
島津はなぜ西軍なのに領地を保てたのか?
島津義弘が率いた兵は千人余りと少なく、西軍に深く関わった証拠が薄かったこと、当主の義久が国元で「義弘の独断」として家康と交渉したこと、薩摩まで攻め込むには大きな費用がかかることが重なりました。約2年の交渉の末、1602年に領地はそのまま安堵されました。
小早川秀秋はその後どうなったのか?
寝返りの功で備前・美作55万石を与えられ、岡山城主になりました。しかし1602年に21歳で急死し、子がなかったため小早川家は断絶しました。「大谷吉継の祟り」という話は後世の創作です。岡山には池田輝政の子・忠継が入りました。
なぜ処刑されたのは三成・行長・恵瓊の3人だけだったのか?
家康は「三成らの私戦を討った」という名分で戦ったため、罪を少数の首謀者に集約する必要がありました。責任を3人に絞って京の六条河原で処刑することで、残りの西軍大名は「騙された側」として改易・減封で処理できたのです。また、毛利や上杉のような大大名を処刑しようとすれば本国での戦争が続くため交渉で減封にとどめ、宇喜多秀家や真田父子のように有力な嘆願があった者は流罪で命を拾いました。処刑・流罪・改易の使い分けは流罪のページで整理しています。
関ヶ原は、今の地名だとどこ?
美濃、今の岐阜県関ケ原町です。中山道の宿場で、北陸や伊勢へ向かう道が分かれる交通の要地でした。
「内府ちがひの条々」の内府って誰?
内府は内大臣の唐名で、ここでは徳川家康を指します。奉行衆が、家康の行動を豊臣政権の決まりに反するものとして列挙し、糾弾した文書です。
参考にした資料
公的機関・博物館の解説と、同時代の書状・日記を紹介する資料を優先しています。軍勢数、布陣、開戦時刻、逸話の細部は史料や研究によって異なるため、確定値として言い切っていません。
- 国立公文書館「関ヶ原の戦い」
- 国立公文書館「時慶卿記と関ヶ原の戦い」
- 岐阜関ケ原古戦場記念館「黒田長政コース・主戦場」
- 岐阜関ケ原古戦場記念館「小早川秀秋コース」
- 岐阜関ケ原古戦場記念館「島津義弘コース」
- 山口県立山口図書館「萩開府400年-藩政期の山口県-」(関ヶ原に敗れた毛利輝元が旧領を没収されて周防・長門の二か国へ移封され、1604年に萩城へ入ったこと)
- 山口県文書館「所蔵文書検索」毛利家文庫の解説(輝元が1591年に中国地方8か国112万石を領有していたこと、関ヶ原の結果、家康によって周防・長門2か国に減封され、萩藩の公称高が36万9千石余だったこと)
- レファレンス協同データベース(徳島市立図書館)「徳川家康による蜂須賀家への婚姻政策について知りたい」(関ヶ原の戦いの前に、家康が養女の万姫を蜂須賀至鎮に嫁がせた婚姻政策を記した資料の紹介)
- 福岡市博物館「没後400年 黒田長政」(1600年6月に長政が家康の養女栄姫を娶ったこと、合戦前に吉川広家に通じて毛利軍の動きを封じ、小早川秀秋に東軍への寝返りを促したこと)
- 山口県「おもしろ山口学」岩国の城下図と吉川氏(吉川広家が東軍に内通して家康に毛利氏の領地保全を約束させ、当日の毛利軍の参戦を阻止したとされること、戦後に毛利氏の領地が大きく削減されたこと)
- 山口県文書館研究紀要 和田「山口県文書館所蔵の中世文書について」(毛利家・吉川家関係を含む所蔵中世文書の一覧)