用語ページ / 敗者への処分

流罪るざいとは

流罪るざいは、罪人を遠い土地や島へ送って閉じ込める刑です。古代からある刑罰ですが、戦国末期から江戸初期には、敗れた大名や武将を殺さずに遠ざける処分として使われました。関ヶ原で西軍についた宇喜多秀家は八丈島へ、真田昌幸・信繁父子は高野山麓の九度山へ、北条氏直は高野山へ送られています。処刑と違って命は残るため、のちに赦されて復帰する例もありました。

宇喜多秀家=八丈島 真田父子=九度山 北条氏直=高野山 処刑より一段軽い処分

要点

  • 流罪は「殺さずに消す」処分。領地と身分を奪ったうえで遠方に送り、政治の舞台から退ける。首謀者は処刑、それ以外の有力者は流罪、という使い分けがあった。
  • 送られる先は島か、山か。江戸時代の流罪の代表は八丈島・三宅島などの伊豆諸島、隠岐、佐渡。戦国末期には高野山やその麓の九度山が、武士の「蟄居」の場として使われた。
  • 宇喜多秀家は最初の八丈島流人。関ヶ原後に薩摩に潜伏し、1606年に八丈島へ送られて約50年を島で過ごした。赦免は明治になってから、子孫に対して行われた。
  • 真田昌幸は九度山で死に、信繁は脱出した。父子は九度山で10年以上を過ごし、昌幸は1611年に没。信繁は1614年に九度山を出て大坂城に入った。
  • 赦されて戻る例もあった。北条氏直は高野山から1年で赦免され、大名への復帰が見えていた矢先に病死した。流罪は「終わり」ではなく「保留」の意味も持った。
実例

戦国末期に流罪になった主な人物

理由流された先その後
北条氏直ほうじょう うじなお小田原征伐で降伏(1590)高野山翌年赦免。大名復帰を前に病死
宇喜多秀家うきた ひでいえ関ヶ原で西軍の主力(1600)八丈島(1606年〜)島で約50年。1655年没。赦免は明治に子孫へ
真田昌幸・信繁関ヶ原で西軍(1600)高野山→九度山昌幸は1611年に没。信繁は1614年に脱出し大坂城へ
織田秀信おだ ひでのぶ関ヶ原で西軍・岐阜城落城(1600)高野山1605年に没。信長の直系はここで絶える
豊臣秀次とよとみ ひでつぐ秀吉に謀反を疑われる(1595)高野山送られた直後に切腹。流罪から処刑へ変わった例

高野山は女人禁制の山で、武士が出家して身を置く「蟄居」の場として使われた。正式な流罪というより、幕府や天下人の命で山に入る形が多い。

比較

処刑・流罪・預かり・改易はどう違うか

身分・領地戦国末期の例
処刑失う失う石田三成いしだ みつなり小西行長こにし ゆきなが安国寺恵瓊あんこくじ えけい(関ヶ原の首謀者)
流罪残る失う宇喜多秀家・真田昌幸(有力だが首謀者ではない)
預かり残る失う(他の大名に身柄を預ける)長宗我部盛親ちょうそかべ もりちか(京都で浪人)、北条氏規の一族
改易のみ残る失う(身柄は自由)立花宗茂たちばな むねしげ(浪人ののち柳川に復帰)
どう読むか

流罪から、戦国の終わりを読む

  • 「殺さない」という選択肢が増えた。戦国では敗者は討たれるか自害するのが普通だった。秀吉・家康の時代には、有力者を殺さずに遠ざける処分が増え、秩序を法と手続きで保つ方向へ変わっていった。
  • 流罪は政治的な判断で決まった。秀家は島津氏の嘆願と前田家(妻・豪姫の実家)の働きかけで死を免れた。真田父子は信之の嘆願で助かった。誰が口添えできるかが、処刑か流罪かを分けた。
  • 流された先が、次の舞台になることもあった。信繁は九度山から大坂城へ入り、最後の戦いで名を残した。流罪は敗者の物語を終わらせず、続きを生むこともあった。

改易との関係は改易、秀家の流罪は宇喜多秀家うきた ひでいえで整理しています。

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参考にした資料