昌幸をどう見る?
ざっくり年表
なぜ、真田家を二つに分けた?
関ヶ原の局面で、昌幸と信繁は西軍側、信之は徳川方につきました。家族が敵味方に分かれたように見えますが、戦国末期の大名にとっては、家と領地を残すための選択が重なった結果でもあります。
結果として昌幸・信繁は敗れ、信之は徳川方のもとで真田家を引き継ぎます。だから真田家は「信繁の悲劇」だけでも「信之の成功」だけでもなく、両方を並べて初めて見えてきます。
昌幸から信繁へ、何が渡った?
武田滅亡後、主君を替えた理由
1582年に武田氏が滅び、続いて本能寺の変が起きると、甲斐・信濃・上野は織田・徳川・北条・上杉が争う空白地帯になりました。天正壬午の乱の中で昌幸は、上杉・北条・徳川との関係を組み替えます。これを「裏切りの連続」とだけ見ると、真田領が大勢力の境界にあり、沼田と小県を守るために毎回選択を迫られた事情が抜け落ちます。
二度の上田合戦と、家族が分かれた1600年
第一次上田合戦では、昌幸が地形と城下を利用して徳川軍を退けました。1600年の第二次上田合戦では、昌幸と次男・信繁が西軍側として徳川秀忠軍を迎えます。一方、長男・信之は徳川方に残りました。結果として真田家は信之の系統が存続しますが、最初から「どちらが勝っても家を残す作戦」だったと断定できる史料はありません。婚姻関係、主従関係、各人の立場が違ったことを軸に考えます。
秀忠軍が関ヶ原本戦に間に合わなかった理由を、上田で昌幸に足止めされた一事だけにまとめるのも単純化です。上田で日数を使ったことに加え、行軍計画や命令伝達など複数の条件がありました。西軍敗北後、昌幸と信繁は九度山へ配流され、昌幸は1611年に同地で没します。大坂の陣で名を残す信繁の物語は、昌幸の死後に続きます。
昌幸を読むときに気をつけたいこと
- 「表裏比興の者」は秀吉の言葉として伝わるが、悪口とは限らない。武田・織田・北条・徳川・上杉と主を変えた昌幸を評した言葉で、「食えない奴」「油断ならない策士」のような意味。小大名が生き残るための行動と読むのが適切。
- 第二次上田合戦で「秀忠を足止めして関ヶ原に遅らせた」は単純化。上田城で秀忠軍を数日引きつけたことは確かだが、秀忠の遅参には家康からの出陣命令の遅れと悪天候も関わっている。
- 犬伏の別れは、内容が史料で確かめられない。1600年、昌幸・信繁と信之が下野の犬伏で東西に分かれることを決めたとされるが、話し合いの内容は後世の記録による。
- 九度山での暮らしは、記録が少ない。1611年に九度山で死去するまでの生活は、信之に送った書状などから一部うかがえるが、「真田紐を売って生計を立てた」といった話は伝承。
5問クイズ
Q1. 昌幸の次男で、幸村として知られる人物は?
A. 真田信繁です。
Q2. 昌幸が築城を始めた城は?
A. 上田城です。
Q3. 関ヶ原で昌幸と信繁がついた側は?
A. 西軍側です。
Q4. 徳川方についた昌幸の長男は?
A. 真田信之です。
Q5. 関ヶ原後、昌幸と信繁が配流された地は?
A. 九度山です。
