人物ページ / 真田家の選択をつくった父

真田昌幸

真田昌幸は、真田信之・信繁の父で、上田城を築いた真田家の当主です。武田家の滅亡後、上杉・北条・徳川・豊臣という大きな勢力の間で領地を守り、二度にわたって上田城で徳川軍を退けました。関ヶ原では次男・信繁と西軍側につき、長男・信之は徳川方へ。昌幸を見ると、真田家がなぜ分かれ、信繁がなぜ大坂城へ入ることになったのかが見えてきます。

1547 - 1611上田城を築く信之・信繁の父九度山へ
真田昌幸の肖像画
真田昌幸像 / Wikimedia Commons / 個人所蔵 / Public Domain

真田昌幸を理解する要点

昌幸は、周囲の大勢力に飲み込まれず真田家を残そうとした当主です。上田城を築き、1585年と1600年に徳川軍を退けます。関ヶ原後は信繁と九度山へ配流されますが、信之が徳川方についたことで真田家そのものは続きます。

  • 立場:信繁の父
  • 注目点:上田城と二度の対徳川戦
  • 次につながる:関ヶ原で分かれる真田家
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昌幸をどう見る?

武田家の旧臣

昌幸は武田家に仕えました。武田滅亡後に真田家が独立して生き残るための出発点になります。

上田城の築城者

1583年、徳川の援助を得て上田城の築城を始めます。城と城下町を整えることが、昌幸の政治と防御の土台になります。

二人の息子の父

長男・信之は徳川方、次男・信繁は昌幸と西軍側につきます。真田家の分裂は、滅亡を避ける結果にもなります。

九度山の父子

関ヶ原後、昌幸と信繁は九度山へ配流されます。昌幸は1611年にそこで亡くなり、信繁だけが大坂の陣へ向かいます。

ざっくり年表

1547
真田幸隆の子として生まれます。
1582
武田家が滅亡。真田家は旧武田領をめぐる争いの中で、上杉・北条・徳川との関係を変えながら生き残りを図ります。
1583
上田城の築城に着手します。
1585
第一次上田合戦。徳川軍を退けます。
1600
関ヶ原で昌幸・信繁は西軍側、信之は徳川方へ。昌幸・信繁は上田城で秀忠軍を足止めします。
1601
関ヶ原後、昌幸・信繁は九度山へ配流されます。
1611
九度山で亡くなります。

なぜ、真田家を二つに分けた?

関ヶ原の局面で、昌幸と信繁は西軍側、信之は徳川方につきました。家族が敵味方に分かれたように見えますが、戦国末期の大名にとっては、家と領地を残すための選択が重なった結果でもあります。

結果として昌幸・信繁は敗れ、信之は徳川方のもとで真田家を引き継ぎます。だから真田家は「信繁の悲劇」だけでも「信之の成功」だけでもなく、両方を並べて初めて見えてきます。

昌幸から信繁へ、何が渡った?

城を使う発想

上田城で二度徳川軍を退けた経験は、信繁が大坂城の外に真田丸を築く流れにつながります。

大勢力と向き合う経験

昌幸は、真田より大きい勢力の間で判断を重ねました。信繁の大坂入城も、父の時代から続く真田家の延長で見られます。

九度山での時間

昌幸とともに配流された信繁は、父の死後も九度山に残りました。大坂の陣は、その長い空白の後に起きます。

逸話に寄せすぎない

昌幸は「策略家」として語られがちです。このページでは、印象的な逸話より、上田城・関ヶ原・親子関係という確かめやすい軸を先に置きます。

武田滅亡後、主君を替えた理由

1582年に武田氏が滅び、続いて本能寺の変が起きると、甲斐・信濃・上野は織田・徳川・北条・上杉が争う空白地帯になりました。天正壬午の乱の中で昌幸は、上杉・北条・徳川との関係を組み替えます。これを「裏切りの連続」とだけ見ると、真田領が大勢力の境界にあり、沼田と小県を守るために毎回選択を迫られた事情が抜け落ちます。

武田氏

昌幸が若い頃に仕えた主家です。兄たちの戦死後に真田家を継ぎ、武田の統治と城づくりを学んだ経験が後の基盤になります。

徳川家康

上田城築城を支援した一方、沼田領を北条へ渡すよう求めたことで対立し、1585年の第一次上田合戦へ進みます。

上杉景勝・北条氏

信濃と上野を挟む二大勢力です。昌幸は人質や同盟を通じて安全を確保し、最終的に豊臣政権の裁定へ入ります。

豊臣秀吉

昌幸を大名として位置づけ、大勢力間の領地争いを全国政権の裁定に組み込みました。

二度の上田合戦と、家族が分かれた1600年

第一次上田合戦では、昌幸が地形と城下を利用して徳川軍を退けました。1600年の第二次上田合戦では、昌幸と次男・信繁が西軍側として徳川秀忠軍を迎えます。一方、長男・信之は徳川方に残りました。結果として真田家は信之の系統が存続しますが、最初から「どちらが勝っても家を残す作戦」だったと断定できる史料はありません。婚姻関係、主従関係、各人の立場が違ったことを軸に考えます。

秀忠軍が関ヶ原本戦に間に合わなかった理由を、上田で昌幸に足止めされた一事だけにまとめるのも単純化です。上田で日数を使ったことに加え、行軍計画や命令伝達など複数の条件がありました。西軍敗北後、昌幸と信繁は九度山へ配流され、昌幸は1611年に同地で没します。大坂の陣で名を残す信繁の物語は、昌幸の死後に続きます。

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5問クイズ

Q1. 昌幸の次男で、幸村として知られる人物は?

A. 真田信繁です。

Q2. 昌幸が築城を始めた城は?

A. 上田城です。

Q3. 関ヶ原で昌幸と信繁がついた側は?

A. 西軍側です。

Q4. 徳川方についた昌幸の長男は?

A. 真田信之です。

Q5. 関ヶ原後、昌幸と信繁が配流された地は?

A. 九度山です。

参考にした資料