要点
- 大坂城の「唯一の弱点」に建てた砦。大坂城は北と東を川、西を海と湿地に守られ、攻め口は台地続きの南側しかなかった。真田丸はその南側の前面に築かれた出城で、敵の攻撃をここに引き受ける役割を持った。
- 「城の外」に出ているのが肝。堀の内側で守るのではなく、城の外へ突き出して構え、攻め手を側面から撃てるようにした。攻める側は大坂城に取り付く前に、まず真田丸と戦わされることになる。
- 真田丸の戦いは冬の陣最大の激戦。1614年12月4日、前田勢など徳川方の軍が真田丸に殺到し、鉄砲の一斉射撃で大損害を受けて退いた。徳川方の死傷者は数千に及んだと伝わる。
- 戦いには勝ち、和議で消えた。冬の陣の講和条件で大坂城の堀の埋め立てとともに真田丸も取り壊され、翌年の夏の陣で大坂城は裸城のまま戦うことになった。
- 跡地は今も歩ける。大阪市天王寺区の大阪明星学園のあたりが真田丸の地とされ、区が顕彰碑(監修・大阪城天守閣)とゆかりの地を結ぶロードサインを設置している。隣接して心眼寺、近くに「真田の抜け穴」伝説の三光神社がある。
築城から取り壊しまで
- 011614年10月、信繁が大坂城に入る
九度山を出た信繁は浪人衆の一人として大坂城に入り、城の南側の守りを受け持った。籠城策が決まる中で、南側だけ城の外に砦を築くことを進めた。
- 0211月、真田丸を築く
城南の台地の前面に、堀と柵をめぐらせた出城を短期間で構築。三方を空堀で囲み、鉄砲を並べる構えにした。
- 0312月4日、真田丸の戦い
徳川方の前田勢らが真田丸へ攻めかかった。信繁は引きつけてから鉄砲を一斉に浴びせ、寄せ手は折り重なって倒れたと伝わる。徳川方は大損害を出して撤退した。
- 0412月、和議へ
力攻めをあきらめた家康は大筒による砲撃と和睦交渉に切り替えた。講和が成立すると、大坂城の堀の埋め立てが始まる。
- 05真田丸、取り壊される
和議の取り決めで真田丸は破却された。翌1615年の夏の陣で、信繁は守る砦のないまま野戦に出て、天王寺・岡山の戦いで家康本陣に迫った末に討死する。
伝説と、確かめられること
伝承 語られてきた話
三光神社には、真田丸から大坂城まで通じていたという「真田の抜け穴」が伝わる。信繁の神出鬼没ぶりを伝える人気の伝説だが、実際に城まで通じていた通路と確かめられたわけではない。真田丸の形も、後世は半円形の「丸」として描かれることが多かった。
史料 確かめられること
冬の陣の陣立てを描いた絵図や屏風(「大坂冬の陣図屏風」など)に真田丸は描かれており、大坂城の南に突き出た出城だったこと、12月4日の戦いで徳川方が大損害を受けたことは複数の記録で確かめられる。近年は絵図の研究から、単純な半円ではなく独立した城砦に近い構造だったとする見方も出ている。
- 場所は「上町台地の続き」で考えると分かる。大坂城は上町台地の北端にあり、南へ台地が続く。水に守られない南側こそが攻め口で、家康も主力を南に置いた。真田丸は敵の主攻を正面から受ける位置に、わざわざ建てられている。
- 信繁は「守りながら攻めた」。出城は撃って出るための足場でもある。挑発して引きつけ、射撃で仕留める戦い方は、上田城で徳川軍を二度退けた父・昌幸の戦い方の継承だった。
真田丸から、大坂の陣を読む
- 冬の陣で唯一、豊臣方がはっきり勝った場所。他の戦線が押され、あるいはにらみ合いに終わる中で、真田丸だけが徳川方に明確な損害を与えた。「大坂城は落とせない」と家康に思わせたことが、砲撃と和議への転換につながった。
- 和議の本当の標的だったともいえる。講和条件は堀の埋め立てと真田丸などの破却。戦いで抜けなかった守りを、交渉で取り除いた形になっている。夏の陣の結末は、真田丸が消えた時点で半分決まっていた。
- 「幸村」人気の出発点。信繁の名が軍記や講談で「日本一の兵」として語られるようになる出発点がこの戦い。地元の天王寺区が顕彰碑やロードサインを整備しているように、真田丸は今も大阪の歴史資産であり続けている。