事件・合戦ページ / 関ヶ原と同時に起きた、上田城の戦い

第二次上田合戦だいにじうえだかっせん

第二次上田合戦は、1600年、関ヶ原の戦いの前後に真田昌幸・信繁父子と徳川秀忠軍が上田城で戦った出来事です。父子は西軍側、長男・信之は徳川方につくという真田家の分裂の中で起きました。秀忠軍は関ヶ原本戦へ向かう途中で足止めされます。上田城の戦いを見ると、「関ヶ原は一つの戦場だけで決まったのではない」と分かります。

1600年昌幸・信繁対秀忠軍上田城関ヶ原と同時進行
上田城南櫓
上田城南櫓 / Wikimedia Commons / Suikotei / CC BY-SA 4.0

第二次上田合戦とは?

  • 1600年、真田昌幸・信繁が徳川秀忠軍を上田城で足止めした。中山道を西へ向かう秀忠軍が上田城を攻め、落とせないまま日数を費やした。
  • 真田家は東西に分かれた。昌幸・信繁は西軍、長男の信之は東軍についた。家を残すための分裂だったとされる。
  • 秀忠は関ヶ原に遅れた。上田での足止めと悪天候で、秀忠軍は本戦に間に合わなかった。
  • 遅参の理由は上田だけではない。家康からの出陣命令が遅れて届いたことも、近年は重視されている。
  • 昌幸・信繁は九度山へ流された。戦いには勝ったが西軍の敗北で、信之の助命嘆願により死罪を免れ、高野山麓の九度山くどやまに送られた。

何が起きた?

真田家が分かれる

昌幸と信繁は西軍側、兄・信之は徳川方につきます。

秀忠軍が上田へ

徳川秀忠は大軍を率いて中山道を西へ進み、上田城の昌幸・信繁父子と対峙します。

上田城が耐える

上田城は地形・堀・土塁を使った防御を持ち、父子はここで秀忠軍を足止めしました。

本戦は関ヶ原

上田での攻防と並行して、関ヶ原で大きな決戦が進みます。上田城だけでは時代の勝敗は決まりません。

なぜ真田家は東西に分かれたのか

昌幸は西軍側へ

石田三成いしだ みつなりらが挙兵すると、昌幸は徳川方から離れて上田へ戻り、西軍側として領地を守る道を選びます。

信繁は父と行動

次男・信繁は昌幸とともに上田城へ入りました。大坂の陣で有名になる前に、上田で徳川軍と対峙しています。

信之は徳川方へ

長男・信之は徳川家臣・本多忠勝ほんだ ただかつの娘を妻とし、徳川方に残ります。一家の全員が同じ陣営で敗れる危険を避ける結果にもなりました。

家と領地を残す選択

親子の情だけでなく、豊臣・徳川双方との関係や領地の維持が絡む決断です。関ヶ原後は信之が真田家の領地を受け継ぎます。

上田と関ヶ原を同じ時間軸で見る

1600年夏
関ヶ原へ向かう情勢の中で、真田家は昌幸・信繁と信之で陣営が分かれます。
1600年秋
昌幸・信繁父子が上田城に籠城。秀忠軍が攻め寄せます。
上田の攻防
上田市は、昌幸・信繁父子が秀忠率いる3万8千人の部隊を足止めしたと記します。
9月15日
関ヶ原の戦いで徳川方が勝利します。
1601
昌幸・信繁は九度山(高野山のふもとの地)へ配流。上田城は破城され、信之が領地を引き継ぎます。

「秀忠が関ヶ原に遅れた」だけでは足りない

第二次上田合戦は、秀忠軍が関ヶ原本戦に間に合わなかった話として有名です。ただ、ここだけを逸話にすると、昌幸と信繁が何を守ろうとしたか、なぜ兄と別の側についたかが見えにくくなります。

上田城での抵抗は秀忠軍の進軍を遅らせた重要な要因です。一方、本戦の日程、秀忠へ届いた命令、上田からの撤収と中山道の行軍を含む全体の時間も考える必要があります。「昌幸の策略だけで秀忠を遅参させた」と一つの原因に絞りすぎない方が、東山道軍の難しさが見えます。

上田城の戦いは真田家が領地と家を守るために選んだ行動であり、同時に全国規模の政権交代の一部でした。城は落ちなくても、関ヶ原の結果によって真田父子の処遇は決まります。

勝ったのに、なぜ九度山へ?

戦場では耐える

上田城は落ちず、秀忠軍を足止めします。局地的には真田側の成果でした。

関ヶ原では西軍が敗れる

しかし同じ日に進んだ関ヶ原本戦で、西軍側は敗れます。上田城の勝敗だけでは全体を覆せません。

兄・信之が家を継ぐ

徳川方にいた信之が真田家を引き継ぎます。昌幸・信繁と信之の分かれ方は、家を残す結果にもなりました。

信繁の次の章へ

九度山での長い時間の後、信繁は大坂城に入り真田丸を築きます。第二次上田合戦は大坂の陣の前日譚です。

第二次上田合戦についてのよくある疑問

真田家はなぜ東西に分かれたのか?

昌幸と信繁は三成方、信之は家康方につきました。信之の妻は本多忠勝の娘、信繁の妻は大谷吉継おおたに よしつぐの娘で、それぞれの縁が影響したとみられます。どちらが勝っても家が残るよう分けたとする見方が有名ですが、話し合いの内容は史料で確かめられません。

秀忠が関ヶ原に遅れたのは真田のせいか?

上田城で数日を費やしたことは遅参の一因ですが、家康からの出陣命令が秀忠に届くのが遅れたこと、中山道の悪天候などが重なっていました。「真田が秀忠を足止めして関ヶ原に遅らせた」は単純化で、近年はそう言い切らない見方が一般的です。

第一次上田合戦とは何か?

1585年、徳川家康とくがわ いえやすが真田昌幸の上田城を攻めて敗れた戦いです。天正壬午の乱てんしょうじんごのらんの和睦で沼田を北条へ渡す条件に昌幸が反発し、上杉氏を頼って家康から離れたことが原因でした。真田昌幸が徳川軍を二度退けたことから、「真田は徳川に強い」という印象が生まれました。

昌幸と信繁はなぜ死罪にならなかったのか?

東軍についた信之と、その舅の本多忠勝が家康に助命を願い、昌幸・信繁は高野山麓の九度山に流されました。昌幸は1611年に九度山で死去し、信繁は1614年に大坂城に入って大坂の陣を戦います。

5問クイズ

Q1. 第二次上田合戦が起きた年は?

A. 1600年です。

Q2. 上田城に籠城した父子は?

A. 真田昌幸と真田信繁です。

Q3. 上田城を攻めた徳川方の大将は?

A. 徳川秀忠です。

Q4. 同時期に大きな決戦があった場所は?

A. 関ヶ原です。

Q5. 関ヶ原後、昌幸・信繁が配流された地は?

A. 九度山です。

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参考にした資料