第二次上田合戦とは?
- 1600年、真田昌幸・信繁が徳川秀忠軍を上田城で足止めした。中山道を西へ向かう秀忠軍が上田城を攻め、落とせないまま日数を費やした。
- 真田家は東西に分かれた。昌幸・信繁は西軍、長男の信之は東軍についた。家を残すための分裂だったとされる。
- 秀忠は関ヶ原に遅れた。上田での足止めと悪天候で、秀忠軍は本戦に間に合わなかった。
- 遅参の理由は上田だけではない。家康からの出陣命令が遅れて届いたことも、近年は重視されている。
- 昌幸・信繁は九度山へ流された。戦いには勝ったが西軍の敗北で、信之の助命嘆願により死罪を免れ、高野山麓の九度山に送られた。
何が起きた?
なぜ真田家は東西に分かれたのか
上田と関ヶ原を同じ時間軸で見る
「秀忠が関ヶ原に遅れた」だけでは足りない
第二次上田合戦は、秀忠軍が関ヶ原本戦に間に合わなかった話として有名です。ただ、ここだけを逸話にすると、昌幸と信繁が何を守ろうとしたか、なぜ兄と別の側についたかが見えにくくなります。
上田城での抵抗は秀忠軍の進軍を遅らせた重要な要因です。一方、本戦の日程、秀忠へ届いた命令、上田からの撤収と中山道の行軍を含む全体の時間も考える必要があります。「昌幸の策略だけで秀忠を遅参させた」と一つの原因に絞りすぎない方が、東山道軍の難しさが見えます。
上田城の戦いは真田家が領地と家を守るために選んだ行動であり、同時に全国規模の政権交代の一部でした。城は落ちなくても、関ヶ原の結果によって真田父子の処遇は決まります。
勝ったのに、なぜ九度山へ?
第二次上田合戦についてのよくある疑問
真田家はなぜ東西に分かれたのか?
昌幸と信繁は三成方、信之は家康方につきました。信之の妻は本多忠勝の娘、信繁の妻は大谷吉継の娘で、それぞれの縁が影響したとみられます。どちらが勝っても家が残るよう分けたとする見方が有名ですが、話し合いの内容は史料で確かめられません。
秀忠が関ヶ原に遅れたのは真田のせいか?
上田城で数日を費やしたことは遅参の一因ですが、家康からの出陣命令が秀忠に届くのが遅れたこと、中山道の悪天候などが重なっていました。「真田が秀忠を足止めして関ヶ原に遅らせた」は単純化で、近年はそう言い切らない見方が一般的です。
第一次上田合戦とは何か?
1585年、徳川家康が真田昌幸の上田城を攻めて敗れた戦いです。天正壬午の乱の和睦で沼田を北条へ渡す条件に昌幸が反発し、上杉氏を頼って家康から離れたことが原因でした。真田昌幸が徳川軍を二度退けたことから、「真田は徳川に強い」という印象が生まれました。
昌幸と信繁はなぜ死罪にならなかったのか?
東軍についた信之と、その舅の本多忠勝が家康に助命を願い、昌幸・信繁は高野山麓の九度山に流されました。昌幸は1611年に九度山で死去し、信繁は1614年に大坂城に入って大坂の陣を戦います。
5問クイズ
Q1. 第二次上田合戦が起きた年は?
A. 1600年です。
Q2. 上田城に籠城した父子は?
A. 真田昌幸と真田信繁です。
Q3. 上田城を攻めた徳川方の大将は?
A. 徳川秀忠です。
Q4. 同時期に大きな決戦があった場所は?
A. 関ヶ原です。
Q5. 関ヶ原後、昌幸・信繁が配流された地は?
A. 九度山です。
