場所ページ / 真田家が徳川軍を二度退けた城

上田城

上田城は、真田昌幸が1583年に築城を始めた城です。千曲川と尼ヶ淵、堀や土塁を利用した防御で、1585年と1600年に徳川軍の攻撃を退けました。関ヶ原後には破城されますが、江戸時代に仙石氏が復興し、現在の櫓や石垣には真田期だけではない歴史が重なっています。上田城を見ると、真田信繁が大坂で戦う前の真田家が具体的になります。

1583年に築城開始二度の上田合戦関ヶ原後に破城真田から仙石へ
上田城の櫓
上田城 / Wikimedia Commons / Tomorobi / CC BY-SA 4.0

上田城を見る要点

上田城は、昌幸が大きな勢力に対抗するために築いた城です。二度の上田合戦で徳川軍を退けますが、関ヶ原後には建物が壊され、堀も埋められます。今見る城は真田期のままではなく、破城と復興を経た城です。

  • 立場:昌幸が築いた城
  • 注目点:地形と二度の上田合戦
  • 転機:関ヶ原後に壊された城
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上田城をどう見る?

交通の要地

上田盆地の中心近くにあり、周辺の街道や川に関わる場所です。昌幸は、山城だけでなく城下町を伴う平城を整えました。

地形を使う城

南は千曲川と尼ヶ淵を天然の要害とし、堀・土塁・石垣で敵の進入経路を制御する構造でした。

真田家の城

昌幸が築き、信之・信繁も関わった城です。真田家の判断と戦いを、地図の上で考える入口になります。

江戸期の復興城

関ヶ原後に破城された後、仙石忠政が復興します。現在の櫓や石垣を見るときは、真田期と江戸期を分けることが大切です。

ざっくり年表

1583
真田昌幸が築城に着手します。
1585
第一次上田合戦。徳川軍を退けます。
1600
第二次上田合戦。昌幸・信繁父子が徳川秀忠軍を足止めします。
1601
関ヶ原後、城は破却され、昌幸・信繁は九度山へ。信之が上田領を引き継ぎます。
1626ごろ
仙石忠政が城の復興を始めます。
1949
移築されていた北櫓・南櫓が城内へ戻されます。

なぜ徳川軍を退けられた?

上田城の強さは、兵の数だけでは説明できません。南側の尼ヶ淵、周辺河川を利用した堀、土塁・石垣、門と通路で敵の動きを限定する構造がありました。

上田市は、この城が地形を巧みに利用した強固な防御を意図していたと説明します。城を「建物」ではなく、川・段丘・堀・城下町まで含めた防衛空間として見ると、二度の上田合戦が分かりやすくなります。

真田期と現在の城は同じ?

真田期

昌幸が築き、二度徳川軍を退けた時代です。関ヶ原後の破城で、この時代の建物は失われました。

破城

昌幸・信繁の配流後、建物は壊され、堀なども埋められました。城の歴史は勝った後に残るだけではありません。

仙石期

仙石忠政が復興を進めました。現在残る櫓や石垣には、江戸時代の城としての姿が重なります。

今の見どころ

北櫓・南櫓、石垣、櫓門などを見ながら、「真田の城跡」だけでなく復興の歴史も考えると深まります。

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5問クイズ

Q1. 上田城の築城を始めた人物は?

A. 真田昌幸です。

Q2. 上田城の南の天然の要害は?

A. 千曲川と尼ヶ淵です。

Q3. 1600年の上田城の戦いは何と呼ぶ?

A. 第二次上田合戦です。

Q4. 関ヶ原後、上田城に行われたことは?

A. 破城です。

Q5. 江戸時代に上田城の復興を始めた人物は?

A. 仙石忠政です。

参考にした資料