事件ページ / 1584〜1585年・信濃の上田と上野の沼田

第一次上田合戦だいいちじうえだかっせん

第一次上田合戦とは?

1585年、沼田領の引き渡しを拒んだ真田昌幸が、上田城(今の長野県上田市)で徳川軍を神川かんがわまで押し返した戦い。1600年の第二次上田合戦と区別して第一次と呼び、神川合戦とも呼ばれます。

1584年、徳川家康が真田昌幸に、上野こうずけ(今の群馬県)の沼田領を北条氏へ明け渡すよう命じます。昌幸はこれを拒みました。
1585年、昌幸は越後の上杉景勝に援助を求め、次男・弁丸べんまる(のちの信繁)を人質として送ります。上田城の普請ふしん(築城の工事)も続けます。
閏8月、徳川軍が上田城へ攻め寄せ、真田軍に神川まで押し返されて大敗します。
退いた徳川軍は真田方の支城・丸子城を攻めますが、これも落とせませんでした。
9月、上野では北条氏直ほうじょう うじなおが沼田城に迫り、城代(城主の代わりに城を預かる人)の矢沢綱頼が守ります。
10月、昌幸は豊臣秀吉とよとみ ひでよしから初めての返書を受け取ります。11月、徳川軍は上田から陣を払ったと伝わります。

決裂——沼田を渡せという命令を、昌幸が断った

1582年に武田氏が滅びると、その旧領をめぐって徳川と北条が争い、和睦の条件で上野は北条方と決まった(天正壬午の乱)。しかし、北条のものと決まった上野のうち、沼田だけは真田が握ったままだった。翌1583年、昌幸は徳川の力を借りて上田城の築城を始める。

命令 家康は、沼田を北条へ渡せと命じた

徳川家康が1584年に沼田領の明け渡しを昌幸に命じた背景には、豊臣秀吉に対して背後の守りを固めるため、小田原の北条氏直と手を組もうとする事情があった。

拒絶 沼田は、二代で自力で取った土地だった

沼田領(上野の利根・吾妻の2郡)は、父・幸隆と昌幸の二代が独力で獲得した領地で、家康の命令はこれを手放せというものだった。昌幸自身が1579年に名胡桃城(沼田領の前線の城)、1580年に沼田城を攻略している。

真田領のかたち 上田と沼田は、一本の道でつながっていた

真田領は、信濃の上田と上野の沼田をひとまとめにした一つの領国だった。石高は10万石たらずでも2国にまたがり、上田と沼田の間だけで約100キロある。その二つを結ぶ上州道(小県ちいさがたと上野北部をつなぐ道)は、真田氏本城(上田城より前の真田の本拠。今の上田市真田)の眼下を通っていた。

手切れ 昌幸は徳川を離れ、上杉に付いた

昌幸は1585年、徳川と手を切り、越後の上杉景勝に臣属した(従属して家来になった)。上田城は、はじめは徳川勢力の、ついで上杉勢力の、それぞれ最前線の城になった。

二つの備え——上杉に人質を送り、城の普請を続けた

徳川軍の来攻を予想した昌幸は、備えを二つ同時に進めた。一つは北信濃まで勢力を伸ばしていた越後の上杉景勝との結びつきで、もう一つは築城の途中だった上田城の普請である。

人質 17歳の次男を、海津城へ送った

昌幸は1585年、次男の弁丸(のちの信繁)を人質として海津城(上杉方の北信濃の拠点)へ送った。ときに弁丸は17歳だった。弁丸がいつ海津城に入ったかは、資料によって6月とも8月末とも書かれる。

人質のまま領主 弁丸は、自分の花押で安堵状を出した

弁丸は海津城で、上杉から徳川へ寝返った屋代秀正(北信濃の武将)の旧領を与えられた。1585年6月24日には、その旧臣に本領を認める安堵状(先祖からの土地を保証する文書)を、自分の花押(署名代わりの記号)で出している。

援軍の書状 上杉の援軍が、真田領へ入った

海津城を預かる上杉方の将・須田満親すだ みつちかは1585年8月29日、弁丸を送り届けた矢沢頼幸(昌幸のいとこ)に宛てて、人質の到着への礼とともに、先日、真田の里(今の上田市真田地域)へ助勢を出し、今日も重ねて人数を差し向けた、と書き送った。同じ書状で満親は、洪水で道が思うようにならず遅れたとも書いている。

城はまだ途中 上田城の完成は、合戦と同じ年の9月

上田城の普請は1585年、上杉方の多くの武将を動員して続けられ、一応の完成をみたのは同じ年の9月だった。徳川軍を迎えた時点の上田城は、実戦の役に立つことだけを考えた簡素なもので、堀と土塁が中心で石垣はなかったとみられている。

神川——7千の徳川軍が、2千足らずに押し返された

上田城は、千曲川沿いの段丘の端に立つ。南は尼ヶ淵あまがふちの崖、北西は大きな堀で守られ、地形が開けているのは東側だけで、そこが城への主要な進入方向になる。その東、城から約4キロのところを神川が流れていた。

両軍の数 7千余の徳川軍を、2千足らずの真田軍が迎えた

徳川軍は1585年閏8月、7千余と伝わる大軍で上田城へ攻め寄せた。迎えた真田軍は2千に足りなかったと伝わり、内訳は騎馬200余・雑兵ぞうひょう(足軽などの下級の兵)1,500余ほどともいわれる。

神川まで 柵の仕掛けで押し戻し、増水が追い打ちをかけた

真田軍は地の利を生かし、「千鳥がけ柵」と呼ばれる柵などの仕掛けを縦横に使って、東から攻めた徳川軍を東の神川まで押し戻したと伝わる。折からの神川の増水もあり、徳川軍は大混乱に陥って大敗する。徳川軍の戦死者は2千人とも伝わる。

背後の砥石城 長男・信幸が、後ろを固めていた

砥石城といしじょうは上田城の背後を押さえる城で、東は神川沿いの切り立った崖になる。1585年の合戦では、昌幸の長男・信幸がここで守りを固めていた。

丸子——退いた徳川軍は、次に支城へ向かった

神川で退いた徳川軍は、まだ上田の近くにとどまっていた。次に向かったのは、真田方の支城(本城を支える出城)・丸子城である。

丸子表の戦い 丸子氏の城が、二つ目の戦場になった

徳川軍は神川の敗戦のあと、丸子氏(この地の武士の家)の居城・丸子城を攻め落とそうとしたが、結局これも落とせずに終わった。ここで起きた戦いは「丸子表の戦い」(丸子方面の戦い)と呼ばれる。落とせなかった理由は、史料では確定できない。

上田のまわりで真田方が守った三つの城

今のどこ
上田城長野県上田市二の丸
砥石城長野県上田市上野うえの
丸子城長野県上田市丸子

沼田——争いの的が、同じ秋に攻められていた

神川と丸子で退けられた徳川軍は、それでも上田を去らず、9月から10月にかけて上田城の前で真田軍と対陣(城を前ににらみ合うこと)を続けた。その間に、争いの原因になった沼田城(今の群馬県沼田市)そのものが攻められている。

北条氏直が動く 争いの的の沼田城に、北条が迫った

北条氏直は1585年9月、沼田城を攻略しようとしていた。沼田城は、1589年の秀吉の裁定までは昌幸の城だった。

守った人 城代・矢沢綱頼に、景勝が用心を促した

沼田城代は矢沢綱頼やざわ つなより(矢沢頼幸の父)で、上杉景勝は1585年9月5日に綱頼へ書状を送り、そちらはいよいよ堅固の用心が第一だ、と伝えた。

帰された息子 人質に付き添った頼幸が、沼田へ戻された

綱頼の子・矢沢頼幸は弁丸に付き添って上杉方へ行き、そこでの働きを景勝に喜ばれた。同じ9月5日の書状で景勝は、沼田守備のため頼幸を帰すと伝えている。

引き揚げ——徳川軍が上田を去った秋、家康の背後が揺れていた

対陣が続くなか、昌幸は豊臣秀吉と書状を交わし始める。秀吉はこの年の7月11日に関白になっていたが、家康は秀吉に従わず、秀吉は家康を攻めるための足場を各地に固めようとしていた。

秀吉への手紙 対陣の最中に、初めての返書が届いた

昌幸は徳川軍との対陣の最中、秀吉に書状を送って援助を求めた。1585年10月17日、秀吉から昌幸へ初めての返書が届く。そちらの身の上は、どう転んでも困らないようにする、という内容だった。

家康の背中 人質要求を断り、重臣が家康のもとを去った

秀吉は同じ1585年9月、家康に人質を求めた。10月、家康は諸将を集めて評定(重臣の会議)を開き、人質を出さないと決める。11月13日、重臣の石川数正いしかわ かずまさが家康のもとを出奔しゅっぽんし(主君のもとから逃げ去り)、秀吉のもとへ走った。

陣払い 11月、徳川勢は上田から引き揚げた

徳川勢は1585年11月、ことごとく陣を払って上田から引き揚げたと伝わる。家康と秀吉の対立が同じ秋に進んでいたが、徳川軍が上田から引いた理由そのものは、史料では確定できない。

信濃への命令 信濃の三人で話し合え、と命じた

秀吉は1585年11月19日、昌幸に書状を送り、家康を攻める足場固めとして、信濃は上田の真田昌幸・松本の小笠原貞慶・木曽の木曽義昌の3人でよく話し合うよう命じた。

第一次上田合戦が残したもの——名の残った城、上杉から秀吉へ、四年後の裁定、十五年後の再戦

この戦いのあとも、沼田の帰属は決まらないままだった。それでも真田は、この勝利を境に、大きな相手を退けた家として扱われるようになる。

名の残った城 二度の実戦で、二度とも大軍を退けた

上田城は1585年と1600年の二度、徳川の大軍の攻撃を退けた。二度の実戦を経験し、しかも小勢で大軍を制した戦歴を持つ城は、全国でもほかに例がないとされる。

上杉から秀吉へ 二年後、秀吉の命で再び徳川に従った

昌幸は上杉景勝への臣属を経て、1586年ごろまでに秀吉に臣属した。同じ1586年に家康も秀吉に従ったため、徳川と真田はともに秀吉の下に立つことになり、1587年3月18日には、昌幸は秀吉の命により再び徳川氏に臣属している。

四年後の裁定 秀吉が、沼田を北条へ渡せと命じた

秀吉は1589年7月21日、昌幸の所領のうち沼田を北条氏直に渡すよう命じた。この裁定のあとに起きた名胡桃城事件が、翌年の小田原征伐につながる。

十五年後の再戦 同じ城で、昌幸と信繁が秀忠軍と戦った

1600年、同じ上田城で昌幸と次男・信繁が徳川秀忠とくがわ ひでただの軍と戦う(第二次上田合戦)。

第一次上田合戦の疑問に答える

「神川合戦」とも呼ぶのはなぜ?

徳川軍が押し戻された場所が、上田城の東を流れる神川だったため。丸子側の戦いを含めた全体を「第一次神川合戦」と呼ぶこともある。

「7千対2千」という数字は確かなもの?

7千余と2千足らず、までは上田市の年表にも載る。内訳の騎馬200余・雑兵1,500余と、徳川方の戦死者2千は軍記の数字で、実数として確かめられるものはない。

資料によって「8月」とも「閏8月」とも書かれるのはなぜ?

1585年(天正13年)は、8月のあとにもう一度8月(閏8月)が入る年だった。解説には8月と書くものと閏8月と書くものがある。このページは閏8月で書く。

現地に何が残っている?

上田城跡は1934年に国の史跡に指定され、本丸・二の丸と堀跡が公園になっている。背後を守った砥石城跡は長野県の史跡だ。丸子城跡は丸子公園になり、本郭(本丸)跡に石碑が立つ。沼田城跡は沼田市の史跡で、沼田公園として残る。

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参考にした資料