人物ページ / 謙信の後を継ぎ、会津から関ヶ原へつながる大名

上杉景勝

上杉景勝は、上杉謙信の養子として上杉家を継いだ大名です。謙信の死後、もう一人の養子・上杉景虎と後継を争う御館の乱を勝ち抜き、越後の上杉家を守りました。のちに豊臣秀吉に従い、1598年には会津へ移って120万石の大領主になります。1600年、会津での城づくりと家康との緊張は会津征伐につながり、家康が西へ引き返すことで関ヶ原の流れが動き出します。景勝を見ると、謙信の物語と関ヶ原が一本につながります。

1556 - 1623上杉謙信の養子会津120万石会津征伐・関ヶ原
上杉景勝の肖像
上杉景勝像 / Wikimedia Commons / 上杉神社所蔵 / Public Domain

上杉景勝を理解する要点

景勝は謙信の後継争いを勝ち、上杉家を引き継ぎました。秀吉の命で会津へ移り、120万石を治めます。家康との対立から会津征伐が始まりますが、家康は小山で引き返し、関ヶ原へ向かいます。戦後、景勝は米沢へ移ります。

  • 立場:謙信の養子
  • 注目点:会津120万石と神指城
  • 次につながる:会津征伐から関ヶ原
最初に押さえる

景勝を最初にどう覚える?

謙信の後を継ぐ

景勝は上杉謙信の養子です。謙信が急死した後、上杉景虎との後継争いを経て、上杉家の当主になります。

御館の乱を勝ち抜く

1578年からの御館の乱は、上杉家そのものが割れた内乱です。景勝はここを越えて、越後の基盤を残しました。

会津120万石へ

1598年、秀吉の命で会津へ移ります。出羽・佐渡も加わる大領国を任され、全国でも最大級の大名になります。

関ヶ原の導火線

1600年の会津征伐は、家康が景勝を討つために始めた軍事行動です。家康が途中で西へ引き返すことで、全国の大名が東西に分かれます。

まずは一本の流れで置く

  1. 上杉謙信の養子として育つ
  2. 1578年、謙信の死後に御館の乱が起きる
  3. 上杉景虎との争いを越え、上杉家を継ぐ
  4. 豊臣秀吉の政権に入り、会津へ移る
  5. 会津120万石を治め、新しい拠点・神指城をつくり始める
  6. 徳川家康が会津征伐へ出陣する
  7. 家康が西へ引き返し、関ヶ原の戦い
  8. 戦後、景勝は米沢へ移る

ざっくり年表

1556
越後の上田長尾氏の家に生まれます。
1578
上杉謙信が死去。景勝と景虎の後継争い、御館の乱が始まります。
1578 - 80
御館の乱を経て、景勝が上杉家の当主になります。
1590年代
豊臣政権の有力大名として動き、後に五大老と呼ばれる一人に数えられます。
1598
秀吉の命で会津へ移り、出羽三郡・佐渡三郡を加えた120万石を治めます。
1600
神指城の築城を始めます。家康が会津征伐に向かい、途中で西へ引き返します。
1601
関ヶ原後、会津から米沢へ移ります。
1623
米沢で死去します。

人物と場所を置く

上杉謙信景勝の養父。謙信の死が、景勝の後継争いの始まりになります。
上杉景虎謙信のもう一人の養子。景勝と御館の乱で争う相手です。
豊臣秀吉景勝を会津へ移した天下人。景勝を後に五大老と呼ばれる有力者の一人に置きます。
直江兼続景勝を支える重臣。会津での領国経営や神指城づくり、家康とのやり取りで重要です。
徳川家康1600年、景勝を討つため会津へ向かいます。その行動が関ヶ原の前提になります。
会津若松城景勝が1598年に入った城。会津支配の中心ですが、後に神指城もつくり始めます。
神指城阿賀川の水運も視野に、景勝が新たな中心として1600年に築き始めた未完成の城です。

御館の乱は、謙信ページの「続き」

謙信は強い戦国大名として知られますが、1578年に急死した時、はっきりした後継が定まっていたわけではありませんでした。養子の景勝と景虎が対立し、越後の家臣や周辺の大名も巻き込む御館の乱になります。

ここで景勝が勝ったから、上杉家は「謙信の後の家」として続きます。ただし勝った後も、上杉家は越後だけで完結しません。秀吉の天下統一、会津への国替え、家康との緊張へと、舞台そのものが大きく変わっていきます。

会津120万石は、何が大きい?

領地が一気に広がる

会津への移封で、景勝は会津だけでなく出羽三郡・佐渡三郡も含む120万石を治めます。関東の家康と並ぶ、北日本の大きな力になります。

城下町を治め直す

会津若松城を中心に領国を整えます。広い領地を動かすには、城、道、川、支城をつないだ支配が必要でした。

神指城をつくり始める

1600年、景勝は阿賀川沿いに神指城の築城を始めます。若松城より大きな新拠点を想定した、領国の首都づくりでした。

家康から警戒される

城づくりや軍備は、大領国を治めるための準備とも読めます。一方で家康側には、景勝が豊臣政権に対して反抗する兆候にも見えました。

「直江状」は一言で片付けない

家康が景勝に上洛を求め、景勝の重臣・直江兼続が強い調子で返したと伝わる書状は「直江状」として有名です。会津征伐を語る大切な材料ですが、現存する文書の扱いや細かな文言には研究上の議論もあります。

ここでは、面白い手紙の内容だけで終わらせず、「家康が景勝を警戒し、上杉側は簡単に従わず、1600年に家康が軍を動かすほど緊張が高まった」と押さえるのが大事です。

関ヶ原で景勝はどこにいた?

家康が西へ引き返した後、景勝自身は会津を拠点に東北の守りを固めます。関ヶ原の本戦に景勝が出て家康と直接戦ったわけではありません。伊達・最上などとの北日本の戦いを抱えながら、景勝は西軍側の大名として位置づけられました。

関ヶ原で東軍が勝つと、景勝は会津を失い、1601年に米沢へ移されます。ここから米沢の上杉家が始まり、重臣の直江兼続とともに城下町の基礎を整えることになります。

ここだけ覚える

  • 上杉景勝は上杉謙信の養子で、御館の乱を越えて上杉家を継いだ。
  • 1598年、豊臣秀吉の命で会津に移り、120万石の大領主になった。
  • 1600年に神指城をつくり始め、会津を領国の新しい中心にしようとした。
  • 家康の会津征伐は、家康が関ヶ原へ向かう直接の前提になった。
  • 関ヶ原後、景勝は会津から米沢へ移された。

次に読むページ

5問クイズ

Q1. 上杉景勝の養父は?

A. 上杉謙信です。

Q2. 謙信の死後に起きた、景勝と景虎の後継争いは?

A. 御館の乱です。

Q3. 景勝が1598年に移った大きな領地は?

A. 会津です。

Q4. 景勝が1600年に築き始めた新しい城は?

A. 神指城です。

Q5. 関ヶ原後、景勝が移った先は?

A. 米沢です。

参考にした資料