会津征伐とは?
- 発端は、上杉景勝への謀反の疑いだった。会津120万石を治める景勝は、秀吉の死後、家康からの上洛の求めに応じず、新しい本拠・神指城の築城や軍備の整備を進めた。家康はこれを謀反の兆しとして、豊臣政権の名のもとに諸大名を集め、1600年6月に会津へ向けて出陣した。上杉側の返書とされる「直江状」が家康を怒らせたという逸話は、この時のものになる。
- 小山で、遠征の目的そのものが変わった。7月、家康が下野の小山(栃木県小山市)に着いたところで、畿内で石田三成らが挙兵したという知らせが届く。家康は会津行きを中止して西へ引き返し、従軍していた福島正則ら豊臣系の大名たちも家康に従った。この場の軍議が「小山評定」と呼ばれ、従軍諸将はそのまま関ヶ原の東軍の主力になる。
- 会津で戦わなかったことが、この遠征のいちばん大事なところになる。家康の北上で畿内が手薄になったからこそ三成は挙兵でき、家康は「上杉討伐軍」を丸ごと「対三成の軍」に転用できた。未完に終わった遠征が、全国を東西に割る戦いを起動させたことになる。景勝は引き返す家康を追わず、北の最上・伊達との戦いに向かった。
- 上杉家は、会津を失って終わった。関ヶ原で東軍が勝つと、景勝は翌1601年に家康へ謝罪し、会津120万石から米沢30万石へ減封された。上杉家は存続したが、謙信以来の大領は4分の1になった。
会津移封から米沢減封まで
- 011598年、景勝が会津へ移る
秀吉の命で越後から会津120万石へ移封。同年8月に秀吉が死に、五大老の一人として家康と並ぶ立場のまま、新領国の経営を始めた。
- 021600年初め、神指城の築城
景勝は会津盆地の阿賀川沿いに新しい本拠・神指城を築き始めた。水運を見据えた領国づくりだったが、この大工事が江戸の家康からは軍備増強と映る。城は未完成のまま、この後の動乱で工事が止まった。
- 03春、上洛要求と直江状
家康は景勝に上洛して弁明するよう求めた。これに対する上杉側の返書とされるのが、重臣・直江兼続の名で伝わる直江状になる。挑発的な内容が家康の出兵の口実になったと語られるが、原本は残っておらず真偽には議論がある。
- 046月、家康が大坂を出陣
家康は豊臣政権の公務として会津征伐を号令し、福島正則・黒田長政ら豊臣系の大名を含む大軍を率いて東へ向かった。前年の七将襲撃事件で三成が失脚して以来、家康の号令を止められる者は政権内にいなかった。
- 057月24日ごろ、小山で挙兵を知る
下野の小山に着いた家康のもとへ、三成らが大坂で挙兵し、伏見城を攻めているという知らせが届いた。家康は軍議で西へ戻る方針を固め、従軍諸将もこれに従う。会津への進撃はここで終わった。
- 069月関ヶ原、翌年米沢へ
家康は関ヶ原で勝利。会津に残った景勝は最上領へ攻め込んだが(長谷堂城の戦い)、関ヶ原の敗報で撤退した。1601年、景勝は上洛して謝罪し、米沢30万石へ移された。
会津征伐のよくある疑問
「直江状」とは何か?
上洛を求める家康側の書状に対し、上杉家の直江兼続が返したとされる反論の書状です。家康を挑発する内容で会津征伐のきっかけになったといわれますが、現存する写しは後世のもので、原本は確認されておらず、内容や存在そのものに議論があります。書かれているとされる内容と真偽の論点は直江状で整理しています。
小山評定は本当にあったのか?
家康が小山で諸将を集め、三成との戦いへの参加を問うたところ福島正則らが賛同した、という話はよく知られていますが、同時代の史料で確かめにくく、近年は評定の形や日付に疑問を出す研究もあります。諸将が家康に従って西へ向かったことは確かです。詳しくは小山評定で整理しています。
上杉景勝はなぜ家康を追撃しなかったのか?
家康が引き返したあと、景勝は追撃せず、最上氏や伊達氏との戦いに向かいました。背後の最上・伊達を放置できなかったこと、追撃しても関ヶ原の決戦に間に合わないことなどが理由として挙げられますが、景勝自身の判断の記録は残っていません。
会津征伐は家康と三成の「仕組んだ」戦いだったのか?
家康が上杉を攻めることで三成の挙兵を誘ったとする見方がありますが、家康が三成の挙兵をどこまで予測していたかは確かめられません。結果として会津征伐が関ヶ原を引き起こしたことは確かですが、計画どおりだったとは言い切れません。
会津征伐から、関ヶ原を読む
- 「戦わなかった遠征」として読むのが正解になる。会津征伐という名前から会津での大戦を想像しやすいが、実際の中身は「北へ進んで、引き返した」だけになる。それでも、家康の東下が三成の挙兵の条件を作り、引き返す家康軍がそのまま東軍になった。動きそのものが戦いだった遠征といえる。
- 小山は、大名たちが「選ばされた」場所だった。従軍していた豊臣系の大名は、妻子を大坂に人質に取られた状態で、家康に付くか離れるかを迫られた。彼らが家康に従ったのは徳川への忠誠ではなく、三成憎しと目の前の大軍という現実になる。前年の七将襲撃事件の顔ぶれが、そのまま東軍の先鋒に並んだ。
- 会津の側から見ると「北の関ヶ原」が始まっていた。景勝は家康を追わず、最上領へ攻め込んで長谷堂城を囲み、伊達政宗とも白石城を争った。関ヶ原の本戦とほぼ同じ時期に、東北では上杉対最上・伊達の戦争が動いている。天下分け目は美濃の一日だけでなく、全国で同時進行していた。