事件ページ / 1600年7月・下野国小山

小山評定おやまひょうじょうとは

小山評定おやまひょうじょうは、1600年7月25日、会津の上杉景勝うえすぎ かげかつを攻めるため下野国小山(栃木県小山市)まで進んでいた徳川家康とくがわ いえやすが、石田三成いしだ みつなりらの挙兵を知り、従軍していた大名を集めて今後を協議したと伝わる会議です。通説では、福島正則が真っ先に家康に味方すると宣言し、山内一豊が自分の居城・掛川城を家康に差し出すと申し出て、諸大名が次々と東軍につくことを決めたとされます。ただし、この会議の存在や中身については近年議論があります。

1600年7月25日(通説) 会津征伐の途中 福島正則の宣言 存在に議論あり

要点

  • 会津征伐の軍が、西へ向きを変えた場所。家康は7月24日に小山に着き、三成挙兵の知らせを受けた。従軍していた豊臣系の大名の多くは妻子を大坂に残しており、どちらにつくかの判断を迫られた。
  • 通説では福島正則の宣言が流れを決めた。秀吉恩顧の正則が「家康に従う」と最初に言い、山内一豊が掛川城の提供を申し出て、諸大名が続いたとされる。
  • 家康は「秀頼のために三成を討つ」と説いた。三成側が「家康は秀頼に背いた」と主張したのに対し、家康は「三成こそ私戦を起こした」と論理を裏返し、豊臣系大名が東軍につく名分を与えた。
  • 評定の存在そのものに議論がある。一つの場で全員が協議したという記録は同時代に乏しく、後世の記録で場面が作られた可能性が指摘されている。諸大名が小山周辺で東軍につくことを決めたこと自体は、書状から確かめられる。
通説の場面

伝えられてきた小山評定の流れ

  1. 017月24日、三成挙兵の知らせ

    大坂からの急報で、三成・大谷吉継おおたに よしつぐの挙兵と、伏見城攻撃の動きを知る。

  2. 027月25日、諸大名を集める

    家康は従軍の大名に「妻子が大坂にいる者は、西軍についても恨まない」と告げたと伝わる。

  3. 03福島正則が家康に従うと宣言

    黒田長政くろだ ながまさが事前に正則を説得していたとされ、正則の発言で場の空気が決まった。

  4. 04山内一豊が掛川城を差し出す

    東海道の自分の城を家康の軍に使わせると申し出、他の東海道筋の大名も続いた。東軍の西進路が確保された。

  5. 05諸大名が西へ向かう

    福島正則・池田輝政いけだ てるまさらが先発して東海道を西へ進み、8月23日に岐阜城を落とした。家康自身は江戸に戻り、9月1日に出陣した。

史料で見る

確かめられることと、確かめにくいこと

史料 確かめられること

家康が7月24日に小山にいたこと、従軍の大名が東軍として西へ向かったこと、山内一豊ら東海道筋の大名が城を提供したことは、書状や同時代の記録から追える。

伝承 確かめにくいこと

一つの場に全員が集まって協議した「評定」の形、福島正則の宣言の場面や台詞、「妻子が大坂にいる者は西軍についてもよい」という家康の言葉は、江戸時代の記録によるもので、近年は評定の存在自体を疑う研究もある。

小山市には「伝小山評定跡」として小山御殿跡が整備されており、地域では江戸時代から語り継がれてきた場面である。

どう読むか

小山評定は、関ヶ原で何を決めたのか

  • 兵力ではなく名分を決めた。会津征伐の軍はもともと豊臣政権の軍として動いていた。それが「秀頼のために三成を討つ東軍」に変わったのがこの時点で、家康は三成の論理を裏返して使った。
  • 東海道が東軍のものになった。掛川・浜松・吉田など東海道の大名が城を提供したことで、東軍は補給と進軍の道を確保した。岐阜城攻略と関ヶ原への集結は、この道があって可能になった。
  • 「感動の場面」として語られた理由。江戸時代には、豊臣恩顧の大名が家康を選んだことを徳川の正統性を示す場面として強調する必要があった。評定の物語は、その必要から整えられた面がある。

三成側の名分は内府ちがひの条々、決戦の経過は関ヶ原の戦いで整理しています。

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参考にした資料