小山評定とは?
- 会津征伐の軍が、西へ向きを変えた場所。家康は7月24日に小山に着き、三成挙兵の知らせを受けた。従軍していた豊臣系の大名の多くは妻子を大坂に残しており、どちらにつくかの判断を迫られた。
- 通説では福島正則の宣言が流れを決めた。秀吉恩顧の正則が「家康に従う」と最初に言い、山内一豊が掛川城の提供を申し出て、諸大名が続いたとされる。
- ここから関ヶ原まで、東軍は一直線だった。方針が決まると福島正則らが先発して東海道を西へ進み、約1か月後には岐阜城を落とす。小山は、上杉討伐軍が「東軍」に生まれ変わった地点になる。
- ただし、評定の実在には近年議論がある。家康が7月下旬に従軍の諸将へ西へ向かうよう命じたことや、諸将の相談で会津攻めの延期が決まったことは、当時の書状から確かめられる。
伝えられてきた小山評定の流れ
- 017月24日、三成挙兵の知らせ
- 027月25日、諸大名を集める
家康は本陣に諸将を集め、「このまま上杉を討つか、引き返して石田を討つか」を問うたと伝わる。諸将の多くは大坂に妻子を残していた。
- 03福島正則が家康に従うと宣言
尾張清洲城主の正則が家康のために命を投げ出すと誓い、この発言で場の空気が決まったとされる。
- 04山内一豊が掛川城を差し出す
続いて遠江掛川城主の山内一豊が、城を明け渡し兵糧など行軍に要るものを差し出すと申し出て、諸将の気持ちを家康支持にまとめたと伝わる。東海道の城々は、東軍の進む道と補給の拠点になった。
- 05諸大名が西へ向かう
福島正則・池田輝政らが先発して東海道を西へ進み、8月23日に岐阜城を落とした(岐阜城の戦い)。家康自身はいったん江戸に戻っている。
確かめられることと、確かめにくいこと
史料 確かめられること
家康が7月26日に従軍の諸将へ一斉に西へ向かうよう命じたこと、7月27日の徳川方の書状に、道中の城々へ番の兵を入れて西へ上る、と記されていること、諸将の相談で会津攻めの延期が決まったことは、当時の書状から追える。東海道の城を押さえる方針は、正則や一豊の発言より前に徳川方で決まっていたことになる。
伝承 確かめにくいこと
7月25日に一つの場に諸将が集まって協議した「評定」の形や、正則・一豊の宣言のたぐいは、同時代の書状には見えない。通説の根拠とされてきた7月24日付の家康書状も、江戸時代中期の編纂物『武徳編年集成』に収められた写しで、評定の存在自体を疑う研究がある。劇的な場面ほど、後から整えられた可能性を考えて読む必要がある。
小山市には市指定史跡「小山評定跡」があり、市役所の北側の小山御殿広場には、のちに将軍の日光社参の休泊所として建てられた小山御殿の跡が平面表示されている。小山御殿は評定の吉例にならったともいわれる。地元の小山市自身も、評定は「一説によれば」小山で開かれた、という書き方をしている。
小山評定は、関ヶ原で何を決めたのか
- 兵力ではなく名分を決めた。会津征伐の軍はもともと豊臣政権の軍として動いていた。それが「秀頼のために三成を討つ東軍」に変わったのがこの時点で、家康は三成の論理を裏返して使った。
- 実質の成果は、演説より「道」だった。劇的な宣言の場面より、東海道筋の城と兵糧が東軍のものになったことの方が、戦略上は重い。岐阜城攻略と関ヶ原への集結は、この道があって初めて可能になった。
- 「感動の場面」として語られた理由。江戸時代には、豊臣恩顧(秀吉に取り立てられた恩がある)の大名が家康を選んだことを徳川の正統性を示す場面として強調する必要があった。評定の物語は、その必要から整えられた面がある。
参考にした資料
- 小山市「徳川家康ゆかりの地 小山評定と小山御殿」(7月24日の小山着陣と翌25日の軍議・諸将の多くが大坂に妻子を残していたこと・福島正則と山内一豊の申し出の通説・市指定史跡小山評定跡・小山御殿と小山御殿広場・乙女河岸から江戸へ帰ったとする一説)
- 白峰旬「フィクションとしての小山評定」(『別府大学大学院紀要』14、2012年。7月24日付福島正則宛家康書状が『武徳編年集成』所収の写しであること・7月26日の諸将への西上命令・7月27日付榊原康政書状の道中の城々への番勢・浅野幸長書状に見える諸将の談合と会津攻め延期・家康がまず江戸へ帰陣したとする書状・『史料綜覧』が引く伏見城守将鳥居元忠の急使・評定を江戸時代の創作とみる説)
- 掛川市「1600年の会津征伐と関ヶ原」(山内一豊が小山の軍議で掛川城の開放と兵糧などの提供を申し出たとされること・戦後の土佐20万石)
- 岐阜県歴史資料館「織田秀信禁制 写」(慶長5年8月23日に東軍が岐阜城を攻略し秀信が降伏したこと)
- 岐阜市「岐阜城の歴代城主」(福島正則・池田輝政らの攻撃で岐阜城が落城したこと)
- 岐阜関ケ原古戦場記念館「南宮山のその時その後そして今」