要点
- 会津征伐の軍が、西へ向きを変えた場所。家康は7月24日に小山に着き、三成挙兵の知らせを受けた。従軍していた豊臣系の大名の多くは妻子を大坂に残しており、どちらにつくかの判断を迫られた。
- 通説では福島正則の宣言が流れを決めた。秀吉恩顧の正則が「家康に従う」と最初に言い、山内一豊が掛川城の提供を申し出て、諸大名が続いたとされる。
- 家康は「秀頼のために三成を討つ」と説いた。三成側が「家康は秀頼に背いた」と主張したのに対し、家康は「三成こそ私戦を起こした」と論理を裏返し、豊臣系大名が東軍につく名分を与えた。
- 評定の存在そのものに議論がある。一つの場で全員が協議したという記録は同時代に乏しく、後世の記録で場面が作られた可能性が指摘されている。諸大名が小山周辺で東軍につくことを決めたこと自体は、書状から確かめられる。
伝えられてきた小山評定の流れ
確かめられることと、確かめにくいこと
史料 確かめられること
家康が7月24日に小山にいたこと、従軍の大名が東軍として西へ向かったこと、山内一豊ら東海道筋の大名が城を提供したことは、書状や同時代の記録から追える。
伝承 確かめにくいこと
一つの場に全員が集まって協議した「評定」の形、福島正則の宣言の場面や台詞、「妻子が大坂にいる者は西軍についてもよい」という家康の言葉は、江戸時代の記録によるもので、近年は評定の存在自体を疑う研究もある。
小山市には「伝小山評定跡」として小山御殿跡が整備されており、地域では江戸時代から語り継がれてきた場面である。
小山評定は、関ヶ原で何を決めたのか
- 兵力ではなく名分を決めた。会津征伐の軍はもともと豊臣政権の軍として動いていた。それが「秀頼のために三成を討つ東軍」に変わったのがこの時点で、家康は三成の論理を裏返して使った。
- 東海道が東軍のものになった。掛川・浜松・吉田など東海道の大名が城を提供したことで、東軍は補給と進軍の道を確保した。岐阜城攻略と関ヶ原への集結は、この道があって可能になった。
- 「感動の場面」として語られた理由。江戸時代には、豊臣恩顧の大名が家康を選んだことを徳川の正統性を示す場面として強調する必要があった。評定の物語は、その必要から整えられた面がある。