要点
- 東軍先発隊の「手柄の証明」の戦い。小山評定のあと先に西へ向かった福島正則・池田輝政ら豊臣恩顧の大名は、清須に集まったまま動かず、家康も江戸を出なかった。互いに相手を信用しきれない中で、先発隊は岐阜攻めで東軍としての本気を示した。
- 守るのは信長の孫、織田秀信。清洲会議で跡継ぎに選ばれた「三法師」その人で、岐阜13万石の城主。三成の誘いを受けて西軍につき、祖父の城で東軍を迎え撃った。
- 木曽川の渡河で先陣争いが起きた。池田輝政は上流の河田から、福島正則は下流の起から渡った。二手に分かれた渡河はどちらが先陣かの争いでもあり、攻撃の速さにつながった。
- 秀信は籠城せず、野戦に出て敗れた。渡河してくる東軍を米野などで迎え撃ったが、兵力差は大きく、主力を野外で失って岐阜城へ退いた。翌8月23日、城はほぼ一日で落ちた。
- この報せが決戦の時計を動かした。岐阜落城を知った家康は9月1日に江戸を発ち、9月15日の関ヶ原へ一気に進んだ。前哨戦の中で、勝敗への影響が最も大きい一戦だった。
清須集結から落城まで
- 018月中旬、東軍先発隊が清須に集結
小山から東海道を戻った福島正則・池田輝政・黒田長政・細川忠興ら約3万余りが尾張の清須城に集まった。家康は江戸から動かず、先発隊の動きを見ていた。
- 028月21日〜22日、木曽川を渡る
軍を二手に分け、池田輝政らは上流の河田から、福島正則らは下流の起から渡河。上流組は米野(現在の各務原市あたり)で秀信勢とぶつかった。
- 03秀信、野戦で敗れて城へ退く
秀信は籠城ではなく川沿いでの迎撃を選んだが、兵力で大きく劣り、米野などの戦いで主力を失って岐阜城に退いた。
- 048月23日、岐阜城落城
正則と輝政は山上の城を攻め、岐阜城はほぼ一日で落ちた。秀信は自害しようとしたが、正則・輝政らのとりなしで助命され、降伏した。
- 059月1日、家康が江戸を出陣
岐阜落城の報せで先発隊の働きを確かめた家康は江戸を発ち、東軍は大垣城の西軍とにらみ合ったのち、9月15日の関ヶ原決戦へ向かった。
なぜ「難攻不落」の岐阜城が一日で落ちたのか
| 1567年・信長が落とした時(稲葉山城) | 1600年・秀信が落とされた時 | |
|---|---|---|
| 城主 | 斎藤龍興。家臣の離反が続いていた | 織田秀信。信長の孫で城下の人望はあった |
| 攻め手 | 織田信長。数年がかりで美濃を切り崩した末の総仕上げ | 福島正則・池田輝政ら。兵力で圧倒し、渡河から数日で城下へ |
| 守りの中身 | 調略で支えを失っていたが、城兵は残っていた | 主力を米野などの野戦で失い、城に残った兵が少なかった |
| 落ちた理由 | 周りから支えを外され、最後は孤立した | 山城は兵がそろって初めて堅い。守る人数を欠いた要害は要害でなくなった |
岐阜城(稲葉山城)は金華山の山上にあり、眺めの良さと裏腹に、広い曲輪が少なく大人数の籠城に向かない。信長時代から「城下と一体で使う城」であり、野戦で主力を失った時点で勝負は決まっていたといえる。
秀信の選択をどう見るか
伝承 語られてきた場面
「信長の孫が祖父ゆかりの城で華々しく戦い、若さゆえに籠城せず打って出て敗れた」という描き方が多い。また、西軍についたのは三成に「美濃・尾張の2か国を与える」と誘われたためという話も広く知られるが、約束の中身を示す確かな文書は残っていない。
史料 確かめられること
秀信が西軍として岐阜城で東軍と戦い、木曽川沿いの戦いで敗れて8月23日に城が落ちたこと、助命されて高野山へ送られ、1605年に亡くなったことは記録から確かめられる。籠城せず迎撃に出た判断も、当時の城の構造と兵力を考えれば無謀とばかりは言えない。
- 信長の直系はここで表舞台を去った。秀信は高野山に送られ、5年後に26歳で亡くなった。清洲会議で「織田家の跡継ぎ」に選ばれた三法師の生涯は、祖父の城の落城で事実上終わった。
- 助命したのは、かつての織田家臣たちだった。正則も輝政も豊臣恩顧だが、元をたどれば織田家に仕えた家の出。信長の孫を殺さなかったところに、この戦いの「身内の戦争」という性格が出ている。
岐阜城の戦いから、関ヶ原を読む
- 家康を動かしたのは、この勝利だった。家康は先発隊の豊臣系大名が本当に戦うのか見極めるまで江戸を出なかった。岐阜城攻めは先発隊にとって忠誠の証明であり、家康にとって出陣の合図だった。
- 西軍は美濃の入口を失った。岐阜城が落ちたことで西軍は大垣城まで下がり、決戦の舞台は関ヶ原周辺に絞られた。「どこで戦うか」はこの戦いが決めたといえる。
- 速さがすべてを決めた。渡河から落城まで数日。この速さが西軍の援軍(大垣城の三成ら)の対応を許さなかった。関ヶ原本戦の「一日で決着」は、前哨戦の時点で予告されていた。