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岐阜城の戦いぎふじょうのたたかい

岐阜城の戦いは、1600年(慶長5年)8月、関ヶ原の戦いの前哨戦として美濃で起きた戦いです。福島正則ふくしままさのり・池田輝政いけだてるまさら東軍の先発隊が木曽川を渡って、西軍についた岐阜城主・織田秀信おだひでのぶ(信長の孫)の軍を野戦で破り、翌8月23日には岐阜城も落としました。渡河から落城まで、全体でわずか2日の戦いです。

1600年8月23日落城 東軍先発隊 対 織田秀信 信長の孫が西軍についた 家康出陣のきっかけ

岐阜城の戦いとは?

  • 東軍先発隊の「手柄の証明」の戦い。小山評定おやまひょうじょうのあと先に西へ向かった福島正則・池田輝政ら豊臣恩顧(秀吉に取り立てられた恩がある)の大名は、清須に集まったまま動かず、家康も江戸を出なかった。互いに相手を信用しきれない停滞を破ったのが、この岐阜攻めだった。
  • 守るのは信長の孫、織田秀信。清洲会議で跡継ぎに選ばれた「三法師さんぼうし」その人で、岐阜13万石の城主。三成の誘いを受けて西軍につき、祖父の城で東軍を迎え撃った。
  • 木曽川の渡河で先陣争いが起きた。池田輝政は上流の河田から、福島正則は下流の起から渡った。二手に分かれた渡河はどちらが先陣かの争いでもあり、攻撃の速さにつながった。
  • 秀信は籠城せず、野戦に出て敗れた。渡河してくる東軍を米野などで迎え撃ったが、兵力差は大きく、主力を野外で失って岐阜城へ退いた。翌8月23日の朝に城攻めが始まり、その日のうちに城は落ちた。
  • この報せが決戦の時計を動かした。岐阜落城を知った家康はようやく江戸を発ち、戦線は一気に関ヶ原へ収束する。前哨戦の中で、勝敗への影響が最も大きい一戦だった。
経過

清須集結から落城まで

  1. 018月中旬、東軍先発隊が清須に集結

    小山から東海道を戻った福島正則・池田輝政・黒田長政くろだ ながまさ・細川忠興ほそかわ ただおきら約3万余りが尾張の清須城に集まった。家康は江戸から動かず、先発隊の動きを見ていた。

  2. 028月21日〜22日、木曽川を渡る

    軍を二手に分け、池田輝政らは上流の河田から、福島正則らは下流の起から渡河。上流組は米野(現在の各務原市あたり)で秀信勢とぶつかった。

  3. 03秀信、野戦で敗れて城へ退く

    秀信は籠城ではなく川沿いでの迎撃を選んだが、兵力で大きく劣り、米野などの戦いで主力を失って岐阜城に退いた。

  4. 048月23日、岐阜城落城

    正則と輝政は朝から山上の城を攻め、その日のうちに本丸まで落とした。秀信は自害しようとしたが、正則・輝政らのとりなしで助命され、降伏した。

  5. 059月1日、家康が江戸を出陣

    岐阜落城の報せで先発隊の働きを確かめた家康は江戸を発ち、東軍は大垣城の西軍とにらみ合ったのち、9月15日の関ヶ原決戦へ向かった。

論点

なぜ岐阜城は一日で落ちたのか

守る側 兵が、いなかった

秀信は主力を前日までの野戦で失っており、城に退いたのはその生き残りだけだった。数万の攻め手に対し、城内は守りの手を配りきれない状態から始まっている。

城の側 大軍の籠城に向かない

金華山の山上の城は広い曲輪くるわが少なく、多くの兵と兵糧を抱えて長く籠もる作りではない。山城の険しさは守る兵がそろって初めて働くもので、兵を欠いた時点で要害は要害でなくなっていた。

攻める側 立て直す間を与えず

東軍は渡河の勢いのまま、城下と登り口を複数の方向から同時に攻めた。手の足りない守りは分散を強いられ、朝に始まった城攻めはその日のうちに本丸へ達した。

岐阜城は金華山の山上の要害として「難攻不落」とよく形容される城になる。33年前には、若き信長もこの城(当時の稲葉山城)を落とすまでに長い年月をかけた。その経緯は稲葉山城攻略のページで。

検証

秀信の選択をどう見るか

伝承 語られてきた場面

「信長の孫が祖父ゆかりの城で華々しく戦い、若さゆえに籠城せず打って出て敗れた」という描き方が多い。また、西軍についたのは三成に「美濃・尾張の2か国を与える」と誘われたためという話も広く知られるが、約束の中身を示す確かな文書は残っていない。

史料 確かめられること

秀信が西軍として岐阜城で東軍と戦い、木曽川沿いの戦いで敗れて8月23日に城が落ちたこと、助命されて高野山へ送られ、1605年に亡くなったことは記録から確かめられる。籠城せず迎撃に出た判断も、当時の城の構造と兵力を考えれば無謀とばかりは言えない。

  • 信長の直系はここで表舞台を去った。秀信は高野山に送られ、5年後に26歳で亡くなった。清洲会議で「織田家の跡継ぎ」に選ばれた三法師の生涯は、祖父の城の落城で事実上終わった。
  • 助命したのは、かつての織田家臣たちだった。正則も輝政も豊臣恩顧だが、元をたどれば織田家に仕えた家の出。信長の孫を殺さなかったところに、この戦いの「身内の戦争」という性格が出ている。
どう読むか

岐阜城の戦いから、関ヶ原を読む

  • 家康は、自分の兵をほぼ使わずにこの局面を制した。岐阜を攻めたのは豊臣恩顧の先発隊で、守ったのは信長の孫。家康は江戸から動かず、豊臣系どうしの戦いで敵の入口を破らせ、忠誠の証明まで受け取った。戦う前から、政治では家康の勝ちだったといえる。
  • 西軍は美濃の入口を失った。岐阜城が落ちたことで西軍は大垣城まで下がり、決戦の舞台は関ヶ原周辺に絞られた。「どこで戦うか」はこの戦いが決めたといえる。
  • 速さがすべてを決めた。渡河から落城まで数日。この速さが西軍の援軍(大垣城の三成ら)の対応を許さなかった。関ヶ原本戦の「一日で決着」は、前哨戦の時点で予告されていた。

秀信の生涯は織田秀信おだ ひでのぶ、同じ城を信長が落とした戦いは稲葉山城の乗っ取りで整理しています。

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参考にした資料