事件ページ / 1600年7月・関ヶ原の前

内府ちがひの条々ないふちがいのじょうじょうとは

内府ないふちがひの条々じょうじょうは、1600年7月、石田三成らが徳川家康とくがわ いえやすの「違い」(秀吉の遺命や誓約への違反)を13か条で列挙し、諸大名に送った文書です。「内府」は内大臣だった家康のこと。前田玄以まえだ げんい増田長盛ました ながもり長束正家なつか まさいえの三奉行の名で出され、毛利輝元もうり てるもと宇喜多秀家うきた ひでいえの連署状が添えられました。家康を討つことが「豊臣家への忠義」であると示す名分で、これによって西軍が形になりました。

1600年7月17日 三奉行の名で発出 家康の違反13か条 西軍結成の名分

要点

  • 家康の「違反」を13か条で列挙した弾劾状。秀吉の遺命に背いた、大名と無断で婚姻した、誓約した起請文を破った、上杉景勝うえすぎ かげかつを理由なく攻めた、などを挙げた。
  • 三奉行の名で出された。差出人は前田玄以・増田長盛・長束正家。三成は直接の差出人ではなく、五大老の毛利輝元・宇喜多秀家の連署状が添えられた。
  • 「家康を討つ」を豊臣への忠義に変えた。秀頼への忠誠を誓った大名にとって、家康を攻めることは主君への反逆ではなく、秀吉の遺命を守る行為だという論理を作った。
  • これを境に西軍が動いた。発出の翌々日に西軍は伏見城を攻め、家康は小山で引き返した。関ヶ原の戦いは、この文書で始まったといえる。
内容

何が書かれていたのか

13か条の主な内容を、非難の種類ごとにまとめます。原文は秀吉の死後の出来事を順に挙げる形で、どれも「秀吉との誓約に反する」という点で一貫しています。

家康の行動どの約束に反するか
婚姻伊達政宗だて まさむね福島正則ふくしま まさのり蜂須賀家政はちすか いえまさらと無断で縁組を進めた秀吉が定めた「大名どうしの私的な婚姻の禁止」
五大老との対立前田利家まえだ としいえの死後、五大老・五奉行の合議を無視して独断で政治を進めた秀吉が遺した合議の仕組み
起請文大名たちと交わした誓約を破った秀頼への忠誠と相互の誓い
上杉攻め上杉景勝に謀反の証拠もないまま会津征伐を起こした大名の私闘を禁じた秀吉の方針
城と人事伏見城に居座り、秀吉の側室の居所に入り、自分の家臣を政権の要職につけた秀頼の政権を預かる立場の逸脱

条文の数え方や順序は写本によって異なり、「13か条」は通説による。上杉家に伝わった写し(上杉版)は、他の写しと文言が一部違うことが知られている。

経過

文書が出てから、関ヶ原まで

  1. 017月12日ごろ、三成と大谷吉継おおたに よしつぐが挙兵を決める

    会津へ向かう東軍の留守を突く形で、三成は佐和山で吉継と話し合い、挙兵を決めた。

  2. 027月17日、内府ちがひの条々を発出

    三奉行の名で家康の非を列挙し、諸大名に送った。毛利輝元・宇喜多秀家の連署状が添えられ、輝元は大坂城に入って総大将となった。

  3. 037月19日、伏見城を攻める

    家康の留守を守る鳥居元忠とりい もとただの伏見城を西軍が包囲。8月1日に落城した。

  4. 047月24〜25日、小山で家康が引き返す

    下野の小山で三成挙兵の知らせを受けた家康は、従軍していた大名と協議(小山評定)し、西へ向かった。

  5. 059月15日、関ヶ原の決戦

    家康は「三成らの私戦を討つ」という名分で東軍をまとめ、一日で西軍を破った。

どう読むか

内府ちがひの条々は、何を変えたのか

  • 「徳川対豊臣」ではなく「豊臣家臣どうし」の戦いにした。この文書は家康を「秀頼に背いた臣下」と位置づけた。東軍側も「秀頼のために三成を討つ」と主張したため、関ヶ原は両軍とも豊臣家の名分を掲げる戦いになった。
  • 三成の名がないことに意味がある。差出人を三奉行にしたのは、三成個人の私怨ではなく豊臣政権の公式の判断として見せるためとみられる。ただし東軍はこれを「三成の陰謀」として扱い、大名の多くはそう受け取った。
  • 家康の側にも名分を与えてしまった。家康は小山評定で「秀頼に対する謀反を討つ」と諸大名に説き、この文書の論理をそのまま裏返して使った。名分の奪い合いで家康が勝ったことが、関ヶ原の勝因の一つになった。

三成側の論理は石田三成いしだ みつなり、家康側の名分づくりは小山評定で整理しています。

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参考にした資料