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蜂須賀家政はちすかいえまさ

蜂須賀家政とは?

蜂須賀正勝の子で、1585年に豊臣秀吉から阿波国を与えられ、今の徳島県徳島市にあたる場所に徳島城と城下町を築いた大名です。

四国を平定した豊臣秀吉は、阿波国を蜂須賀家に与えます。老齢の父・正勝が辞退したため、28歳の家政が17万5600石余を受け取りました。
家政は猪山(今の城山)で築城を始めます。城地を選んだのは秀吉自身でした。
城の周囲を指す「渭津いのつ」という地名を、家政が「徳島」に改めます。
築城と並行して城下町を開きます。屋敷地を与えるという告示を国内に出し、堺からも商人を招きました。
重臣を国内9か所の城に置く「阿波九城制」で領国を治めます。この体制は一国一城令を経て畳まれました。
阿波一国を領有し、さらに淡路国7万石余を加えられて、蜂須賀家は四国最大の大名になります。

父の辞退——阿波は、28歳の子に渡された

天正13年(1585年)、四国を平定した豊臣秀吉は阿波国を蜂須賀家政に与えた。はじめは長年の功績のある父・蜂須賀正勝に与えるつもりだったが、正勝は老齢で秀吉の側近く仕えることを望んでこれを辞退し、代わりに28歳の嫡子・家政が拝領した。

蜂須賀家の来歴 尾張の豪族から、播磨龍野の大名へ

蜂須賀家は尾張国海東郡蜂須賀村(今の愛知県あま市)の豪族である。「小六」の名で知られる正勝が織田信長おだ のぶなが、次いで豊臣秀吉に仕え、天正9年(1581年)には播磨国龍野城で5万3千石の大名となっていた。

17万5600石余 最初に受けたのは、阿波の一部だった

天正13年に家政が拝領したのは、阿波国のうちの17万5600石余である。資料によっては17万石余とも書かれる。阿波国のすべてを領有するのは、この18年後のことである。

猪山の城——城地を選んだのは、秀吉だった

阿波国の領主となった家政は、すぐに猪山(今の城山)で築城を始めた。城地の選定を行ったのは秀吉である。8月4日付の秀吉の書状の写しには、家政の居城は猪山がよかろうと述べ、さらに阿波一国を治める城として工事を行うよう命じたことが記されている。

猪山には以前から城があった。細川氏の時代には切幡城主の森飛騨守が番手ばんて(城を預かって守る役)を置いたとされ、天正10年(1582年)からの長宗我部氏の時代には家臣の吉田泰俊が守った。ただし天正13年の四国攻めでは守備側が戦わずに逃げており、守りの堅い城とはみられていない。

築造の顔ぶれ 大名と僧侶が動員され、青石で積まれた

徳島城は、猪山の城をもとに助任川と寺島川を堀として取り込んだ城で、秀吉の命により伊予の小早川隆景、土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力して築いたという。石垣は徳島産の結晶片岩けっしょうへんがん、いわゆる青石を使い、このときの野面積みのづらづみ(自然石をあまり加工せず積む技法)は本丸の東部に今も残る。

完成の年 資料によって、書き方が分かれる

徳島城がいつ出来上がったかは、資料によって書き方が分かれる。天正13年に着手して翌天正14年(1586年)に完成したと書くものがある一方、天正15年(1587年)に落成したと書くものもある。家政が徳島に入った年についても、天正13年に阿波国主として入国したと書く資料と、天正14年に徳島入りしたと書く資料がある。

渭津から徳島へ——命名の由来は、文献が明かさない

築城と同じ天正13年、家政は城の周囲を指していた「渭津」という地名を「徳島」に改めた。新しい領主の入国にあわせた改称で、この名が今の徳島県・徳島市まで続いている。ただし、徳島という地名を誰が命名したのかは、数ある文献・古文書が明らかにしていない。近くにある福島という地名と関係づけて縁起のよい字を選んだのだろう、という郷土史家の推定はあるが、決め手はないと結ばれている。

1652〜1678年 新しい地名は、26年間途切れた

家政が付けた「徳島」は、すぐには根づかなかった。孫にあたる2代藩主・忠英ただてるが慶安5年(1652年)2月に渭津の旧号へ戻し、3代光隆みつたか、4代綱通つなみちの代も渭津を使った。26年後の延宝6年(1678年)、相続したばかりの5代綱矩つなのりが城地の地名を再び徳島に改め、これ以降は現在まで徳島が使われている。

渭津という前史 徳島と呼ばれる前の姿は、まだ分からない

渭津は、城下町が開かれる前からこの地を指していた呼び名である。当時の様子がうかがえる史料はなく、渭津がどのような場所だったかは考古学の成果を待つ段階にある。

町人を集める——屋敷地を与える、という告示

築城と並行して城下町の建設が行われた。家政は、徳島に来て商売をする者には屋敷地を与えるという告示を阿波国内に出し、あわせて堺から千利休の甥にあたる魚屋道通(渡辺道通)を招くなど、町人を積極的に集めて町づくりを進めた。徳島は大小の河川が乱流する河口部のデルタ地帯に置かれた城下町で、堤を築くなどの工事は必要だが、河川をそのまま水上の幹線道路として軍事にも経済にも使えることが利点だった。

道通という人 茶の師と大名をつないだ、堺の商人

家政は千利休に茶を学んでいた。天正14年(1586年)の利休の手紙には、「蜂小六殿」から依頼のあった茶釜が見つかったので阿波の家政のもとへ届けてほしいと書かれており、道通が利休と家政をつなぐ役を務めていたことが分かる。

水運の町 特産物と水運で、城下町が広がった

桃山時代から江戸初期に生まれた城下町の多くは河口部に立地し、水上交通で栄えた。徳島もその一つで、阿波藍をはじめとする特産物に加えて水運が広がった。

阿波の家臣団——連れてきた武士で、治めた

蜂須賀家の家臣団は、出身地である尾張国と、それまでの領地だった播磨国龍野から入った武士で主に構成された。細川氏や三好氏の旧臣を重臣に登用することはなく、例外は土佐泊城(今の徳島県鳴門市)にいた水軍の森志摩守で、秀吉の意向もあって家老に次ぐ3000石を与えられている。それ以外の阿波の武士は、中・下級の家臣か、政所まどころ(のちの庄屋にあたる村の役)として支配の末端に連なるにとどまった。

阿波九城制 重臣を九つの城に置く、軍事の形だった

天正13年(1585年)から寛永15年(1638年)までの時期、蜂須賀家は重臣を国内9か所の城に置く「阿波九城制」で領国を治めた。重臣には兵300人が付けられ、城を預かるこの重臣たち(城番)の兵を含めると蜂須賀家の軍団の過半は現地にいた。城下町へ武士を集めることは部分的にとどまり、この時期の徳島は発展の途中にあった。

1615・1638年 一国一城令で、城番が徳島に集まった

元和元年(1615年)に続いて寛永15年(1638年)にも一国一城令が発令され、寛永の末年には城番たちが完全に徳島へ移った。これに伴って城下町徳島は大改造が行われ、17世紀の中頃には武家屋敷・足軽町・商人町・職人町・寺町が整然と配置された姿に組み替えられた。

阿波と淡路——四国最大の大名家へ

慶長8年(1603年)、蜂須賀家は阿波国のすべてを領有した。さらに元和元年(1615年)には淡路国7万石余を与えられ、阿波・淡路2国25万7000石の四国最大の大名となった。徳島城は明治に至るまで14代・約280年のあいだ、蜂須賀家の居城であり藩庁はんちょう(藩の政治を行う役所)だった。

初代藩主・至鎮 支配のしくみが固まるのは、至鎮と忠英の代

徳島藩の初代藩主は、家政の子・至鎮よししげである。職制を整備し、法律を定めて支配を強めていったのは、至鎮から2代忠英にかけての元和・寛永期にあたる。至鎮は35歳で没し、そのあとを継いだ忠英の後見役は祖父の家政が務めた。

城の規模 東西640m、南北550mの平山城

徳島城跡は東西約640m、南北約550mの広がりを持つ。標高約61mの城山の頂上に本丸を置き、東二の丸、西二の丸、西三の丸が連なる形だった。本丸の東下には、政庁と藩主の居所を兼ねる表御殿が置かれた。

城下町のその後——藍の集散地としての位置づけ

家政が開いた城下町は、阿波の特産物が集まる場所として江戸時代を通じて続いた。ただし、藍の産業をどう育てたかという政策は、家政の代ではなく、後の代の徳島藩によって固められたものである。

日本遺産 「藍のふるさと 阿波」の構成文化財

徳島城跡と徳島城下町跡は、文化庁の日本遺産のストーリー「藍のふるさと 阿波」の構成文化財こうせいぶんかざい(ストーリーを支える文化財)の一つに数えられる。そこでの位置づけは、阿波藍の流通拠点として栄えた城下町と、阿波藍を奨励した蜂須賀氏の政治拠点、というものである。

阿波藍 専売政策で全国の市場を押さえた

藍は江戸時代から明治時代にかけて広く流通した紺色の染色原料で、阿波での栽培は室町時代までさかのぼることが確認されている。江戸時代の阿波藍は徳島藩の専売政策によって全国市場を独占し、阿波を代表する特産物だった。栽培は主に吉野川流域で行われた。

蜂須賀家政の疑問に答える

阿波踊りは、家政が始めた?

断定はできない。阿波おどりの起源には確定した説がなく、三つの説が並べて示されている。築城起源説は、天正15年(1587年)に家政によって徳島城が落成した際、その祝賀行事として城下の人々が踊ったのが始まりとする。風流おどり起源説は、複数人が組になって踊る「組おどり」が、華やかな仮装や群舞を指し能楽の源流の一つともされる「風流」の影響を強く受けているとし、寛文3年(1663年)の「三好記」にある天正6年(1578年)の十河存保の風流おどりの記録を根拠とする。盆おどり起源説は、旧暦7月に行われた盆おどりが元になったとする。

なぜ「徳島」の名は、一度もとに戻された?

史料からは分からない。2代藩主・忠英にとって徳島は、後見役を務めた祖父・家政が用いた新しい地名である。それでも慶安5年(1652年)に渭津へ戻しているので、相応の事情があったと考えられるが、それを記した史料はない。渭津の地名を使い続けようとした人々が少なからずいたのではないか、という推測が示されている段階である。

関ヶ原のとき、家政はどう動いた?

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦にあたり、家政は町人の道通の屋敷で剃髪ていはつ(髪を落として僧の姿になること)したと伝わる。その前後にどこで何をしたのか、また戦いのあとも阿波を保った経緯がどのようなものだったのかについては、公的資料には記述がない。確かめられるのは、その後も阿波一国の領有が続いたという結果までである。

今の徳島城跡には、何が残っている?

明治8年(1875年)に城郭の建物が撤去され、表御殿庭園と石垣、堀の一部が残る。石垣はすべて阿波の青石で築かれ、時代ごとの積み方の違いを見ることができる。徳島城跡は平成18年(2006年)1月26日に国の史跡に指定された。表御殿に面する庭園は「旧徳島城表御殿庭園」として昭和16年に国の名勝となっており、枯山水と築山泉水庭からなる園内を歩くことができる。

枯山水に架かる青石橋は中央で割れていて、至鎮が奥方に毒を飲まされ踏み割ったという伝説が伝わるが、これは史実とは考えられておらず、至鎮が35歳の若さで没したことなどから後に作られた話とされている。

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参考にした資料