要点
- 土佐の国衆から出発した。岡豊城を拠点とする在地領主で、土佐には本山・安芸・一条など「土佐七雄」と呼ばれる勢力が並び立っていた。
- 一度滅びかけ、国親が再興した。1508年に岡豊城を落とされて当主が討たれたが、幼い国親が一条氏に保護され、のちに岡豊城を取り戻した。
- 元親が土佐を統一し、四国を制した。1560年の初陣から15年で土佐を統一し、さらに10年で1585年までに四国のほぼ全域を手中にした。
- 「一領具足」が軍の力になった。ふだんは農業をし、戦いになれば一領の武具を持って駆けつける半農半兵の武士たち。少ない家臣団を補う仕組みだった。
- 秀吉に土佐一国へ戻され、関ヶ原で失った。1585年の四国攻めで降伏し、土佐のみ安堵。盛親が関ヶ原で西軍についたため改易され、1615年の大坂の陣で家は絶えた。
長宗我部氏は、どんな家だったのか
- 出自は伝承の域を出ない。渡来系の秦氏の子孫を称し、鎌倉時代に土佐の長岡郡宗我部郷に入ったとされるが、確かな史料で裏づけられる部分は多くない。
- 土佐七雄の一つだった。戦国初期の土佐には、本山・吉良・安芸・津野・大平・香宗我部・長宗我部などの勢力が並び立ち、公家の一条氏が幡多郡で別格の存在だった。
- 1508年、岡豊城を失った。周辺勢力の連合軍に攻められて当主の兼序が討たれ、家は滅びかけた。幼い国親は一条氏に保護される。
- 国親が再興した。一条氏の後押しで岡豊城に戻った国親は、周辺の国衆を攻め、あるいは婚姻で結んで勢力を回復した。元親が継ぐ土台は、この国親が作った。
国衆から身を起こした型の戦国大名で、同じ型の毛利氏と比べると、土佐という一国の中から出発した点が違います。国親については長宗我部国親で、本拠は岡豊城で整理しています。
元親は、どうやって四国を制したのか
- 011560年:初陣と家督
元親は22歳で長浜の戦いに初めて出陣し、本山氏を破りました。同年に父・国親が死去し、家督を継ぎます。色白で物静かなため「姫若子」と呼ばれていたという話は、後世の記録によるものです。
- 021575年:土佐統一
本山氏・安芸氏・津野氏を従え、最後に一条氏を破って土佐を統一しました。初陣から15年でした。
- 031580年代:四国制覇
阿波・讃岐・伊予へ進出し、三好氏・河野氏らを退けて、1585年までに四国のほぼ全域を手中にしました。織田信長とは一時結び、のちに対立しています。
- 041585年:秀吉の四国攻め
本能寺の変で信長の四国出兵は止まりましたが、天下統一を進める秀吉が10万の大軍で四国を攻めました。元親は降伏し、土佐一国のみを安堵されます。
元親の強みは、一領具足による動員力と、戦いと婚姻を組み合わせて国衆をまとめる手法でした。詳しくは長宗我部元親と四国攻めで整理しています。
長宗我部氏はなぜ、三代で滅んだのか
- 嫡男を失った。1586年、秀吉の命で九州へ出兵した元親は、戸次川の戦いで嫡男の信親を失った。元親は深く悲しみ、以後の家督をめぐって家中が揺れた。
- 四男の盛親が継いだ。元親は信親の弟たちを退けて四男の盛親を後継に立て、反対した家臣や一族を処断した。この強引な継承が家中に傷を残した。
- 関ヶ原で西軍につき、改易された。1600年、盛親は西軍に加わったが戦場で動けず、戦後に土佐を没収された。旧臣の一領具足は浦戸城に立てこもって抵抗した(浦戸一揆)。
- 大坂の陣で家が絶えた。浪人となった盛親は1614年に大坂城に入り、豊臣方の主力として戦ったが、夏の陣で敗れて捕らえられ、1615年に処刑された。長宗我部氏は断絶した。
長宗我部氏をめぐる人物
長宗我部氏についてのよくある疑問
一領具足とは何か?
ふだんは農業を営み、戦いになると一領(ひとそろい)の武具を持って駆けつける、半農半兵の武士たちのことです。長宗我部氏は家臣団が小さかったため、領内の土豪や有力農民をこの形で動員し、短期間で四国を制する軍事力にしました。関ヶ原後の改易に際して彼らが浦戸城で抵抗したことは、長宗我部氏への結びつきの強さを示しています。
元親は本当に四国を統一したのか?
1585年の時点で、伊予の一部を除いて四国のほぼ全域を勢力下に置いていたとされ、「四国統一」と呼ばれることが多いです。ただし伊予の河野氏がなお抵抗していたこと、阿波・讃岐の支配が固まる前に秀吉の四国攻めを受けたことから、「ほぼ統一」と表現するのが正確です。
なぜ盛親が後継ぎになったのか?
嫡男の信親が戸次川で戦死したあと、元親は次男・三男を飛ばして四男の盛親を後継に指名しました。理由ははっきりしませんが、盛親が信親の娘を妻とすることで信親の血筋を残そうとしたとする見方があります。この決定に反対した一族や重臣を元親が処断したため、家中に亀裂が残りました。
長宗我部氏は滅んだのに、なぜ土佐で今も親しまれているのか?
土佐を統一して四国に名を広めた元親の存在が大きく、岡豊城跡や元親の墓は史跡として守られています。また長宗我部氏の旧臣の子孫は、山内氏の土佐藩で「郷士」として続き、幕末の坂本龍馬など土佐の志士の多くがこの郷士層から出ました。長宗我部氏は滅んでも、その家臣たちの系譜が土佐の歴史を動かし続けたといえます。