事件ページ / 1586年(天正14年)12月・豊後

戸次川の戦いへつぎがわのたたかい

戸次川の戦いとは?

1586年12月、豊後の戸次川で豊臣方の四国勢が渡河して島津家久軍に敗れ、長宗我部信親ちょうそかべのぶちか十河存保そごうまさやすが戦死した戦い。戸次川は、今の大分県大分市を流れる大野川のことで、戦場になったのは中戸次から中津留にかけての河原にあたります。

1586年9月12日、仙石秀久せんごくひでひさが讃岐の軍勢3000余人を率いて豊後府内に着きます。秀吉の本隊より先に送られた先発隊でした。
12月、島津家久の軍が、大野川の東岸にある大友方の鶴賀城つるがじょうを攻めます。
12月12日、仙石秀久・十河存保らの讃岐勢と、長宗我部信親らの土佐勢が、戸次川を隔てた竹中山に陣を敷きます。
豊臣方は川を渡って攻めかかり、島津軍に大敗します。
島津軍は下流の府内に入り、大友館も南蛮貿易の町も焼かれました。
12月22日、秀吉は仙石秀久の不覚を責め、讃岐国を取り上げます。

府内着陣——秀吉の本隊より先に、四国勢が豊後へ渡った

大友氏の要請を受けた秀吉は、島津・大友の双方に和睦を勧めた。島津氏はこれに従わず、大友氏の討伐にかかった。秀吉は自ら九州へ下る前に、まず四国の大名たちを大友氏の援軍として豊後へ渡らせた。1586年8月22日には、仙石秀久の豊後出陣のために塩飽しわく(讃岐沖の島々)へ50人乗りの船10艘を出させている。豊臣方は四国勢と大友軍の連合軍で、豊後の大名の大友義統おおともよしむねもこれに加わっていた。

9月12日 讃岐から3000余人が着いた

仙石秀久は9月12日、十河存保ら讃岐の軍勢3000余人を率いて豊後府内に到着した。秀久は前年の1585年7月に秀吉から讃岐を与えられたばかりの大名だった。土佐の長宗我部勢も、秀吉の命を受けた援軍として豊後へ渡っている。

戸次川に集まった将——どこから来て、どんな立場だったか

どこから来て、どんな立場で加わったか
島津家久島津方。薩摩・日向から豊後へ攻め込んだ島津軍の先鋒
仙石秀久豊臣方。讃岐の大名として四国勢を率いた
長宗我部元親豊臣方。土佐の大名
長宗我部信親豊臣方。元親の長男として、土佐から父とともに渡った
十河存保豊臣方。讃岐の将。讃岐のうち2万石を任されていた
大友義統おおとも よしむね豊臣方。豊後の大名。四国勢と連合して島津軍に向かった
ほか讃岐の将豊臣方。香西・香川など、仙石秀久に従って讃岐から渡った

鶴賀城——川の東岸で、キリシタンの城主が銃弾に倒れたと伝わる

大野川の東岸、今の大分市中戸次の山上に、大友方の鶴賀城があった。標高193メートルの山頂に築かれた山城だった。城主は利光宗魚としみつそうぎょといい、各種の記録からキリシタン武将であったことが分かっている。

山城の造り 土塁と堀で固めた主郭

鶴賀城の主郭(城の中心の区画)は東西40メートル、南北25メートルで、三方を高さ0.5〜1メートルの土塁で囲む。尾根を断ち切る堀切、斜面に並べた畝状竪堀うねじょうたてぼり、横から矢を射かけるための張り出しを備え、遺構は今も山上に残る。

城主の最期 櫓台の跡に伝わる場所

利光宗魚は12月、島津家久の軍に城を攻められた。主郭の最も高いところに造られた櫓台やぐらだいの跡が、伝承では宗魚が敵兵の銃弾に倒れた場所とされる。討たれたのがいつかは、史料では確定できない。

竹中山の陣——川を挟んで、両軍が向かい合った

12月12日、四国勢は戸次川を隔てた竹中山に陣を敷いた。竹中山は大野川の西岸にあり、対岸には島津家久の軍と、攻められている鶴賀城がある。

別府湾 大野川(戸次川) 上流(南) 中津留河原 鶴賀城 東岸・大友方 今の大分市中戸次 竹中山 西岸・四国勢の陣 府内 下流・今の大分市中心部 北↑
大野川を挟んだ鶴賀城と竹中山、その下流の府内(位置関係の模式図。距離や地形は正確ではありません)

川の東 島津家久の軍

島津家久の軍は、鶴賀城を攻めながら東岸にとどまり、川を挟んで四国勢と向かい合った。豊後の国衆(その土地の武士)へも、加勢を求める書状を出していた。

川の西 豊臣方の四国勢

豊臣方の四国勢は、仙石秀久・十河存保・香西・香川ら讃岐の将と、長宗我部信親ら土佐勢からなり、攻められる鶴賀城の対岸に陣を構えた。9月12日に府内へ着いてから、ちょうど3か月後の布陣だった。

待つはずだった本隊 到着を待たずに、川へ向かった

仙石秀久は12月、秀吉の本隊の到着を待たずに軍を進めた。秀吉が自ら九州へ下るのは翌1587年になる。なぜ本隊を待たなかったかは、史料では確定できない。

中津留河原——渡河した四国勢が崩れ、二人の将が討たれた

豊臣方は川を渡って攻めかかった。しかし作戦の失敗から島津軍の猛攻を受け、軍略のまさった島津軍に敗れて退却した。戦場は、戸次河原とも中津留河原とも呼ばれる大野川の河原になる。

指揮の分断 元親の消息も分からなくなった

猛攻の中で四国勢の指揮系統は分断された。乱戦の中で元親の消息も分からないまま、信親は孤立する。味方が総崩れになると、仙石秀久は単独で敗走した。

長宗我部信親、討死 河原にふみとどまった

長宗我部信親は1565年生まれの元親の長男で、身長6尺1寸(約185センチ)と体格にも優れ、家中の信望も厚く、父の期待は絶大だったと伝わる。中津留河原にふみとどまり、信長から拝領したと伝わる左文字(刀工の名)の太刀を振るって戦った末に討死した。享年22。

十河存保、戦死 讃岐の将が多く討たれた

十河存保は、この戦いで討たれた。前年の1585年7月に仙石秀久が秀吉から讃岐を与えられたとき、そのうち2万石は存保の支配とされていた。9月に秀久とともに府内へ着いた讃岐の軍勢3000余人のうち、存保のほかにも多くの武将が戦死した。

元親、府内へ 拝領の馬に乗って逃れたと伝わる

『土佐物語』によると、長宗我部元親は主従わずか21騎まで減り、馬を捨てて敵陣に斬り込もうとした。そこへ戦場から愛馬の内記黒が駆けてきて、家臣が「これぞ家運の尽きぬしるし」と喜んで元親を乗せ、敵中を突破して府内へ逃れたという。内記黒は、秀吉から拝領した馬と伝えられる。

失われた兵 土佐勢3000余人のうち700余人

讃岐勢とは別に、長宗我部軍は総勢3000余人のうち700余人(500人とする説もある)が戦死したとされる。

府内炎上——国際貿易都市が焼かれた

戸次川で先発隊が崩れると、島津軍は下流の府内へ入った。府内は大友宗麟おおとも そうりんが育てた南蛮貿易の町で、大友館を中心に、40あまりの町に5,000軒が並んでいたと記録される。

検証 館が焼けたことは、掘って確かめられている

大友館の跡の発掘調査では、館の建物が1586年に島津氏の侵攻で焼かれるまで建て替えを重ねていたことが分かっている。

6年で終わった学校 府内のコレジオ

府内のコレジオ(宣教師が開いた高等教育の学校)も、島津軍の府内侵攻で幕を閉じた。開かれてから6年という短さだった。

讃岐没収——負けた将は、10日ほどで国を失った

秀吉は仙石秀久を処分した。本隊を待たずに軍を進めたことが軍令違反とされ、秀吉の怒りを買った。

12月22日 讃岐国の没収

仙石秀久は12月22日、戸次川での不覚を責められて讃岐国を没収された。

12月24日 2日後には次の国主が決まった

讃岐は12月24日、尾藤知宣に与えられた。知宣は翌1587年1月に讃岐へ入る。

戸次川が残したもの

勝った島津軍は府内まで進み、九州制覇を目前にした。しかし翌1587年、宗麟の救援のために九州へ下った秀吉に日向の根白坂(今の宮崎県木城町)で敗れ、降伏した。

跡継ぎを失った家 長宗我部氏の後継争い

信親を失った元親の落ち込みはひどかったと伝わる。信親の死後、長宗我部家では後継争いが起きた。

讃岐の国主 2年で3人代わり、2人は九州で失った

讃岐は仙石秀久の没収のあと尾藤知宣に与えられたが、その知宣も翌1587年6月、根白坂の合戦で秀吉の怒りを買って讃岐を没収される。8月10日、讃岐は生駒親正いこま ちかまさに与えられた。秀久から数えて2年のうちに、国主が3人代わった。

敗軍の将の再起 高野山から小諸5万石へ

仙石秀久は改易(領地の没収)ののち、高野山へ追放された。1590年の小田原攻めに際して徳川家康とくがわ いえやすに頼んでその陣に加わり、わずかな旧臣とともに参戦して武功を挙げ、信濃の小諸に5万石を与えられる。

二つの墓 討った側が、最初に葬った

長宗我部信親の遺体は、討った島津軍によって手厚く葬られた。後に元親は家臣と僧侶を送って遺骸を火葬し、大分に墓碑をつくったと伝わる。遺骨は浦戸(今の高知市)の寺に葬られ、長宗我部氏の滅亡後に高知市長浜の雪蹊寺せっけいじへ移されたと伝えられる。

戸次川の戦いの疑問に答える

資料によって「1586年」とも「1587年」とも書かれるのはなぜ?

大分市は合戦を天正14年12月12日とし、西暦では1587年1月20日にあたる。年の瀬の戦いなので、和暦の年をそのまま西暦に置き換えれば1586年、日付まで換算すれば1587年になり、ここで1年ずれる。

合戦の日が12月12日とも13日とも書かれるのはなぜ?

大分市は12月12日を合戦の日とし、香川県史の年表は12日に四国勢が竹中山へ陣を敷き、13日に戦って大敗したとする。合戦の日は、記録によって割れている。

大友宗麟はこのとき何をしていた?

臼杵湾の丹生島城(今の大分県臼杵市)にいた。宗麟は1562年にこの城を築き、府内の館から移り住んでいた。戸次川の戦いと同じ1586年、島津家久を大将とする島津軍が丹生島城を落とすため臼杵へ攻め寄せたとき、宗麟は先年手に入れたばかりの大砲「国崩」を持ち出して撃たせ、玉が当たった柳の大木が倒れ、島津軍に多くの死傷者が出たと伝わる。

現地に何が残っている?

大野川沿いでは、大南大橋のそばに戸次川古戦場跡があり、大分市南部には長宗我部信親の墓がある。東岸の山上(今の大分市中戸次)には、鶴賀城跡の土塁や堀がよく残る。高知市長浜には、雪蹊寺の信親の墓と、信親に付き従って戦死した将兵を供養する戸次川合戦戦没者供養塔、元親を救った内記黒の墓と伝わる愛馬の塚(若宮八幡宮)がある。

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参考にした資料