1526〜1603年 / 讃岐国主・高松城・三中老

生駒親正

生駒親正は、秀吉から讃岐一国を与えられ、高松城を築いた人物です。海に面した高松を城下の中心に選んだことは、四国を治めるだけでなく、瀬戸内の交通と結びつく戦略でもありました。晩年に三中老に数えられた点も、豊臣政権の幅を知る手がかりです。

この人物を最初に理解する

讃岐一国と高松城を任された三中老。瀬戸内の海と城下を結ぶ人物

  • 織田信長・豊臣秀吉に仕え、1587年に讃岐一国を与えられた。
  • 1588年ごろから高松城の築城を始め、城下町の基礎をつくった。
  • 秀吉晩年には堀尾吉晴・中村一氏とともに三中老に数えられる。
  • 関ヶ原では親正と子の一正で行動が分かれ、生駒家は存続した。
  • 高松城は瀬戸内海に面する水城として、海と城下を結ぶ拠点になった。

何をした人物か

親正は美濃出身で、織田信長、ついで豊臣秀吉に仕えました。秀吉が1587年に九州を平定した後、親正に讃岐一国を与えたことは、四国を豊臣政権に組み込む領地再編の一部です。単に褒美を渡したのではなく、瀬戸内に面する重要地域を誰に任せるかという配置でした。

高松市は、親正が讃岐一国を与えられ、高松城の大改修を行ったことを紹介しています。高松城は海に面し、海水を取り入れた堀を持つ城として知られます。港町「野原」が栄えた地域に城を置くことで、軍事・海上交通・城下町を一つにまとめる意図を読むことができます。

親正は秀吉晩年に三中老に数えられます。五大老や五奉行ほど固定した制度として捉えすぎることはできませんが、堀尾吉晴、中村一氏とともに、政権の大名層と奉行層の間を支える有力者と見なされたことは重要です。高松の地域支配と中央政権の立場は、親正の中で重なっていました。

関ヶ原では親正と子の一正の行動が分かれます。高松市の墓所解説は、親正が敗戦後に出家し、子の功もあって高松城に戻ったと伝えます。個人の勝敗だけでなく、家がどう生き残り、地域の統治を続けたかまで追うと、親正の後半生が見えてきます。

年表で追う

1587年
讃岐一国を与えられる

九州平定後の領地再編で、瀬戸内の要地を預かります。

1588年ごろ
高松城の築城

海に面する高松に城と城下町を整えます。

1590年代末
三中老に数えられる

秀吉晩年、政権の調整に関わる有力者となります。

1600年以後
関ヶ原後の生駒家

親正は出家し、子の一正を通じて家は高松に残ります。

この人物を読み直す視点

讃岐一国

四国平定後に豊臣政権が行った領地再編の一例。

高松城

海を防御と交通に利用する瀬戸内の水城。

三中老

五大老・五奉行だけではない豊臣政権の調整層。

父子の関ヶ原

家臣団と家の存続を、個人の陣営選択だけで見ない。

戦国・豊臣政権での意味

親正のページからは、豊臣政権が四国をどう支配へ組み込んだかが分かります。高松城は島と海路につながる城であり、讃岐一国を統治する行政の中心でもありました。

また、三中老として堀尾・中村と並べると、秀吉晩年の政権が大老と奉行だけで成り立っていたのではないことが見えます。地域を持つ大名が、中央の安定にも関わっていました。

読み違えないために

親正を三中老という一つの固定役職だけで説明しません。その構成や実際の権限には議論があるため、秀吉晩年の政権で親正が有力な調整役とみなされたことを理解する呼び名として扱います。

生駒親正から次に読む

参考にした資料