生駒正俊は何を担ったか
- 祖父・親正は豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた。
- 父・一正の後を継ぎ、1610年から高松を治めた。
- 高松城は海に開く讃岐支配の中心だった。
- 正俊の短い治世の後、子・高俊へ家督が継がれた。
生涯を通して見る
生駒正俊は、豊臣政権による四国再編のあとに讃岐一国を与えられた生駒親正の孫です。高松城と城下は親正・一正の時代から整えられ、正俊はそれを受け継ぐ三代目でした。個人の大合戦よりも、政権交代後に城下と家臣団を安定させる仕事が中心になります。
関ヶ原後、生駒家は高松を保ちました。正俊が当主となった1610年は、豊臣政権の終わりと徳川政権の定着が進む時期です。正俊を通じて見ると、豊臣が置いた地方大名が、徳川初期にそのまま地域の担い手として続く場合があったことが分かります。
高松城は瀬戸内海へ開く海城で、城・港・町を組み合わせて讃岐を治める中心でした。正俊の治世は短いですが、祖父の配置、父の継承、子の時代へとつながる連続性を押さえることで、豊臣期から江戸期への変化が見えます。
年表で追う
1587年
生駒家が讃岐へ
祖父親正が豊臣秀吉から讃岐一国を与えられる。
1601年
父一正が継ぐ
関ヶ原後も生駒家は高松を保つ。
1610年
正俊が家督を継ぐ
高松城主として讃岐を治める。
1614〜15年
大坂の陣の時代
徳川政権の定着のなか、讃岐の領主として家を支える。
1621年
死去
子高俊が家督を継ぐ。
この人物を読む四つの視点
三代で見る生駒家
親正・一正・正俊をつなぐと、領国が世代ごとに継承されたことが分かる。
高松城と瀬戸内
海城・港・城下を一体で使い、讃岐の人と物を集めた。
豊臣から徳川へ
主家が替わっても、地域の領主がそのまま残る場合があった。
短い治世
長期の改革より、継承を安定させる仕事に意味がある。
読み違えないために
正俊自身の史料は祖父・親正や父・一正ほど多くありません。このページでは、後世の高松城下の完成像を正俊一人の功績にせず、三代にわたる継承として説明しています。