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生駒一正いこまかずまさ

生駒一正とは?

生駒一正は、関ヶ原の戦いで父と立場を分けて東軍につき、戦後に讃岐一国を安堵あんど(そのまま所領を認められること)されて、慶長6年(1601)から今の香川県高松市にある高松城の2代目城主を務めた武将です。

弘治こうじ元年に生まれます。父の生駒親正が讃岐一国を与えられ、高松城を築いた家の跡取りでした。
慶長5年の関ヶ原の戦いで、父・親正は西軍に、一正は東軍に加わります。父子が敵味方に分かれたまま、天下分け目の戦いを迎えました。
戦後、一正は讃岐一国を安堵されます。慶長6年、父に代わって高松城主となり、慶長15年(1610)までの9年間、讃岐を治めました。
西軍について敗れた父は高野山で出家していましたが、子・一正の功もあって徳川家から許され、高松城に帰ります。慶長8年2月13日に没しました。
慶長14年、一正は父母の墓塔として大型の五輪塔を建てます。置かれた弘憲寺こうけんじ(今の香川県高松市錦町)も、一正が別の場所から移して開いた寺でした。
慶長15年に一正が没し、子の正俊が3代目の高松城主を継ぎます。生駒家の讃岐支配は4代54年におよび、孫の代に終わりました。

生駒家の跡取り——父が讃岐一国を与えられたとき、一正は30代前半だった

生駒一正は弘治元年(1555)に生まれた。父は生駒親正で、織田信長おだ のぶながと豊臣秀吉とよとみ ひでよしに仕え、天正15年(1587)に讃岐一国を与えられた。このとき一正は32歳だった。親正は翌年から数年かけて高松城を築き、それまで「野原」と呼ばれていた土地の名を「高松」と改めている。一正はその領国と城を引き継ぐ立場にあり、父とともに各地を転戦したと記録されている。ただし、どの戦いのどの場面に加わったかまでは、公的資料には記述がない。

父の代の讃岐 城も城下も、一正が継ぐ前に形ができていた

天正15年(1587)の讃岐拝領から一正が城主になる慶長6年(1601)までの14年間、讃岐を治めたのは親正である。高松城は瀬戸内海に面した城で、今治城・中津城と並んで日本三大水城の一つに数えられる。城の姿も城下の地名も親正の代の事業にあたり、一正はできあがった形を受け取る側にいた。

分かる範囲 経歴は、父の動きと重ねて記録されている

一正個人について残る記述は多くない。生年は弘治元年(1555)、没年は慶長15年(1610)、城主期間は慶長6年(1601)から慶長15年(1610)までの9年間である。事跡として挙げられるのは、関ヶ原の戦いで東軍に加わったこと、讃岐一国を安堵されたことの二つに絞られる。

父と分かれた関ヶ原——西軍の父、東軍の子

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、生駒家は二つに分かれた。父・親正は西軍に参加し、子・一正は東軍に参加している。二人が分かれた理由を説明する記述は、高松城と生駒家について公開されている資料には見当たらない。ただ、東軍についた一正の実績が、戦後の処分を左右した。

西軍・生駒親正 敗れて高野山に登った

親正は西軍に加わって敗れた。戦後は高野山に登り、髪をそり落として仏門に入り、ひたすら罪を謝したと伝えられている。豊臣秀吉に仕えた大名として西軍側に立ったこの立場は、本来なら家の所領を失う結果につながるものだった。

東軍・生駒一正 家の所領を守った参加

一正は東軍に加わった。戦いのどの局面で働いたかは伝わらないが、東軍についた一正の実績があったことで、生駒家は徳川方に示せる材料を持った。父が敗軍の側にいながら讃岐一国が家に残ったのは、この一正の立場によるものとされる。

讃岐一国と高松城——安堵され、父に代わって城主になった

関ヶ原の戦いのあと、一正は讃岐一国を安堵された。慶長6年(1601)、一正は父に代わって高松城主となり、生駒家2代目の城主として讃岐を治めた。

安堵の意味 家が丸ごと残った

生駒家の場合、当主だった親正は西軍に属していたが、讃岐一国はそのまま一正に引き継がれている。国替えも減封もなく、父の代の領国が丸ごと次の代に渡った形である。

9年間 城主として過ごした年月

この9年間に高松城で大きな工事があったという記述は、確認した資料には見当たらない。天守の改築や曲輪の新造が行われるのは、生駒家のあとに高松へ入った松平頼重の代からである。

父の帰城と死——出家した親正が、高松城に戻った

高野山で出家していた親正は、子・一正の功もあったため、徳川家から許されて高松城に帰った。親正が没したのは慶長8年(1603)2月13日で、一正が城主になってから2年後にあたる。

弘憲寺の墓塔——父母の墓を建て、そのための寺を移した

慶長14年(1609)、一正は父母の墓塔を建てた。場所は弘憲寺(今の香川県高松市錦町)の本堂の西隣にある境内墓地で、二基の大型の五輪塔ごりんとう(五つの石を積み上げた形の塔)が並ぶ。向かって右が親正の墓で総高3.09メートル、左の夫人の墓も似た形で2.9メートルある。石材は白色の角礫凝灰岩かくれきぎょうかいがんである。この墓所は昭和30年(1955)に県の史跡に指定された。

消えた刻銘 建てた年と建てた人が、石に刻まれていた

二基の五輪塔は、どちらも地輪ちりん(五輪塔のいちばん下にある基礎の石)の前面に、法名と、慶長14年(1609)に嗣子しし一正が建立したという刻銘があったと記録されている。その文字は今では風化して剥落し、消えている。一正が建てたと分かるのは、こうした刻銘があったと伝えられているためである。

移された寺 弘憲寺そのものを、一正が用意した

弘憲寺は、綾歌郡飯山町にあった旧法勲寺ほうくんじを一正がこの地に移して開いた寺である。父母の墓塔を建てるにあたり、一正は塔を置く場所そのものを城下に用意した。初代高松城主の墓所として、寺は今も高松市錦町にある。

家督は正俊へ——4代54年の、二番目の代

慶長15年(1610)、一正は没した。家督かとく(家の跡目)を継いだのは子の生駒正俊で、3代目の高松城主として元和7年(1621)まで在任した。正俊は大坂冬の陣・夏の陣に参加し、大坂城の普請にも加わっている。一正自身は大坂の陣が始まる4年前に没しており、この戦いには関わっていない。

4代54年 親正・一正・正俊・高俊

生駒氏の讃岐支配は、天正15年(1587)の拝領から寛永17年(1640)まで4代54年におよんだ。一正はその二番目の代にあたり、在任9年は4人のうちで最も短い。生駒氏はもともと美濃国可児郡土田の出身で、讃岐は豊臣秀吉から与えられた新しい土地だった。

孫の代の終わり 生駒騒動で、領地を失った

4代・高俊の代に、家臣団同士の争いである生駒騒動が起こった。寛永17年(1640)、領地は没収され、堪忍料として出羽国矢島1万石が与えられている。高松には寛永19年(1642)に松平頼重が東讃12万石で入り、以後11代続いた。

生駒一正の疑問に答える

関ヶ原で、一正はどこを戦った?

東軍に参加したところまでが記録されており、どの戦線でどう働いたかについては、公的資料には記述がない。世の中に流れている個別の戦いの話は、裏づけを確かめられないため、このページには載せていない。

生駒騒動で領地を失ったのは、一正?

領地を失ったのは孫の代である。生駒騒動が起きたのは4代・高俊の代で、一正の代の讃岐一国は安堵されたままだった。一正は慶長15年(1610)に没しており、この争いには関わっていない。

一正のあと、生駒家は何をした?

3代目を継いだ生駒正俊が、大坂冬の陣・夏の陣に参加し、大坂城の普請にも加わった。一正の代は関ヶ原と大坂の陣の間の9年にあたり、大坂の陣に生駒家として動いたのは正俊である。一正の名前で大坂の陣を語る記述を見かけたら、代を取り違えている。

高松城は、一正が築いた城?

築いたのは父の親正である。天正15年(1587)に讃岐一国を与えられた親正が翌年から数年かけて築き、地名も「野原」から「高松」に改めた。一正は完成した城を引き継いで治めた側にあたる。なお、水攻めで知られる備中高松城(今の岡山県岡山市)は讃岐の高松城とは別の城で、場所も築いた勢力も異なる。

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参考にした資料