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城攻めと籠城しろぜめとろうじょう

城攻めと籠城とは?

城攻めとは城を囲んで補給を断つ戦い、籠城とはその中で援軍(後詰ごづめ)を待つ戦いのことです。城を明け渡すことを開城、攻め破られることを落城と書き分けます。といっても、力ずくで攻め落とす場面はまれでした。多かったのは、城の周りに何十もの城を築いて何か月も囲み、城主の命と城兵の助命を交換して明け渡させる決着です。

兵を突入させて短期で決める攻め方です。攻める側には守る側の10倍以上の兵が要るといわれました。
攻める側は、城の周りに自分の城を築いて道をふさぎます。1578年からの三木城攻めでは約40か所が築かれました。
城へ食料が入る道と港を押さえ、中の食料が尽きるのを待ちます。三木城は1年10か月囲まれました。
堤を築いて川の水を引き込みます。1582年の備中高松城、1585年の太田城、1590年の忍城で行われ、忍城では堤が決壊しました。
城の中と周りの人を味方につけます。1572年、武田信玄たけだ しんげんは二俣城を攻める前に、在地の土豪へ調略を命じました。
籠城側は味方の援軍を待ちます。1580年、武田勝頼たけだ かつより高天神城に後詰をしないと決めたと伝わり、城は翌年落城しました。
城主の命と城兵の助命を交換して明け渡すのが開城、攻め破られるのが落城です。高天神城では7年の間に両方が起きました。
1615年、大坂夏の陣大坂城が落城します。同じ年の一国一城令で、三木城は廃城になりました。

力攻め——短期で決まる代わりに、攻める側が最も損をする

力攻めは、攻める側の損が大きい。だから戦国の城攻めでは、正面から突撃する場面が少なかった。城の近くへ「陣」を構えて囲む城攻めそのものは、南北朝の時代から行われていた。

仕組み 攻める側には、守る側の10倍の兵が要るといわれた

攻城戦では、攻める側の兵力は守る側の10倍以上が必要といわれる。1540年から翌年にかけての吉田郡山城(今の広島県安芸高田市)の戦いがその例で、尼子の攻城軍と毛利の籠城軍の兵数は概ね10対1だったと伝わる。

実例 1574年、武田勝頼は2万騎で曲輪を一つずつ落としたが、城は攻め破れなかった

武田勝頼は1574年5月、2万騎と伝わる兵で高天神城(今の静岡県掛川市)を攻めた。曲輪くるわ(城の中を区切った区画)を外側から順に落とす攻め方で、5月28日には本曲輪・二の曲輪・三の曲輪を残すだけになり、6月10日には堂の尾曲輪も落ちた。それでも城は攻め破れず、開城したのは1週間後の6月17日だった。

実例 1582年、羽柴秀吉は兵の消耗を避けて長期戦を選んだ

羽柴秀吉(豊臣秀吉)は1582年、備中高松城(今の岡山市北区)を攻めたとき、兵の消耗を避けて長期戦に持ち込もうとした。城を力で押さず、堤を築いて水で囲む工事に切り替えている。

付城と陣城——攻める側が、まず自分の城を建てる

攻める側は、突撃より先に築城を始めた。敵の城の周りに攻める側が築いた城は、付城つけじろとも陣城とも呼ばれる。囲む城の数と、その間をつなぐ土塁が、包囲の強さを決めた。

実例 三木——約40か所の付城を、土塁でつないだ

三木城(今の兵庫県三木市)を1578年から1580年にかけて攻めた織田方は、東西約6キロ・南北約5キロの範囲に約40か所の付城を築いた。遺構がはっきり確認できるものは24か所で、21か所が今も残る。南側では付城の間を約5.5キロの土塁でつなぎ、番屋・堀・柵を置いて、三木と明石浦の魚住うおずみを結ぶ通路をふさいだ。

実例 鳥取——本陣も城だった

鳥取城(今の鳥取県鳥取市)を1581年に攻めた羽柴秀吉は、7月12日に城の東の山に着陣し、ただちに陣城の構築にかかった。本陣の太閤ヶ平は鳥取城の東1.5キロの山頂にあり、一辺約50メートルの内郭を大きな土塁と空堀が囲み、鳥取城に向く側には総延長700メートルの二重の堀を備えていた。

守る側 1574年、有岡城は城下の町ごと堀と土塁で囲んだ

有岡城(今の兵庫県伊丹市)は、1574年11月にこの城へ入った荒木村重あらき むらしげが有岡城と改名し、大きく造り替えた。東西800メートル・南北1700メートルを堀と土塁で囲み、城の中心・侍町・町屋の三つの区域からなっていた。城下の町まで囲むこの構えを惣構そうがまえ(総構とも書く)と呼ぶ。有岡城は1578年の秋に囲まれ、10か月の籠城の末に落城した。

兵糧攻め——城へ入る道と村を押さえて、中の食料を尽きさせる

兵糧攻めひょうろうぜめは、城へ食料が入る道と、その道沿いの村や港を押さえ続ける戦い方だ。三木では、毛利方が明石浦の魚住から兵糧を運び込もうとし、織田方は付城の間の通路をふさいで止めた。この兵糧攻めは「三木の干し殺し」と呼ばれる。

  • 1578年3月——三木城主の別所長治が織田方を離れ、三木城に籠もる。織田信忠おだ のぶただが平井山ノ上付城などを築く。
  • 1578年6月以降——毛利方の魚住からの兵糧の運び込みが本格化する。
  • 1580年1月17日——別所長治ら一族が自害し、三木城が開城する。包囲は1年10か月に及んだ。

実例 鳥取——「渇え殺し」と呼ばれた

鳥取城の兵糧攻めは1581年、羽柴秀吉が2万ほどの兵を率いて行い、「鳥取城渇え殺し」とも呼ばれた。城は10月25日に開いた。

仕組み 食料の代わりに、水を断つ

武田信玄は1572年11月、二俣城(今の静岡県浜松市天竜区)を攻めた。城はよく抵抗したが、天竜川から汲み上げていた水の手(城の飲み水の取り口)を断たれて開城した。

水攻め——堤で囲む三つの実例と、決壊した一つ

水攻めみずぜめは、堤を築く土木工事だった。1582年、羽柴秀吉は備中高松城の南側に堤を築いて足守川の水を引き込み、城を水で囲んだ。

実例 備中高松——堤の実物は、幅26.5メートル・高さ5メートル前後

備中高松城の堤は、発掘調査で当初の築堤幅が26.5メートル、高さが5メートル前後と推定された。北側は土を詰めた俵を積み、南側はむしろ状の編み物の上に直接土を盛っていた。全長約3キロを12日間で築いたと伝わるが、実像には諸説がある。

仕組み 備中高松——もう一つの導水工事が、中断して残った

秀吉方は同じとき、城の北東約3.4キロにある龍王山の麓で峠を切り開き、鳴谷川なるたにがわからも水を引こうとした。全長約410メートル・最大約9メートル掘り下げる計画だったが、約90メートルを掘り残したところで足守川が増水して城を囲む水が足り、工事は中断した。

実例 太田——全長5〜7キロの堤を、二種類の盛土で築いた

羽柴秀吉は1585年、太田城(今の和歌山県和歌山市)を水攻めにした。堤は全長約5〜7キロと復元され、山の形に盛った土と水平に盛った土を併用する工法だったことが、2021年の発掘で確かめられた。

失敗 忍——堤が決壊し、城は北条の降伏で開いた

石田三成いしだ みつなりは1590年6月、忍城(今の埼玉県行田市)を水攻めにするため、元荒川の自然堤防などを利用して堤を築いた。全長28キロを一週間で作ったといわれる。水は地形の関係で城下町より下忍しもおし堤根つつみねの方面に溜まり、堤は決壊して水攻めは失敗した。忍城が開いたのは、小田原北条氏が降伏したためだった。

調略——攻める前に、城の中と周りを味方にする

調略ちょうりゃくとは、敵の城の中や周りの人に働きかけて、戦わずに味方へ引き入れることだ。

仕組み 城攻めの前に、周りの土豪へ命じる

武田信玄は1572年10月10日、在地の土豪どごう(その土地に根を張った小さな武士)に二俣城への調略を命じた。城攻めが始まったのは、その翌月の11月だった。

実例 城主ごと味方にすれば、城は戦わずに手に入る

徳川家康とくがわ いえやすは1565年8月、高天神城の城主・小笠原氏助うじすけを調略した。氏助がなぜ徳川方についたのかは、史料では確定できない。

後詰——籠城側が待っていたのは、味方の援軍だった

籠城とは、待つ戦いだ。城に籠もる側は、味方の援軍が来て、囲んでいる敵を外から攻めてくれるのを待っている。

仕組み 後詰が来れば、籠城側が勝つ

吉田郡山城で10対1の尼子軍に囲まれた毛利方には、大内の後詰が来た。籠城側が勝ったのは、そのためだとされる。

間に合わなかった 1574年、信長の後詰は吉田城までで終わった

織田信長おだ のぶながは1574年6月14日、高天神城の後詰のために岐阜城を出発した。三河の吉田城に着いたのは6月17日で、高天神城はその日に開城していた。

送られなかった 1580年、勝頼は後詰をしないと決めた

高天神城の城番・岡部元信は1580年の夏、武田勝頼に後詰の援軍を求めたと伝わる。同じ年の9月、勝頼は甲斐で、高天神城に後詰をしないと決めたと伝わる。勝頼がなぜ後詰を送らなかったのかは、史料では確定できない。

仕組み 攻める側は、後詰に備えて背後にも城を築いた

羽柴秀吉は1581年、鳥取城の西側、袋川の周辺に30あまりの陣城を築かせた。堀・塀・柵で各陣城を隙間なくつなぎ、鳥取城を囲むだけでなく、背後から毛利の援軍が来て「後詰めの戦い」になった場合を想定した構造と考えられている。織田信長は毛利本隊が来た場合に自ら出陣すると明言していたが、毛利軍は因幡へ進軍しなかった。

開城と落城——城主の命と、城兵の助命の交換

高天神城では、7年の間に両方が起きた。同じ城の1574年と1581年を、国の解説文は「攻略・開城させ」と「包囲攻撃を受けて落城した」と書き分けている。

開城 1574年、高天神城は明け渡されて武田の城になった

高天神城は1574年6月17日に開城し、そのまま武田方の城になった。守っていた側が何を条件に城を開いたのかは、史料では確定できない。城を失った徳川家康が取り返すまでに、7年かかった。

落城 1581年、高天神城は攻め破られて城兵の大半が死んだ

高天神城は1581年3月22日に落城した。それより前の1月、城番の岡部元信は矢文やぶみ(手紙を結びつけた矢)で降伏の意向を徳川方へ伝えていた。3月22日、元信をはじめとする城内の軍勢が討って出て、元信以下、大半の城兵が戦死した。

城(開城の日)何と引き換えに城が開いたか
三木城(1580年1月17日)城兵と領民の命を救うため、城主の別所長治ら一族が自害した
備中高松城(1582年6月4日)領地の譲歩と城兵の助命を条件に、城主の清水宗治が自刃して和睦が成立した
小田原城(1590年7月9日)北条氏直ほうじょう うじなおが7月5日に降伏して城を明け渡し、氏政と氏照が切腹、氏直は高野山へ追放された

城攻めが残したもの——惣構・物量・そして城が消える

三木の包囲は、広い範囲に堅固な包囲網を築いた最初の事例と評価されている。城を落とすために、城より大きな城を築く。戦国の後半の城攻めは、この物量の戦いへ変わっていった。

遺産 攻める側の城が、国の史跡として残った

太閤ヶ平は史跡鳥取城跡の一部として、三木の平井山ノ上付城跡は「三木城跡及び付城跡・土塁」として、小田原を攻めた石垣山は単独で、それぞれ国の史跡になっている。

遺産 守る側は、町ごと囲むようになった

有岡城に続いて、小田原城(今の神奈川県小田原市)は1590年までに城と城下を囲む総構を築き、堀と土塁の総距離は9キロに及んだ。深さ約12メートルの大堀切が今も残る。大坂城(今の大阪市中央区)の惣構は1594年に築かれ、方2キロ(一辺約2キロの四角)に及んだ。

終わり 1615年、城そのものが減った

大坂城は1614年の大坂冬の陣の和議で惣構と外堀を埋められ、翌1615年の大坂夏の陣で落城し、焼亡した。同じ年の一国一城令によって、1580年の開城のあとも使われ続けていた三木城は廃城になった。

城攻めと籠城の疑問に答える

なぜ、春や梅雨に城攻めが止まるのか?

種まきと雨の都合だった。1581年、羽柴秀吉の因幡への出陣は2〜3月の予定が6月にずれた。その理由を秀吉自身は、種まきの時期の進軍は控えてほしいという現地の要請があったためと述べている。織田信長も、梅雨が明けるまでは出陣しないと答えていた。

付城・陣城・向城は、どう違う?

「陣」は臨時で仮設の軍事施設を指し、城攻めのために敵の城の近くに構えた陣は「向陣」とも呼ばれ、「向城」という表現も実態はほとんど同じとされる。付城との厳密な使い分けは、史料では確定できない。

攻める側が勝った籠城戦も、あった?

あった。月山富田城(今の島根県安来市)は二度囲まれ、結果が分かれた。大内が尼子のこの城を囲んだ1541年からの第一次月山富田城の戦いでは籠城側が勝ち、毛利が同じ城を囲んだ1565年からの第二次月山富田城の戦いでは攻城側が勝った。兵数はいずれも軍記が伝える数で、諸説がある。

水攻めの堤は、今も残っている?

三つとも一部が残る。備中高松の蛙ヶ鼻かわずがはなの築堤跡は高松城水攻め史跡公園にあり、鳴谷川の工事の跡は県の史跡になっている。太田城の堤は出水に長さ66メートルが残り、2023年に県の史跡になった。忍城の石田堤は約282メートルが残り、1959年に県の史跡になっている。

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参考にした資料