高天神城とは?
城のかたち——東の峰と西の峰が、それぞれ城になる
高天神城は、掛川市の中央にある小笠山から南東へ張り出した鶴翁山(標高132メートル)に築かれた山城である。詳しい築城の時期は分かっていない。城の中央には井戸曲輪(城内を平らにならした区画)があり、それをはさんで、東の峰に本丸など四つの曲輪、西の峰に堂の尾曲輪など四つの曲輪が並ぶ。ひとつの山の上に、曲輪の群れが二組そろっているわけである。
一城別郭 峰ごとに城が成り立つ
東西の峰は、城として使われていたあいだ、それぞれ単独でも城として働く造りだった。この造りは、俗に「一城別郭」と呼ばれている。片方の峰が破られても、もう片方がまだ城として残る。
位置 東海道から南へ入った先
高天神城は、東海道の掛川から南へ約8キロメートルの地にある。戦国時代の後半、この城は遠江の要地にあり、甲斐から西へ出ようとする武田氏にとっても、三河から東へ伸びようとする徳川氏にとっても、素通りできない場所だった。
今川から徳川へ——支城が、最前線に変わる
室町時代、高天神城は遠江を領有していた今川氏の支城(本城を支える出先の城)として働いていた。16世紀の初頭には、今川氏の家臣である福島氏が城主だったことが分かっている。1536年の花倉の乱(今川家の家督をめぐる内紛)で福島氏が没落し、そのあとは小笠原氏が城主になったとされる。1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、従軍していた小笠原氏興は、この城へ敗走した。
1565年と1568年 家康、二度の調略
徳川家康は1565年8月と1568年12月の二度、城主の小笠原氏助に調略(味方へ引き入れる働きかけ)をしかけている。城が今川氏の手を離れていく流れは、戦がここへ及ぶより前に、こうした働きかけから始まっていた。
永禄年間 武田と向き合う城になる
高天神城は永禄年間(1558〜70年)に徳川氏へ帰属し、以後、西へ攻め上がろうとする武田方と向き合う城になった。今川氏を後ろで支えていた城が、武田と徳川が正面からぶつかる最前線へ、役目を変えた時期にあたる。
一度目の争奪——1574年、包囲の末に城が開く
1574年5月、武田勝頼が大軍を率いて来攻した。軍勢は2万騎だったと伝わる。勝頼は惣勢山に本陣を置いて高天神城を囲み、5月28日には、城方に残るのが本曲輪・二の曲輪・三の曲輪だけという状態まで攻め込んだ。6月10日には堂の尾曲輪も落ち、長期の兵糧攻めの末、城は開かれた。
包囲——横須賀城と砦で、外から締め上げる
奪い返しの手は、城を外から締め上げるやり方だった。1578年7月3日、家康は高天神城を奪還するため横須賀城を築いた。同じ年の10月8日には、城に籠もる武田軍が国安川のあたりで徳川軍と交戦している。そして1580年、家康は高天神城を包囲する砦を築き、監視の体制を強めた。城を落とすための城と砦が、年を追って城のまわりに積み上げられていったことになる。
二度目の争奪——1581年3月22日、討って出る
城を預かる側の記録も残っている。岡部元信は、1579年6月14日に勝頼から高天神城の城番(城を預かる守将)を命じられた武田方の武将である。囲みが固まった1581年、元信は1月25日より前に、矢文(矢に結んで射込む手紙)で徳川方へ降伏の意向を伝えている。そして3月22日、元信をはじめとする城内の軍勢が討って出て、元信以下、大半の城兵が戦死し、織田信長の支援を得た徳川方が高天神城を落とした。国の文化財解説は、1574年の終わり方を「開城」、1581年のこの終わり方を「落城」と、異なる言葉で書き分けている。
高天神城の疑問に答える
「高天神を制す者は遠江を制す」って、どういうこと?
掛川市の解説によれば、戦国時代の後半、この城についてそううたわれたという。遠江を手にしたければ、まずここを押さえなければならない、という意味合いになる。実際に武田氏と徳川氏は、1574年と1581年の二度、この城を本気で奪い合った。ただし、この言い回しが誰の言葉として、いつから伝わるものかまでは、はっきりしない。
岡部元信は、降伏を伝えたのに、なぜ討って出たの?
元信が矢文で降伏の意向を伝えたのは1581年1月25日より前で、城内の軍勢が討って出たのは3月22日である。そのあいだに何があったのかは、史料では確定できない。降伏の条件が折り合わなかったのか、後詰を待ち続けた末の決断だったのか、公的な資料に残るのは、この二つの日付と、その結果だけである。
今、城跡には何が残っている?
東峰の本丸跡をはじめとする主要な曲輪の跡や空堀が今も見られる。1998年から2003年にかけて行われた二の丸ゾーンの発掘調査では、土塁・箱堀・竪堀・堀切・畝堀・小屋掛け遺構・柱穴が確認された。高天神城跡は1975年10月16日に国の史跡に指定され、2007年2月6日には追加の指定を受けている。追加の対象には、南へ延びる尾根を断ち切る大規模な堀切のある部分などが含まれるという。