要点
- 尼子氏の本拠だった。出雲守護・京極氏の守護代として尼子氏が入り、経久が1486年に奪い返してから、尼子氏が山陰・山陽に勢力を広げる中心となった。
- 大内義隆の大軍を退けた。1542〜43年、大内義隆は大軍で富田城を囲んだが、従軍した国衆の寝返りで撤退した。尼子氏の勢いが一時回復した戦い。
- 毛利元就の包囲で開城した。1565年から元就は富田城を包囲し、兵糧を断った。1566年、尼子義久は城を開いて降伏し、戦国大名尼子氏は終わった。
- 毛利・堀尾の城として続いた。毛利氏のもとでは吉川広家が城主となり、関ヶ原後は堀尾吉晴が入った。1611年、堀尾氏が松江城へ移って廃城となった。
- 国の史跡として整備されている。山頂の本丸から山麓の御殿跡まで曲輪が残り、安来市が整備・公開している。
月山富田城は、どう使われてきたのか
- 0115世紀:守護代尼子氏の居城
出雲守護・京極氏のもとで守護代を務めた尼子氏が、富田城を拠点とした。
- 021486年:経久の奪回
守護代を追われていた尼子経久が富田城を奇襲で奪い返し、出雲の実権を握った。
- 031542〜43年:大内義隆の攻囲
西国一の大名・大内義隆が大軍で城を囲んだが、国衆の寝返りで大敗して撤退した。
- 041565〜66年:毛利元就の包囲と開城
元就は城を遠巻きに囲んで兵糧を断ち、翌年、尼子義久が降伏して開城した。
- 051566年以降:毛利氏の城
毛利一門の吉川元春・広家が城主として山陰を治めた。
- 061600〜11年:堀尾氏の城、そして廃城
関ヶ原後に堀尾吉晴が入ったが、松江城の完成とともに廃城となった。
富田城は、なぜ「落ちにくい城」だったのか
- 山全体が城だった。月山の山頂に本丸・二の丸・三の丸を置き、中腹に山中御殿、山麓に居館と城下を配した。攻め手は何段もの曲輪を登らなければならなかった。
- 川と谷に守られていた。飯梨川が城の西を流れ、周囲の谷が天然の堀となった。大軍が陣を敷く平地が少なく、長期の包囲には兵糧の負担が大きかった。
- 落ちたのは兵糧攻めだった。大内氏は力攻めで失敗したが、毛利元就は力攻めを避け、城を遠巻きに囲んで補給を断った。富田城が落ちたのは、城の弱さではなく、周囲の国衆がすべて毛利方に転じたからである。