人物ページ / 1458〜1541年 / 尼子氏当主・出雲守護代・月山富田城がっさんとだじょう

尼子経久あまご つねひさ

尼子経久は、月山富田城を居城とした尼子氏の当主で、戦国大名尼子氏の「国取り」の主役として知られる人物です。出雲守護・京極氏の守護代でしたが、京極氏に背いて守護代を解かれ、1486年に富田城を奪い返したと伝わります。のちに出雲国の支配権を握り、大内氏と争いながら周りの国へ勢力を広げて「雲陽十一州の太守」と呼ばれました。1541年、84歳で亡くなりました。

出雲守護代 1486年 月山富田城を奪回 山陰・山陽へ拡大

尼子経久とは?

  • 守護代を追われた。1484年、父の清貞とともに守護代を解かれ、京極氏に背いたとして月山富田城を追われた。
  • 富田城を奪い返した。1486年、富田城に攻め入って奪い返したと伝わる。
  • 出雲の支配権を握った。1507〜08年に京極氏の当主が相次いで亡くなると、出雲国の支配権を握り、1514年には出雲の軍事的な支配を固めた。
  • 大内氏と争い、周りの国へ。1523年から大内氏との戦いが本格化し、1524年には伯耆・石見の一部と隠岐が勢力圏だった。のちに美作・備中へも攻め込んだ。1541年、84歳で死去。
人物

何をした人物か

経久は、出雲守護・京極氏のもとで守護代を務めた尼子清貞の子です。応仁の乱の後、京極家の内紛が続くなかで、清貞・経久の親子は力を伸ばしました。1484年、親子は守護代を解かれ、経久は京極家に背いたとして富田城を追われます。1486年には富田城に攻め入って奪い返したと伝わります。

1507年に京極材宗、翌1508年に京極政経が亡くなると、経久は出雲国の支配権(「国成敗権」)を握りました。1514年には横田荘の三沢氏を抑え、出雲の軍事的な支配を固めています。

1523年、経久は大内方の安芸国鏡山城を攻め落とし、石見国那賀郡を抑えました。ここから大内義興おおうち よしおき・義隆との戦いが本格化します。1524年の日御崎社の修造の記録からは、出雲に加えて伯耆・石見・隠岐の一部が尼子氏の勢力圏で、安芸・備後・備中にも経久の影響が及んでいたことが分かります。1530年には三男の塩冶興久が反乱を起こしましたが、経久は大内氏・毛利氏などの助けを得て鎮めました。その後は1532年から美作に攻め込み、1536年までに美作・備中を抑えて播磨へ進みました。

1540年、尼子詮久(のちの晴久)が毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻めましたが、翌1541年正月に引き揚げ、備中・備後・安芸・石見の国衆が大内方へ離れました。同じ1541年、経久は84歳で亡くなりました。

年表

年表で追う

  1. 011458年:誕生

    出雲守護代・尼子清貞の子として生まれる。

  2. 021484年:守護代を追われる

    清貞・経久親子が守護代を解かれ、経久は富田城を追われる。

  3. 031486年:富田城を奪回

    富田城に攻め入り、奪い返したと伝わる。

  4. 041508年:出雲の支配権を握る

    京極材宗・政経が相次いで亡くなり、出雲国の支配権を握る。

  5. 051523年:鏡山城を攻略

    安芸国鏡山城を落とし、大内氏との戦いが本格化する。

  6. 061530年:塩冶興久の反乱

    三男・興久の反乱を、大内氏・毛利氏などの助けで鎮める。

  7. 071541年:死去

    84歳。前年から詮久(晴久)が攻めた吉田郡山城から、この年の正月に引き揚げている。

注意点

経久を読むときに気をつけたいこと

  • 富田城の奪回は「伝わる」話。安来市教育委員会の年表も、1486年の奪回を「伝わる」と書いている。細かな経過は言い切らずに読みたい。
  • 「十一州」と領国の範囲は分けて読む。1524年の記録から分かるのは出雲と伯耆・石見の一部、隠岐という勢力圏と、安芸・備後・備中への影響である。国衆を従えて広げた勢力のため、「尼子領国」の範囲そのものは判断できないとされる。
  • 追放は経久一人の話ではない。安来市教育委員会の略年表では、1484年に守護代を解かれたのは清貞・経久の親子とされている。親子は応仁の乱後の京極家の内紛の中で力を伸ばしていた。
  • 戦い方の特徴。『松江市史』では、経久の戦争は周りの予想を超える大胆な戦略と、相手の虚を衝く奇襲的な戦法に特徴があると評価されている。

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参考にした資料