尼子経久とは?
- 守護代を追われた。1484年、父の清貞とともに守護代を解かれ、京極氏に背いたとして月山富田城を追われた。
- 富田城を奪い返した。1486年、富田城に攻め入って奪い返したと伝わる。
- 出雲の支配権を握った。1507〜08年に京極氏の当主が相次いで亡くなると、出雲国の支配権を握り、1514年には出雲の軍事的な支配を固めた。
- 大内氏と争い、周りの国へ。1523年から大内氏との戦いが本格化し、1524年には伯耆・石見の一部と隠岐が勢力圏だった。のちに美作・備中へも攻め込んだ。1541年、84歳で死去。
何をした人物か
経久は、出雲守護・京極氏のもとで守護代を務めた尼子清貞の子です。応仁の乱の後、京極家の内紛が続くなかで、清貞・経久の親子は力を伸ばしました。1484年、親子は守護代を解かれ、経久は京極家に背いたとして富田城を追われます。1486年には富田城に攻め入って奪い返したと伝わります。
1507年に京極材宗、翌1508年に京極政経が亡くなると、経久は出雲国の支配権(「国成敗権」)を握りました。1514年には横田荘の三沢氏を抑え、出雲の軍事的な支配を固めています。
1523年、経久は大内方の安芸国鏡山城を攻め落とし、石見国那賀郡を抑えました。ここから大内義興・義隆との戦いが本格化します。1524年の日御崎社の修造の記録からは、出雲に加えて伯耆・石見・隠岐の一部が尼子氏の勢力圏で、安芸・備後・備中にも経久の影響が及んでいたことが分かります。1530年には三男の塩冶興久が反乱を起こしましたが、経久は大内氏・毛利氏などの助けを得て鎮めました。その後は1532年から美作に攻め込み、1536年までに美作・備中を抑えて播磨へ進みました。
1540年、尼子詮久(のちの晴久)が毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻めましたが、翌1541年正月に引き揚げ、備中・備後・安芸・石見の国衆が大内方へ離れました。同じ1541年、経久は84歳で亡くなりました。
年表で追う
- 011458年:誕生
出雲守護代・尼子清貞の子として生まれる。
- 021484年:守護代を追われる
清貞・経久親子が守護代を解かれ、経久は富田城を追われる。
- 031486年:富田城を奪回
富田城に攻め入り、奪い返したと伝わる。
- 041508年:出雲の支配権を握る
京極材宗・政経が相次いで亡くなり、出雲国の支配権を握る。
- 051523年:鏡山城を攻略
安芸国鏡山城を落とし、大内氏との戦いが本格化する。
- 061530年:塩冶興久の反乱
三男・興久の反乱を、大内氏・毛利氏などの助けで鎮める。
- 071541年:死去
84歳。前年から詮久(晴久)が攻めた吉田郡山城から、この年の正月に引き揚げている。
経久を読むときに気をつけたいこと
- 富田城の奪回は「伝わる」話。安来市教育委員会の年表も、1486年の奪回を「伝わる」と書いている。細かな経過は言い切らずに読みたい。
- 「十一州」と領国の範囲は分けて読む。1524年の記録から分かるのは出雲と伯耆・石見の一部、隠岐という勢力圏と、安芸・備後・備中への影響である。国衆を従えて広げた勢力のため、「尼子領国」の範囲そのものは判断できないとされる。
- 追放は経久一人の話ではない。安来市教育委員会の略年表では、1484年に守護代を解かれたのは清貞・経久の親子とされている。親子は応仁の乱後の京極家の内紛の中で力を伸ばしていた。
- 戦い方の特徴。『松江市史』では、経久の戦争は周りの予想を超える大胆な戦略と、相手の虚を衝く奇襲的な戦法に特徴があると評価されている。
参考にした資料
- 島根県「島根歴史講座 尼子家の『御一家再興』戦争と山中幸盛」講座資料(中野賢治、2021年)(経久の生没年、京極家の内紛の中での清貞・経久の成長、1507〜08年の出雲国の支配権の掌握、1514年の三沢氏の制圧、1523年の鏡山城攻略と大内氏との戦いの本格化、1524年の日御崎社修造の記録にみる勢力圏と「尼子領国」の範囲は判断できないこと、1530年の塩冶興久の反乱、美作・備中への進出、1540〜41年の郡山合戦と国衆の離反、1541年の84歳での死去、『松江市史』による経久の戦い方の評価を記載)
- 安来市教育委員会「安来ふるさと読本(中学校用)」(1484年に経久が京極家に背いて守護代を罷免され富田城を追われたこと、1486年に富田城を奪還したと伝わること、「雲陽十一州の太守」と呼ばれたこと、富田城が経久の居城だったことを記載)
- 安来市教育委員会「月山富田城跡」(月山富田城が尼子氏歴代の居城だったこと、1484年に清貞・経久親子が守護代を解任されたこと、1530年の経久の三男・興久の反乱、1540年の詮久(晴久)による吉田郡山城攻めを略年表で記載)
- 島根県「富田城跡」(富田城が尼子氏の居城で、尼子氏が城主だったころ11か国に勢力をもち大内氏・毛利氏と覇権を争ったことを記載)
- 安芸高田市歴史民俗博物館「毛利氏関係史跡」(吉田郡山城が毛利氏の本拠城だったことを記載)