京極氏とは?
近江源氏佐々木氏から分かれた北近江の守護で、内紛で浅井氏に実権を奪われ、高次が再興して丸亀藩主として続いた家。本家の六角氏は南近江、分家の京極氏は北近江の守護でした。室町幕府では、侍所(京都の警察と裁判を扱う役所)の長官を出す四職の一家に数えられました。江戸時代も大名として続き、明治まで残りました。
当主の流れ
| 当主 | 一言解説 |
|---|---|
| 京極氏信 | 家祖。佐々木信綱の四男で、北近江六郡と京都の京極高辻の館を受けた。 |
| 京極高氏(道誉) | 五代目。足利尊氏に付き、若狭・近江・飛騨・出雲・隠岐の守護になった。 |
| 京極高詮 | 1392年に出雲守護。尼子持久を守護代として富田城に置いた。 |
| 京極持清 | 応仁の乱の当主。東軍に付き、1469年に近江一国の守護になった。 |
| 京極高清 | 持清の孫。家督争いを1505年に収め、上平寺に守護所を構えた。1538年没。 |
| 京極高広(高延) | 高清の長男。1523年に浅井亮政らに立てられて家を継いだ。 |
| 京極高吉(高慶) | 高清の二男。1568年に織田信長に従い、子の高次を人質に出した。 |
| 京極高次 | 高吉の嫡男。1600年の大津籠城で若狭一国を得た。1609年没。 |
| 京極忠高 | 高次の子。1634年に松江へ移り、1637年に跡継ぎなく没した。 |
| 京極高和 | 高次の甥。龍野を経て1658年に丸亀へ移り、宗家を継いだ。 |
| 京極朗徹 | 丸亀藩最後の藩主。1869年に版籍奉還。 |
家のはじまり——佐々木氏の分家が四職に数えられ、本家の六角氏を追い越した
1241年、近江の守護だった佐々木信綱は、所領を息子たちに分けた。三男の泰綱は近江守護の職と南近江六郡、京都の六角東洞院の館を受けて六角氏に、四男の氏信は北近江六郡と坂田郡柏原(今の米原市)の別邸、京都の京極高辻の館を受けて京極氏になる。「京極」の名は、この京都の館の場所から来ている。本家は六角氏で、京極氏は分家だった。
1333年 道誉——番場で北条方を破り、足利尊氏に付いた
京極高氏(道誉)は、後醍醐天皇が隠岐へ流されるときは幕府方の将として付き従ったが、1333年に足利尊氏が挙兵するといち早く駆けつけ、以後は一貫して行動を共にした。同じ年、道誉は伊吹山の寺の僧兵らとともに番場(米原市)で北条方の軍を破り、京都から逃れてきた六波羅探題(幕府の京都の役所)の北条仲時ら430人は番場の蓮華寺で自刃した。本家の六角時信は最後まで北条方に付き、足利方へ転じるときに道誉に仲介を頼んでいる。派手な振る舞いで「婆娑羅大名」と呼ばれた道誉のもとで、本家と分家の力関係はこのとき入れ替わった。
1338年〜 守護職と家格——五か国の守護になり、四職の一家に数えられた
道誉は京極氏として初めて一国の守護(若狭)になり、1338年に近江守護、やがて飛騨・出雲・隠岐の守護も得た。室町幕府のもとで京極氏は、侍所の長官(頭人)を出す赤松・一色・山名・京極の四家、いわゆる四職の一つに数えられた。幕府の重臣の家格で、将軍の宴席に同席できる相伴衆でもあった。四職は役職の名ではなく家の格の呼び名なので、その代の当主が侍所の長官でなくても、京極氏は四職の家であり続けた。
出雲と応仁の乱——遠い国は守護代に任せ、近江では本家と戦った
1392年 出雲——尼子氏を守護代として富田城に置いた
京極氏が道誉の代に得た出雲の守護職は、南北朝のあいだ山名氏との争いになり、1391年の明徳の乱(山名氏が幕府に敗れた戦い)を経てようやく京極氏のものとして固まった。1392年、京極高詮が出雲守護となり、近江の出で京極氏と同じ佐々木氏から分かれた尼子持久を守護代として富田城に入れる。京極氏は近江と京都を本拠にしたため、出雲の現地支配は尼子氏が担った。応仁の乱では、尼子清貞が東軍に付いた京極氏の守護代として出雲の反京極勢力と戦った。その子の尼子経久が、のちに守護の京極氏をしのいで出雲を握る。出雲・隠岐の守護職は、近江で家督争いが続くあいだも一族の京極政経が持っていたが、いつ京極氏の手を離れたかは史料では確定できない。
1467〜1469年 持清——応仁の乱で東軍に付き、近江一国の守護になった
京極持清は、1467年に応仁の乱が始まったとき59歳で、幕府の侍所の長官だった。北近江・飛騨・出雲・隠岐の兵を率いて東軍の細川方に付く。本家の六角高頼は10歳前後で西軍の主力に組み込まれ、佐々木一族の本家と分家が敵味方に分かれた。持清は六角氏の観音寺城を攻めて守護代の伊庭行隆を敗死させ、翌年までに近江一国を制圧した。1469年、幕府は六角氏に代えて持清を近江守護とする。道誉以来、130年ぶりの近江一国の守護だった。
内紛と浅井——家督争いが35年続き、後継争いに割って入った家臣が実権を握った
1470年、持清が病で没した。応仁の乱の最中に持清と子の勝秀を相次いで失った京極家では、勝秀の子でまだ幼い高清をめぐって家督争いが起こる。高清を後見する叔父の政光と、出雲・隠岐の守護だった政経・材宗の父子が対立し、重臣どうしの主導権争いも重なった。
1470〜1505年 家督争い——将軍家と隣国が介入し、高清は何度も北近江を追われた
1470年から始まった争いには、足利将軍家と、隣国の六角・美濃の斎藤・越前の朝倉が介入した。高清は何度も北近江を追われ、敏満寺(多賀町)・三雲(湖南市)・敦賀・坂本・海津(高島市)へ逃れている。1495年には政経が伊吹山の弥高寺から兵を進め、翌年には高清が同じ弥高寺に陣を構えた。1505年の冬、日光寺(米原市)で高清と材宗が和睦し、35年の争いが終わる。
1505年 上平寺——美濃との国境に、守護所と城下町を作った
高清は和睦した1505年、柏原の館を廃し、美濃との国境に近い坂田郡上平寺(米原市)に守護所の京極氏館を構えた。背後の山(標高669メートル)に詰めの城の上平寺城、南に家臣と町人が住む町を置き、近江で最も古い城下町とされる。館には池のある庭園と蔵屋敷があり、周りには若宮・多賀・浅見・黒田ら家臣の屋敷が並んだ。住まいと儀礼の場と守りの空間を分ける館の間取りは、幕府の御所や管領の屋敷と同じ型で、京極氏が幕府に近い格を持っていたことが分かる。館の運営は上坂・井口・浅見ら湖北の有力家臣に支えられたが、上坂家信と跡を継いだ信光が力を強め、ほかの家臣との対立が増していった。
梅本坊公事から御屋形様へ——家臣が跡継ぎを決め、十年後には主君を饗応した
1523年 上坂氏と浅井氏らが、高清の跡継ぎをめぐって争った
1523年、京極高清の跡継ぎをめぐって、家臣が二つに割れた。高清には長男の高延(のちの高広)と二男の高慶(のちの高吉)がいて、高清は高慶を跡継ぎにしようと考え、これを推す上坂信光と、高延を立てる浅井亮政・三田村・堀・今井らが対立する。この後継問題は大吉寺(長浜市の山寺)の梅本坊で公事(訴訟)として争われた。結果に不満を持った亮政らは浅見貞則を盟主に決起し、信光の居城今浜城(今の長浜市)を攻め落とす。信光は高清の一族とともに上平寺城に入ったが、高延を城に残し、高慶を連れて尾張へ落ちた。高延は尾上城(長浜市湖北町)に迎えられて京極氏を継ぐ。決起のあとは浅見氏が力を強め、京極氏の家中では再び家臣どうしの争いが起きた。守護の相続を家臣が決めたこの一件で、京極氏館は焼けて廃絶したと考えられている。
1525〜1528年 六角定頼が介入し、小谷城が落ち、兄弟が戦った
1525年、六角定頼が大軍で小谷城を攻めた。高清はこのときまでに上平寺を出て、亮政に迎えられて小谷城に移っていた。移った年は史料では確定できない。亮政は主君の高清らとともに守ったが城は落ち、美濃へ逃れる。1528年、高慶が内保河原(長浜市)で兄の高延と戦った。高延を立てる亮政と、高慶を支持する六角定頼の争いで、亮政が勝つ。
1534年 御屋形様——亮政が小谷城で高清父子を饗応した
1534年8月20日、浅井亮政は小谷城下の清水谷の館に京極高清・高延の父子と一族、主だった家臣を招き、2日間にわたって饗応した。献立にはサザエやサメ、イルカ、クジラも並んだと伝わる。亮政は高清を「御屋形様」と呼び、自分が京極家中でいちばん大切な家臣であり、実力者であることを示した。1538年、高清は上平寺城主として71歳で没し、その4年後に亮政も53歳で没する。
久政の上に立った高広——京極氏はまだ浅井氏の主君だった
1549年 高広——弟と組んで久政を攻め、和解して行政を委ねさせた
京極高広(高延)は、亮政の死後、敵対していた弟の高慶と組んで浅井久政を攻め、1549年、小谷城下に迫った。久政は和解を求め、高広のもとで行政の実務を行うことになる。久政の代までは、京極氏も坂田郡の南部を拠点に、湖北の「御屋形様」として一定の力を保った。
1559年 高慶の再興の呼びかけ——兵は集まらなかった
1559年9月、高慶は六角義賢と結んで京極家の再興を図り、旧臣に決起を呼びかけた。しかし兵は集まらず、挙兵には至らなかった。このころから京極兄弟の動きはいったん記録から消える。弟の高慶はのちに織田信長に従うが、兄の高広がその後どうなったかは史料では確定できない。
高次の再興と江戸——信長に従った父の子が大名に戻り、若狭・出雲・讃岐へ移って明治を迎えた
1568年、上洛の途中の織田信長が柏原の成菩提院に泊まったとき、京極高吉(高慶)は北近江守護の家柄を捨てて信長に従い、嫡男の高次を人質に出すことになった。高吉は足利義昭を将軍に立てる働きにも力を尽くしている。信長にとっても、のちの秀吉にとっても、近江を治めるうえで名門の京極家を立て直しておくことは必要だった。
1563〜1573年 人質の高次——岐阜で育ち、奥島5千石を得た
京極高次は、1563年に小谷城の京極丸で生まれたとされる。父は高吉、母は浅井長政の姉にあたる。1568年に人質と決まった高次は、1570年、8歳で岐阜城へ送られ、信長から500石を与えられる。1573年、槇島城の戦い(義昭が信長に敗れて京都を追われた戦い)の功で蒲生郡奥島(近江八幡市)5千石を得た。同じ年、浅井氏の小谷城が落ちる。
1582〜1587年 本能寺のあと——長浜城を落としたが光秀が敗れ、姉の縁で戻った
1582年の本能寺の変のあと、高次は明智光秀に味方し、北近江の回復を目指して秀吉の長浜城を攻め落としたが、光秀が秀吉に敗れたため清滝寺(米原市)に身を隠し、柴田勝家を頼った。1583年、賤ヶ岳で勝家が敗れると、高次は放浪の身になる。若狭の武田元明に嫁いでいた姉の龍子を頼ったが、武田氏は秀吉に滅ぼされ、龍子は秀吉の側室(松の丸殿)になった。龍子の嘆願で高島郡に2千5百石を与えられ、1587年に大溝城1万石。このとき秀吉の命で、浅井長政の次女・初と結婚した。
1595年 大津6万石——琵琶湖の港の城主になった
高次は八幡山城2万8千石を経て、1595年9月、大津城6万石の城主になった。大津は京都の入口にあたる琵琶湖の港で、城主は浅野・増田・新庄と替わり、高次はその四人目にあたる。姉の龍子と妻の初を通じて豊臣家と、初の妹・江(徳川秀忠の妻)を通じて徳川家と、高次は双方に縁戚を持つ大名になっていた。
大津籠城——1600年、西軍を足止めして若狭一国を得た
1600年9月 西軍から引き返して大津城に籠もり、弟を家康に付けた
1600年、高次はいったん西軍に加わって出陣したが、9月2日に大津城へ引き返し、東軍に付いて籠城した。弟の高知は家康のもとへ行かせている。攻め手は毛利元康・立花宗茂らで、1万5千ほどと伝わる。守る側は3千余。総攻撃から7日目の9月15日に開城し、高次は高野山へ入った。同じ日、関ヶ原では東軍が勝っていた。
1600〜1609年 若狭8万5千石——小浜城を築き、47歳で没した
1600年、家康は西軍の大軍を大津に引きつけた功を認め、高次に若狭一国8万5千石を与えた。1601年、高次は山城の後瀬山城を廃して海辺に小浜城の築城を始め、1607年に町割りを行う。1609年、高次は47歳で没し、初は出家して常高院と名乗った。
江戸の京極家——松江で一度途切れ、丸亀と丹後の分家が明治まで続いた
1634〜1637年 忠高——出雲へ戻り、一代3年で断絶した
京極忠高は、1609年に17歳で小浜藩主を継ぎ、25年にわたって若狭を治めた。1634年、出雲・隠岐26万石余の大名として松江へ移る。かつて京極氏が守護を務めた国への帰還だった。1635年の洪水で斐伊川が流れを変えて宍道湖へ注ぐようになると、忠高は川に大土手を築き、官名の若狭守から「若狭土手」と呼ばれる。1637年に忠高が没すると、跡継ぎがなく、京極氏の松江藩は一代3年で断絶した。翌年、松平直政が入り、土手は松平氏の代に完成する。
1658〜1869年 高和——龍野から丸亀へ、宗家は明治まで続いた
1637年に忠高の家が絶えると、幕府は大津での高次の功を惜しみ、高次の甥の高和に播磨龍野6万石を与えて宗家を残した。1658年、高和は讃岐丸亀6万石余へ移り、1660年に丸亀城の天守が完成する。三代高或のとき多度津藩1万石を分家し、高和から朗徹まで丸亀藩主として続いて、1869年に版籍奉還を迎えた。
1622〜1869年 丹後の三家——高知の遺領が分かれ、豊岡と峰山が明治まで続いた
高次の弟の高知は関ヶ原のあと丹後を得たが、1622年に高知が没すると、領地は宮津・田辺・峰山の三家に分かれた。宮津の京極家は三代で改易(大名の家をとりつぶすこと)となり、旗本として残った。田辺の京極家は三代にわたって城下を治め、1668年に但馬豊岡へ移る。豊岡と峰山の二家は藩主として明治まで続いた。
京極氏の疑問に答える
三管領と四職は、何が違う?
出す役職が違う。三管領は将軍を補佐する管領を出す細川・斯波・畠山の三家で、四職は侍所の長官を出す四家を指す。どちらも室町幕府の重臣の家格を指す言葉で、合わせて「三管四職」と呼ばれる。
小谷城の「京極丸」は、京極氏と関係がある?
ある。小谷城の曲輪の一つの名で、浅井氏が京極高清父子を迎えて住まわせたことによるとされる。家臣の城の中に主家の当主が住むという浅井氏と京極氏の関係を、そのまま名前に残している。
京極氏の家紋は?
四つの正方形を並べた「四つ目」の紋を使った。宮津の京極家は平四つ目で、多度津藩の陣屋跡からは、四つ目を斜めに立てた隅立て四つ目の紋を付けた瓦が出土している。
京極氏の墓や城は、今どこに残っている?
菩提寺の清滝寺徳源院(滋賀県米原市清滝)に、京極家墓所が国の史跡として残る。家祖の氏信が一寺を建て、1295年に没して墓が営まれたのが始まりで、応仁の乱以後は内紛と浅井氏の台頭で寺も衰えた。
1672年、丸亀藩主の高豊が清滝の周辺と播磨の領地を交換して寺を立て直し、近隣に散らばっていた中世の当主18基の宝篋印塔を上段に集めた。下段には高次の石造りの霊屋を中心に、丸亀藩主と多度津藩主の墓が並ぶ。鎌倉時代以来の先祖の墓を一堂に集めて一族の墓所にした大名家は京極家だけで、丸亀の藩主は讃岐ではなく、この米原に葬られた。
城の跡も残る。高清が構えた京極氏館跡・上平寺城跡・弥高寺跡は「京極氏遺跡」として国の史跡で、館跡には庭園の跡が残り、一族の墓とされる五輪塔5基(「永正五年」=1508年の銘)が伊吹神社の西側にある。
京極氏から次にたどる
参考にした資料
- 米原市教育委員会『京極家激闘譜—京極氏の遺跡、信仰、文化—』(佐々木氏の分かれ・番場の戦い・応仁の乱と持清・1470年からの家督争いと逃亡先・弥高寺の陣・1505年の和睦・上平寺の館と家臣屋敷・上坂氏の専横・梅本坊公事と亮政の決起・1525年の小谷城落城・内保河原の戦い・1534年の饗応と御屋形様・高清と亮政の没年・1549年の高広と久政・1559年の再興の呼びかけ・高吉の恭順と人質・高次の生涯・高次の年表(1570年の岐阜行き・1600年9月2日の大津城帰着)・大津籠城・忠高の松江と断絶・高和の龍野と丸亀・丹後三家・清滝寺の衰えと高豊の再興・墓所の構成・京極氏館跡の五輪塔)
- 米原市「京極道誉」(五代目当主・後醍醐天皇の隠岐配流と尊氏への帰参・若狭に続く1338年の近江守護・飛騨・出雲・隠岐の守護・六角時信の仲介依頼・婆娑羅大名)
- 米原市「京極高次」(1568年の成菩提院での恭順と人質・足利義昭の擁立・高次の生誕と京極丸・岐阜の人質と500石・奥島5千石・本能寺後の長浜城攻めと清滝寺・勝家を頼ったこと・龍子と松の丸殿・高島郡2千5百石・大溝1万石・八幡山・大津・弟高知を家康へ・若狭8万5千石・小浜城・名門再興が近江支配に必要だったこと)
- 小浜市「京極高次・お初(常高院)関連年表」(1563年の生誕と母・1573年の奥島・1582年の光秀加担・1584年の高島2千5百石・1587年の大溝1万石と初との婚姻・1595年の大津6万石・1600年の籠城と西軍1万5千・若狭8万5千石・1601年の小浜城・1607年の町割り・1609年の没・忠高の1634年松江26万4千石)
- 小浜市「常高院、杉田玄白、中川淳庵、綱女」(初が高次と大津籠城を共にしたこと・高次の没後に常高院となったこと)
- 文化庁 地域観光資源の多言語解説文データベース「京極家と小浜藩」(1600年に若狭が高次に与えられたこと・後瀬山城に代わる小浜城・1609年の没・忠高の1634年松江移封)
- 大津市歴史博物館 常設展示「近世・大津籠城」(毛利軍1万5千・守兵3千余・総攻撃7日目の9月15日開城)
- 大津市歴史博物館「第9回 大津城の復元」(大津城の歴代城主・西軍を足止めした評価)
- 大津市歴史博物館 企画展「京極高次」(1595年9月の大津城主就任・豊臣と徳川の双方と縁戚だったこと)
- 滋賀県教育委員会 埋蔵文化財活用ブックレット9『京極氏遺跡群—京極氏館跡・上平寺城跡・弥高寺跡—』(京極氏のあゆみ・道誉と幕府要職・応仁の乱と持清・上平寺の守護所と城下町・近江最古の城下町・上平寺城の1570年開城・清瀧寺徳源院と墓所の二段構成・館跡の五輪塔と永正五年銘)
- 滋賀県『坂田郡の中世城館/近江の戦国時代① 京極氏と六角氏』(佐々木氏の四氏分流・系図に見える持清—勝秀—高清の続柄・持清の近江守護・1470年以後の内乱と1505年の日光寺講和・館の構成が幕府や管領邸と同型であること・上坂氏の専横・大吉寺梅本坊公事・上平寺城の境目の城化)
- 長浜市『小谷城跡 保存管理計画』(家臣の記録に見える1470年の内訌後の被官区分と浅井氏の位置・梅本坊公事と国人一揆・浅見氏の台頭・1534年の饗応の献立・京極丸の名の由来)
- 長浜市 戦国大河ながはま「浅井三姉妹の波乱の人生と小谷城落城に思いを馳せる」(京極丸の名が浅井氏と京極氏のつながりを示すこと・初の妹の江が徳川秀忠の正室になったこと)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「近江源氏佐々木氏が六角氏と京極氏に分かれた時期と経緯を知りたい」(1241年の信綱の所領分与・泰綱の南近江六郡と六角東洞院の館・氏信の北近江六郡と柏原の別邸と京極高辻の館・名の由来)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「近江国の守護であった六角氏と京極氏の歴代当主について」(氏信から朗徹までの歴代当主・1658年の高和の丸亀移封)
- 高山市「高山の歴史」(信綱の四男氏信を祖とすること・京極高辻の館から「京極」と号したこと・飛騨守護としての京極氏)
- 兵庫県立歴史博物館「ひょうご伝説紀行 用語解説」(四職=侍所頭人に任じられる赤松・一色・山名・京極の四家・三管との対比)
- 松江市 松江市史講座「室町時代の京極氏と出雲支配」(宇多源氏佐々木氏の惣領家六角と分家京極・出雲守護をめぐる山名氏との争いと1391年の明徳の乱・家格相伴衆と侍所頭人・1456年の記録に見える家臣団と京極六人衆)
- 松江市『令和5年版 松江市観光白書 資料編』年表(1392年の高詮の出雲守護と尼子持久の守護代・1634年の忠高入府・1637年の没と一代3年での断絶・1638年の松平直政)
- 松江市『松江市歴史的風致維持向上計画 第1章 背景』(京極氏の下で尼子氏が守護代として力を伸ばしたこと・1635年の洪水と斐伊川・若狭土手)
- 島根県「いにしえからの挑戦状 第2章 正解発表」(1634年の入国・斐伊川の大土手が若狭土手と呼ばれること・断絶により完成は松平氏の代になったこと)
- 島根県立古代出雲歴史博物館 企画展「戦国大名 尼子氏の興亡」(尼子氏が近江の出で本姓を佐々木氏としたこと・応仁の乱で東軍の京極氏の守護代として尼子清貞が反京極勢力と戦ったこと)
- 島根県「富田城跡」(尼子経久が守護の京極氏をしのいで出雲を握ったこと)
- 丸亀市「丸亀城の歴史」(1658年の高和入封と6万石余・1660年の天守完成・高和から朗徹までの藩主・1869年の版籍奉還)
- 丸亀市「中津万象園・京極高朗墓所」(藩主代々の墓所が米原市徳源院であること)
- 多度津町教育委員会『たどつのむかし』Vol.20(多度津藩が京極氏の分家であること・陣屋跡から出土した隅立て四つ目紋の瓦)
- 宮津市「宮津ゆかりの3武将【一色氏・細川氏・京極氏】」(関ヶ原後の高知の丹後支配・死後の三分割・平四つ目の家紋)
- 京都府 ミュージアムフォーラム京都『宮津城AtoZ』(宮津の京極家が三代で改易となったこと)
- 舞鶴市「舞鶴ふるさと発見館だより 令和4年11月号」(1622年の高知の死去と高広・高三・高通への分与・田辺の京極家が3代続いたこと)
- 豊岡市「市町合併までの各まちの歴史」(1668年に高盛が田辺から豊岡へ移ったこと)
- 京丹後市「常立寺峯山藩主京極家墓所」(1622年の高通の陣屋と約1万3千石・廃藩置県まで12代続いたこと)
- 江東区「峰山藩主京極家墓」(京極家が侍所頭人に任じられる幕府の重臣=四職であったこと・高知の生没年1572〜1622)
- 米原市「清滝寺京極家墓所」(高豊による墓所整備・上段18基・下段の高次霊屋と丸亀・多度津藩主の墓)
- 文化庁 文化遺産オンライン「清滝寺京極家墓所」(国史跡指定・氏信が一寺を建て1295年に没して墓が営まれたこと・上下二段の構成)
- 米原市「京極氏遺跡—京極氏城館跡・弥高寺跡—」(高清が15世紀末に政治拠点とした京極氏館・上平寺城の標高669メートル・国史跡)
- 米原市「徳源院」(佐々木京極氏の菩提寺であること)