勢力ページ / 北近江の守護から、若狭・出雲・讃岐の大名へ

京極氏きょうごくし

京極氏(京極家)は、北近江(今の滋賀県北部)を地盤にした一族です。

京極氏とは?

近江源氏佐々木氏ささきしから分かれた北近江の守護で、内紛で浅井氏に実権を奪われ、高次たかつぐが再興して丸亀藩主として続いた家。本家の六角氏は南近江、分家の京極氏は北近江の守護でした。室町幕府では、侍所さむらいどころ(京都の警察と裁判を扱う役所)の長官を出す四職ししきの一家に数えられました。江戸時代も大名として続き、明治まで残りました。

1241年、佐々木信綱が所領を息子たちに分け、四男の氏信が北近江と京都の京極の館を受けて京極氏になります。道誉が足利尊氏に付いて若狭・近江など五か国の守護となり、1469年には持清が本家の六角氏に代わって近江一国の守護になります。
1470年、持清の死から家督争いが始まり、1505年に持清の孫の高清が和睦して上平寺に守護所を構えます。1523年、後継争い(梅本坊公事)に家臣が割って入り、盟主に立てられた浅見あさみ氏が力を強めます。1534年、浅井亮政が高清父子を饗応し、実権を握ります。
1568年、高吉が織田信長おだ のぶながに従い、子の高次が1600年の大津籠城で若狭8万5千石を得ます。子の忠高は松江で跡継ぎなく断絶しますが、甥の高和が龍野から丸亀へ移り、明治まで続きます。

当主の流れ

当主一言解説
京極氏信うじのぶ家祖。佐々木信綱の四男で、北近江六郡と京都の京極高辻の館を受けた。
京極高氏たかうじ道誉どうよ五代目。足利尊氏に付き、若狭・近江・飛騨・出雲・隠岐の守護になった。
京極高詮たかのり1392年に出雲守護。尼子持久を守護代として富田城に置いた。
京極持清もちきよ応仁の乱の当主。東軍に付き、1469年に近江一国の守護になった。
京極高清たかきよ持清の孫。家督争いを1505年に収め、上平寺に守護所を構えた。1538年没。
京極高広たかひろ高延たかのぶ高清の長男。1523年に浅井亮政らに立てられて家を継いだ。
京極高吉たかよし高慶たかよし高清の二男。1568年に織田信長に従い、子の高次を人質に出した。
京極高次高吉の嫡男。1600年の大津籠城で若狭一国を得た。1609年没。
京極忠高ただたか高次の子。1634年に松江へ移り、1637年に跡継ぎなく没した。
京極高和たかかず高次の甥。龍野を経て1658年に丸亀へ移り、宗家を継いだ。
京極朗徹あきゆき丸亀藩最後の藩主。1869年に版籍奉還。

家のはじまり——佐々木氏の分家が四職に数えられ、本家の六角氏を追い越した

1241年、近江の守護だった佐々木信綱のぶつなは、所領を息子たちに分けた。三男の泰綱やすつなは近江守護の職と南近江六郡、京都の六角東洞院ろっかくひがしのとういんの館を受けて六角氏に、四男の氏信は北近江六郡と坂田郡柏原かしわばら(今の米原市)の別邸、京都の京極高辻きょうごくたかつじの館を受けて京極氏になる。「京極」の名は、この京都の館の場所から来ている。本家は六角氏で、京極氏は分家だった。

1333年 道誉——番場で北条方を破り、足利尊氏に付いた

京極高氏(道誉)は、後醍醐天皇が隠岐へ流されるときは幕府方の将として付き従ったが、1333年に足利尊氏が挙兵するといち早く駆けつけ、以後は一貫して行動を共にした。同じ年、道誉は伊吹山の寺の僧兵らとともに番場ばんば(米原市)で北条方の軍を破り、京都から逃れてきた六波羅探題ろくはらたんだい(幕府の京都の役所)の北条仲時なかときら430人は番場の蓮華寺れんげじで自刃した。本家の六角時信ときのぶは最後まで北条方に付き、足利方へ転じるときに道誉に仲介を頼んでいる。派手な振る舞いで「婆娑羅ばさら大名」と呼ばれた道誉のもとで、本家と分家の力関係はこのとき入れ替わった。

1338年〜 守護職と家格——五か国の守護になり、四職の一家に数えられた

道誉は京極氏として初めて一国の守護(若狭)になり、1338年に近江守護、やがて飛騨・出雲・隠岐の守護も得た。室町幕府のもとで京極氏は、侍所の長官(頭人とうにん)を出す赤松・一色・山名・京極の四家、いわゆる四職の一つに数えられた。幕府の重臣の家格で、将軍の宴席に同席できる相伴衆しょうばんしゅうでもあった。四職は役職の名ではなく家の格の呼び名なので、その代の当主が侍所の長官でなくても、京極氏は四職の家であり続けた。

出雲と応仁の乱——遠い国は守護代に任せ、近江では本家と戦った

1392年 出雲——尼子氏を守護代として富田城に置いた

京極氏が道誉の代に得た出雲の守護職は、南北朝のあいだ山名氏との争いになり、1391年の明徳の乱めいとくのらん(山名氏が幕府に敗れた戦い)を経てようやく京極氏のものとして固まった。1392年、京極高詮が出雲守護となり、近江の出で京極氏と同じ佐々木氏から分かれた尼子持久もちひさを守護代として富田城とだじょうに入れる。京極氏は近江と京都を本拠にしたため、出雲の現地支配は尼子氏が担った。応仁の乱では、尼子清貞きよさだが東軍に付いた京極氏の守護代として出雲の反京極勢力と戦った。その子の尼子経久あまごつねひさが、のちに守護の京極氏をしのいで出雲を握る。出雲・隠岐の守護職は、近江で家督争いが続くあいだも一族の京極政経まさつねが持っていたが、いつ京極氏の手を離れたかは史料では確定できない。

1467〜1469年 持清——応仁の乱で東軍に付き、近江一国の守護になった

京極持清は、1467年に応仁の乱が始まったとき59歳で、幕府の侍所の長官だった。北近江・飛騨・出雲・隠岐の兵を率いて東軍の細川方に付く。本家の六角高頼たかよりは10歳前後で西軍の主力に組み込まれ、佐々木一族の本家と分家が敵味方に分かれた。持清は六角氏の観音寺城かんのんじじょうを攻めて守護代の伊庭行隆いばゆきたかを敗死させ、翌年までに近江一国を制圧した。1469年、幕府は六角氏に代えて持清を近江守護とする。道誉以来、130年ぶりの近江一国の守護だった。

内紛と浅井——家督争いが35年続き、後継争いに割って入った家臣が実権を握った

1470年、持清が病で没した。応仁の乱の最中に持清と子の勝秀かつひでを相次いで失った京極家では、勝秀の子でまだ幼い高清をめぐって家督争いが起こる。高清を後見する叔父の政光まさみつと、出雲・隠岐の守護だった政経・材宗きむねの父子が対立し、重臣どうしの主導権争いも重なった。

1470〜1505年 家督争い——将軍家と隣国が介入し、高清は何度も北近江を追われた

1470年から始まった争いには、足利将軍家と、隣国の六角・美濃の斎藤・越前の朝倉が介入した。高清は何度も北近江を追われ、敏満寺びんまんじ(多賀町)・三雲みくも(湖南市)・敦賀・坂本・海津かいづ(高島市)へ逃れている。1495年には政経が伊吹山の弥高寺やたかじから兵を進め、翌年には高清が同じ弥高寺に陣を構えた。1505年の冬、日光寺にっこうじ(米原市)で高清と材宗が和睦し、35年の争いが終わる。

1505年 上平寺——美濃との国境に、守護所と城下町を作った

高清は和睦した1505年、柏原の館を廃し、美濃との国境に近い坂田郡上平寺じょうへいじ(米原市)に守護所の京極氏館を構えた。背後の山(標高669メートル)に詰めの城の上平寺城、南に家臣と町人が住む町を置き、近江で最も古い城下町とされる。館には池のある庭園と蔵屋敷があり、周りには若宮・多賀・浅見・黒田ら家臣の屋敷が並んだ。住まいと儀礼の場と守りの空間を分ける館の間取りは、幕府の御所や管領の屋敷と同じ型で、京極氏が幕府に近い格を持っていたことが分かる。館の運営は上坂こうさか・井口・浅見ら湖北の有力家臣に支えられたが、上坂家信いえのぶと跡を継いだ信光のぶみつが力を強め、ほかの家臣との対立が増していった。

梅本坊公事から御屋形様へ——家臣が跡継ぎを決め、十年後には主君を饗応した

1523年 上坂氏と浅井氏らが、高清の跡継ぎをめぐって争った

1523年、京極高清の跡継ぎをめぐって、家臣が二つに割れた。高清には長男の高延たかのぶ(のちの高広)と二男の高慶たかよし(のちの高吉)がいて、高清は高慶を跡継ぎにしようと考え、これを推す上坂信光と、高延を立てる浅井亮政あざいすけまさ・三田村・堀・今井らが対立する。この後継問題は大吉寺だいきちじ(長浜市の山寺)の梅本坊うめもとぼう公事くじ(訴訟)として争われた。結果に不満を持った亮政らは浅見貞則あさみさだのりを盟主に決起し、信光の居城今浜城いまはまじょう(今の長浜市)を攻め落とす。信光は高清の一族とともに上平寺城に入ったが、高延を城に残し、高慶を連れて尾張へ落ちた。高延は尾上城おのえじょう(長浜市湖北町)に迎えられて京極氏を継ぐ。決起のあとは浅見氏が力を強め、京極氏の家中では再び家臣どうしの争いが起きた。守護の相続を家臣が決めたこの一件で、京極氏館は焼けて廃絶したと考えられている。

1525〜1528年 六角定頼が介入し、小谷城が落ち、兄弟が戦った

1525年、六角定頼が大軍で小谷城を攻めた。高清はこのときまでに上平寺を出て、亮政に迎えられて小谷城に移っていた。移った年は史料では確定できない。亮政は主君の高清らとともに守ったが城は落ち、美濃へ逃れる。1528年、高慶が内保河原うちぼがわら(長浜市)で兄の高延と戦った。高延を立てる亮政と、高慶を支持する六角定頼の争いで、亮政が勝つ。

1534年 御屋形様——亮政が小谷城で高清父子を饗応した

1534年8月20日、浅井亮政は小谷城下の清水谷きよみずだにの館に京極高清・高延の父子と一族、主だった家臣を招き、2日間にわたって饗応した。献立にはサザエやサメ、イルカ、クジラも並んだと伝わる。亮政は高清を「御屋形様おやかたさま」と呼び、自分が京極家中でいちばん大切な家臣であり、実力者であることを示した。1538年、高清は上平寺城主として71歳で没し、その4年後に亮政も53歳で没する。

久政の上に立った高広——京極氏はまだ浅井氏の主君だった

1549年 高広——弟と組んで久政を攻め、和解して行政を委ねさせた

京極高広(高延)は、亮政の死後、敵対していた弟の高慶と組んで浅井久政あざいひさまさを攻め、1549年、小谷城下に迫った。久政は和解を求め、高広のもとで行政の実務を行うことになる。久政の代までは、京極氏も坂田郡の南部を拠点に、湖北の「御屋形様」として一定の力を保った。

1559年 高慶の再興の呼びかけ——兵は集まらなかった

1559年9月、高慶は六角義賢よしかたと結んで京極家の再興を図り、旧臣に決起を呼びかけた。しかし兵は集まらず、挙兵には至らなかった。このころから京極兄弟の動きはいったん記録から消える。弟の高慶はのちに織田信長に従うが、兄の高広がその後どうなったかは史料では確定できない。

高次の再興と江戸——信長に従った父の子が大名に戻り、若狭・出雲・讃岐へ移って明治を迎えた

1568年、上洛の途中の織田信長が柏原の成菩提院じょうぼだいいんに泊まったとき、京極高吉(高慶)は北近江守護の家柄を捨てて信長に従い、嫡男の高次を人質に出すことになった。高吉は足利義昭あしかが よしあきを将軍に立てる働きにも力を尽くしている。信長にとっても、のちの秀吉にとっても、近江を治めるうえで名門の京極家を立て直しておくことは必要だった。

1563〜1573年 人質の高次——岐阜で育ち、奥島5千石を得た

京極高次は、1563年に小谷城の京極丸で生まれたとされる。父は高吉、母は浅井長政あざい ながまさの姉にあたる。1568年に人質と決まった高次は、1570年、8歳で岐阜城へ送られ、信長から500石を与えられる。1573年、槇島城まきしまじょうの戦い(義昭が信長に敗れて京都を追われた戦い)の功で蒲生郡奥島おくしま(近江八幡市)5千石を得た。同じ年、浅井氏の小谷城が落ちる。

1582〜1587年 本能寺のあと——長浜城を落としたが光秀が敗れ、姉の縁で戻った

1582年の本能寺の変のあと、高次は明智光秀あけち みつひでに味方し、北近江の回復を目指して秀吉の長浜城を攻め落としたが、光秀が秀吉に敗れたため清滝寺せいりゅうじ(米原市)に身を隠し、柴田勝家しばた かついえを頼った。1583年、賤ヶ岳で勝家が敗れると、高次は放浪の身になる。若狭の武田元明もとあきに嫁いでいた姉の龍子たつこを頼ったが、武田氏は秀吉に滅ぼされ、龍子は秀吉の側室(松の丸殿まつのまるどの)になった。龍子の嘆願で高島郡に2千5百石を与えられ、1587年に大溝城おおみぞじょう1万石。このとき秀吉の命で、浅井長政の次女・初と結婚した。

1595年 大津6万石——琵琶湖の港の城主になった

高次は八幡山城2万8千石を経て、1595年9月、大津城6万石の城主になった。大津は京都の入口にあたる琵琶湖の港で、城主は浅野・増田・新庄と替わり、高次はその四人目にあたる。姉の龍子と妻の初を通じて豊臣家と、初の妹・江(徳川秀忠とくがわ ひでただの妻)を通じて徳川家と、高次は双方に縁戚を持つ大名になっていた。

大津籠城——1600年、西軍を足止めして若狭一国を得た

1600年9月 西軍から引き返して大津城に籠もり、弟を家康に付けた

1600年、高次はいったん西軍に加わって出陣したが、9月2日に大津城へ引き返し、東軍に付いて籠城した。弟の高知たかともは家康のもとへ行かせている。攻め手は毛利元康もとやす・立花宗茂むねしげらで、1万5千ほどと伝わる。守る側は3千余。総攻撃から7日目の9月15日に開城し、高次は高野山へ入った。同じ日、関ヶ原では東軍が勝っていた。

1600〜1609年 若狭8万5千石——小浜城を築き、47歳で没した

1600年、家康は西軍の大軍を大津に引きつけた功を認め、高次に若狭一国8万5千石を与えた。1601年、高次は山城の後瀬山城のちせやまじょうを廃して海辺に小浜城の築城を始め、1607年に町割りを行う。1609年、高次は47歳で没し、初は出家して常高院じょうこういんと名乗った。

江戸の京極家——松江で一度途切れ、丸亀と丹後の分家が明治まで続いた

1634〜1637年 忠高——出雲へ戻り、一代3年で断絶した

京極忠高は、1609年に17歳で小浜藩主を継ぎ、25年にわたって若狭を治めた。1634年、出雲・隠岐26万石余の大名として松江へ移る。かつて京極氏が守護を務めた国への帰還だった。1635年の洪水で斐伊川ひいかわが流れを変えて宍道湖へ注ぐようになると、忠高は川に大土手を築き、官名の若狭守わかさのかみから「若狭土手」と呼ばれる。1637年に忠高が没すると、跡継ぎがなく、京極氏の松江藩は一代3年で断絶した。翌年、松平直政なおまさが入り、土手は松平氏の代に完成する。

1658〜1869年 高和——龍野から丸亀へ、宗家は明治まで続いた

1637年に忠高の家が絶えると、幕府は大津での高次の功を惜しみ、高次の甥の高和に播磨龍野たつの6万石を与えて宗家を残した。1658年、高和は讃岐丸亀6万石余へ移り、1660年に丸亀城の天守が完成する。三代高或たかもちのとき多度津たどつ藩1万石を分家し、高和から朗徹まで丸亀藩主として続いて、1869年に版籍奉還を迎えた。

1622〜1869年 丹後の三家——高知の遺領が分かれ、豊岡と峰山が明治まで続いた

高次の弟の高知は関ヶ原のあと丹後を得たが、1622年に高知が没すると、領地は宮津・田辺・峰山みねやまの三家に分かれた。宮津の京極家は三代で改易かいえき(大名の家をとりつぶすこと)となり、旗本として残った。田辺の京極家は三代にわたって城下を治め、1668年に但馬豊岡へ移る。豊岡と峰山の二家は藩主として明治まで続いた。

京極氏の疑問に答える

三管領と四職は、何が違う?

出す役職が違う。三管領は将軍を補佐する管領を出す細川・斯波・畠山の三家で、四職は侍所の長官を出す四家を指す。どちらも室町幕府の重臣の家格を指す言葉で、合わせて「三管四職」と呼ばれる。

小谷城の「京極丸」は、京極氏と関係がある?

ある。小谷城の曲輪の一つの名で、浅井氏が京極高清父子を迎えて住まわせたことによるとされる。家臣の城の中に主家の当主が住むという浅井氏と京極氏の関係を、そのまま名前に残している。

京極氏の家紋は?

四つの正方形を並べた「四つ目」の紋を使った。宮津の京極家は平四つ目で、多度津藩の陣屋跡からは、四つ目を斜めに立てた隅立て四つ目の紋を付けた瓦が出土している。

京極氏の墓や城は、今どこに残っている?

菩提寺の清滝寺徳源院とくげんいん(滋賀県米原市清滝)に、京極家墓所が国の史跡として残る。家祖の氏信が一寺を建て、1295年に没して墓が営まれたのが始まりで、応仁の乱以後は内紛と浅井氏の台頭で寺も衰えた。

1672年、丸亀藩主の高豊たかとよが清滝の周辺と播磨の領地を交換して寺を立て直し、近隣に散らばっていた中世の当主18基の宝篋印塔ほうきょういんとうを上段に集めた。下段には高次の石造りの霊屋たまやを中心に、丸亀藩主と多度津藩主の墓が並ぶ。鎌倉時代以来の先祖の墓を一堂に集めて一族の墓所にした大名家は京極家だけで、丸亀の藩主は讃岐ではなく、この米原に葬られた。

城の跡も残る。高清が構えた京極氏館跡・上平寺城跡・弥高寺跡は「京極氏遺跡」として国の史跡で、館跡には庭園の跡が残り、一族の墓とされる五輪塔5基(「永正五年」=1508年の銘)が伊吹神社の西側にある。

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参考にした資料